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「パンデマニア」第2部 チャールズ・アイゼンスタイン

訳者より:コロナウイルスへの対応やワクチンを巡って社会は分断され、意見の対立から罵倒や暴力の虐待関係にエスカレートすることさえあります。家族さえ引き裂いてしまうマグマのような情念が人間心理の根底にあって、コロナ禍はその存在を明るみへと引っ張り出したのです。チャールズ・アイゼンスタインの「パンデマニア」シリーズ第2回。(第1回はこちら。)


パンデマニア 第2部

虐待と分断、一体感の約束についての詳述

チャールズ・アイゼンスタイン著
2022年7月7日

パンデマニア・シリーズの第1部に寄せられたコメントの多様さと意味合いに、私は感銘を受けました。心を揺さぶられました。このような問題は激しい感情を呼び起こしますが、人々は非難や独善、相手を非人間化するような呼び方をほとんど交えずに、自分の体験や感想、意見を書くことができていました。

みんながほぼ同じ意見のネット掲示板でさえ、そのような書き方を見ることはほとんどありませんし、ましてや非常に多くの見方が表れるこの場ではなおのことです。そのことから私は大きな希望を持ちました。お分かりでしょう、もし人類がある程度の平和と一致に到達できないのなら、より良い未来への希望はありません。なぜでしょう? それは私たちの抱える主な問題が自ら作り出したものだからです。生態系、社会、経済のあらゆる問題に対する解決策はすぐにでも手に入りますが、それは私たちが合意に達すればの話です。

この希望は、私たちの行く先に長い長い道のりが待っているという冷めた気付きと同居しています。別の話でこのことを説明しましょう。似たような話を何十回と聞きました。つい先日ある女性が悲痛な思いを私に書き送ってきました。彼女の名前をジェンとしましょう。彼女は末期の肝臓ガンです。もう治療の手段はなく、ガンは血流とリンパに乗って転移しており、彼女はまもなくホスピスに入ります。彼女には娘がいますが、彼女がワクチン接種していないことを理由に孫の赤ん坊に会わせようとしません。彼女はこう書いています。

 私の娘はヒステリックに私を侮辱し、非難し、追加接種を受けるよう指図してきます。彼女が私に言ったのは、ここに書くのもはばかられるような意地悪なことでした。
 何人もの医師が私の病歴と最近の検査結果を見直して、追加接種を受けるべきではないと強く助言しました。
 それでも娘は聞く耳を持ちません。一人の医師を医療ミスがあったとして報告すると脅し、別の医師を「ニューエイジかぶれの偽医者」と見なしています。
 ですから今、私は孫が初めて歩く姿を見ないまま死ぬことになるという可能性に直面しています。現時点で、あなたが挙げた(虐待の継続する)4つの兆候を娘は全て示しているので、これは続くでしょう。私の心を痛めつけるのは彼女が私に使う極めて暴力的な言葉で、あまりにひどいので同じ部屋にいたら危険に感じるのではないかと思うぐらいです。彼女は私のように「陰謀」を信じ社会や自分の子や孫さえも危険に陥れる人と付き合うことはありません。私は「狂人」なのです。
 私がこのような形で死を迎えようとしているのはほとんど信じられません。私と娘はいつも仲良しだったのに。
 これは私個人とって悲劇であるだけでなく、死にゆく私を前に綱渡りをしている家族全体に重大な影響を与える悲劇です。非常に怒ってムキになっている夫に私がどんな痕跡を残すか、想像もできません。彼に泣かされたことは何度もあります。
 私の個人的な話を共有しようと思ったのは、これがまだ続いていると知ってほしかったからです。この数週間、そして今なお、こんなやり取りが続いているのです。

私がこの話を共有するのにはいくつかの理由があります。第一に、ともすれば哲学に偏り過ぎるエッセイを人間味のあるものにするため。第二に、パンデマニアが終わったとは程遠いことを示すため。その煮えたぎるマグマ溜まりは、いつまた政治の領域へと噴出するかもしれません。第三に、読者の心に湧き上がる反射作用を説明したいのです。それはどちらか一方の側を支持するという反射作用です。「その娘は何てひどい人だ!」とか、「無害なワクチンを独り善がりにも体に入れないでいたいから、家族全員が最後に再会するチャンスを台無しにしてまで、自分の正しさを主張するなんて、おばあさんは何て図々しいんだ。」その反射作用は、英雄と悪党、無罪と有罪、加害者と被害者の役を割り振ることで、状況の意味を理解しようとします。これをとりまく大きな問題についての私の意見からすれば、おばあさんを信じて同情するのが私の自然な傾向です。この話を読んで別の結論に至る人もいるかもしれません。でもその別の判断が、虐待被害者の話を信じずに加害者の話を受け入れるという、社会のパターンと一致することに注意してください。

どちらの側も自分の正しさを確信しているに違いないと思います。だからといってこの争いで両者とも同罪だということにはなりません。往々にして、虐待者は被害者に危害を加えることが完全に正当だと考えます。「自業自得だ。」あるいは、「それが彼女自身のためだ、私は彼女を助けているのだ。」私にはこれが良く分かります。何年か前に私は虐待的な関係におちいっていたからです。当時、私のパートナーが固く信じていたのは、私にしつこく辛辣な批判と事細かい指示をするのは当然だということです。私は哀れな状況にありましたが、救われる可能性があるとすれば、私が聞く耳を持つことが必要でした。それを私は大部分しぶしぶながら認めていました。

そんな時に、私のパートナーが自分の正しさを確信していることを誰かが指摘しても、救いにはならなかったでしょう。私に必要だったのは境界線を引くよう促してもらうことでした。そんなわけで私はワクチン未接種者や、社会の全体に対して加えられた虐待の理由づけには、あまり注目したくないと思うのです。しかし私たちが扱っているのは医学的ファシズムという直近の問題を超えたもので、何千年にもわたって繰り返し現れてきたパターンなのです。思いやりのことを、コロナ禍の時代の犯罪を無視することと同じだと見ないで下さい。正気であるために、私たちは全てのデータを取り込む必要があります。人間一人一人の神聖な純潔さは、残酷さや欺瞞、人道に対する罪の全景と並置されねばなりません。

* * *

過失と非難という単純化の物語では、私たちのいる深い混乱を正しく評価できません。同じことがジェンと家族の状況にも当てはまります。それは混乱状態です。その混乱の原因を、完全な正確さで、関係する者の一方か両方の過失のせいにすることはできません。その混乱は社会のより広い物語も発動させますが、その中でワクチン未接種者は頭がおかしく「哀れな状況にあるが、救われる可能性があるとすれば聞く耳を持つことが必要」なのです。これが、隠れている虐待者と被害者の力学を活発化させ悪化させます。その状況は克服不可能に見えます。地球全体を覆うのは克服不可能な状況の小宇宙です。

私がジェンにしてあげられる実践的な助言は何もありませんでした。そのかわりに、私は彼女と家族のためにロウソクを灯すといいました。それはあらゆる理解を超えた平和のロウソクです。それは理性を超えた知識から導かれる希望のロウソクです。

灯したロウソクはいま私の傍らにあります。時折それをちらりと見て、私の書いているのが真実だということを自覚するのです。

私の元々の呼びかけに対するコメントの多くは、希望の喪失や、人間のありように対する絶望、社会の方向性について語ります。ある人はこう書きました。

この心と魂の壮大な進化はどこにあるのでしょう? 私には見えません。私は69歳ですが、私の生涯を通じて人々はずっと同じで、全く変わりませんでした。

別の人はこう書きました。

変革と人類の可能性という福音を追いかけてきた者として、私もまた何の成果もなく面目を失っています。

パンデマニアの時代が浮き彫りにしたのは、裕福な世界に生きている人々の多くには簡単に見えなかったような、人間のありようの醜い面でした。明らかになったのは、私たちの賢明な社会に向かう歩みがどれほどわずかしか進んでいないかということでした。しかし、問題の本質が照らし出されたので、本当の進歩がどこにあるだろうかということも明らかになりました。それこそが、この話に私が対置する希望で、人類のお互いとの一体感の中にある希望です。

私たちの分断の大部分は、お互いを分類し、私たちの同胞を人間の戯画へと落とし込むというやり方から来るものです。それはコロナ時代の全期間を通して確かに起きたことで、そこでは正統派の執行人たちが反対意見の人たちに、陰謀論者やアンチバクサー、トランプ支持者、白人至上主義者、サイコパス、ナルシスト、気違い、いかれ野郎、馬鹿などというレッテルを貼りました。でもそれは医療の自由をテーマにしたネット掲示板でも起き、同じように屈辱的なレッテルをワクチン接種済みの人に貼りました。

ここでワクチン政策の確固とした批判者として話すなら、それは壮大な過ちだと私は思います。道徳的な過ちであると同時に戦略的な過ちでもあり、いずれしっぺ返しを食うことになるでしょう。

「ワクチン接種済みの人」の中には熱心に賛成する人、何も考えずに従う人、半信半疑の人のほかに、仕事や免許や市民権を失いたくないために強要された人々もいることを覚えておきましょう。その全てを1つのカテゴリーに括ってしまうと、その人がワクチン接種を選択するに至った固有の道筋を消し去ってしまいます。そのカテゴリー分けが軽蔑を伴っていると、おおぜいの敵を作り出すことになりますが、それはそもそも存在しない、存在する必要の無い敵なのです。

パンデマニアの影にひそむ精神領域は、そのエネルギーを古来のパターンであるスケープゴート作りから得ていて、そこでは非人間化された生贄を犠牲に差し出すため用意します。このことを私は2021年にルネ・ジラールのシリーズで詳しく書きました(第部)。話題が魔女狩りであれ、大虐殺、スターリン式の粛清、ナチスの殺人収容所、奴隷制、集団殺戮、あるいは現代の組織的に行われるデプラットフォーミング[情報や意見を共有する場(プラットフォーム)を削除することで個人やグループをボイコットすること]やキャンセリング[SNS上で過去の言動を理由に人物を排斥すること]のことであれ、非人間化が生贄を社会から取り除くための下準備となります。非人間化の力を私たちが敵と見なす者に向けることは、一時的な勝利をおさめるかもしれませんが、今の私たちへの抑圧を生みだしている精神領域を強化することになります。

人々が互いにそうするとき私は絶望に追いやられます。今日「セイクリッド・サンズ(聖なる息子たち)」のポッドキャストに私を招いたアダム・ジャクソンが、ご近所さんとのバーベキューでの会話を取り上げました。ある男の人がこう尋ねました。「私の母はワクチン接種をしていませんが、それでも母を私の結婚式に招くべきだと思いますか?」

家族という最も神聖な絆をばらばらに引き裂くほど強いこの力は、いったい何なのでしょう?

ワクチン接種してもコロナ感染の防御にならないことが明らかとなった現在なら特に、ワクチン未接種者に対する排斥は感染への単なる恐れを超えた何かから来るものです。ワクチンは仲間集団に所属する証であり、この清めの儀式によって完全な人間と認められます。歴史的に見て、これは例外ではありません。多くの文化で、部族の完全な構成員として受け入れてもらうには何らかの儀式が必要とされます。儀式を拒めば非人間と見なされます。

現在、その儀式の衝動を主要な公共機関が利益と権力を得るために乗っ取ってしまいました。家族の中でも、ワクチン接種など服従の象徴が支配と虐待の道具となりました。

人類と地球にとって私たちが抱く希望は、そのパターンを完全に終わりにして、お互いを完全な人間として受け入れることです。そうするために、私たちが互いに対して行った凶悪な物事を無視することはなく、腐敗した政府や企業の権力が国民に対して行った悪事を見逃すこともありません。虐待を許したり大目に見たりすることを勧めるのではありません。それはただ、「ひどい奴らだ。私より劣る種類の人間なんだ」という説明にならない説明を私たちが使うのをやめるよう求めるのです。そう言ってしまえば感情的には満足かもしれませんが、医療の自由で勝利を得る助けにはならないでしょう。もっと悪いことに、その説明にならない説明は、いったん確立されると、新たな他者化の循環を引き起こします。それが増大させる恐ろしい力は、娘を母と対立させ、役人を殺人者に変貌させ、善良な市民を共犯者に変質させるのです。

パンデマニアが私たちに示したのは、私たちの意識は未だに太古のスケープゴート作りのパターンを超えて進化していないということです。それが明らかになるのは貴重なチャンスなのです。私たちが見ていないものから、どうすれば意識的に目を背けることができるでしょうか。いま私たちはそれを見ているのです。

本シリーズの次回では、健全な精神と嘘について書くことになると思います。

第3部につづく)

原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/pandemania-part-2


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