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「パンデマニア」第1部 チャールズ・アイゼンスタイン

訳者より:コロナ禍から抜け出して「通常」に戻ろうという動きは、少しずつ始まっているように感じられますが、公共空間のマスク着用やレストランのアクリル仕切り板が無くなる気配はなく、人が集まることの「自粛」は人々の中に深く内部化されてしまったようにも見えます。書籍『コロネーション』を出したチャールズ・アイゼンスタインが、アフター・コロナについて書き始めました。パンデミックがもたらした社会の神経症「パンデマニア」。今回はその第1部を翻訳してお届けします。


パンデマニア 第1部

チャールズ・アイゼンスタイン著
2022年7月3日

壁を築く者は自らその囚人となる。

アーシュラ・K・ル=グウィン

何ということでしょう。このパンデミックが呼び覚ました社会の病は終わりそうにありません。パンデミック後の視点から新型コロナの話題に迫る方法について提案を求めた前回の投稿に対して、寄せられたコメントからもそれは明らかです。反響の強さに驚いたというわけではありませんが、2020年と2021年に私が広く書いた問題をさらに深掘りする義務を怠っていたという感覚に、私は気付かされました。読者の皆さんの多くが感じているのと同じように、私はどちらかといえば先に進みたいのです。ごめんなさい。また私はこの問題で自分の党派的な役割と、それに付き物の憤りと正義感に自分を重ね合わせることへの依存症になってしまうのが心配でした。それでも私には語るべき重要性があると感じられることがたくさん残っています。新型コロナのパンデミックは終わるかもしれません(し、終わらないかもしれません)が、それが引き金を引いたプロセスはまだ始まったばかりです。

私が言っている社会の病は新型コロナそれ自体のことではなく、それに対する私たちの反応でした。その病のことを私はパンデマニアと呼びます。社会的、心理的、政治的な異常は、病気そのものよりずっと多くの害を引き起こし、それがずっと続きます。新型コロナ自体がサイトカインストームを引き起こして人々を間接的に死に追いやるのと同じように、パンデミックが引き起こしたのは疫学的な危険とは極めて不釣り合いな規模の社会政治的な大嵐でした(注1)。そして、内在するアンバランスを暴き出して利用する日和見ひよりみ感染菌と同じように、新型コロナは既にひどく病んでいる社会の「組織」に上陸したのです。

生体素地説(注2)支持者の中には、細菌はただ単に日和見的なのではなく、癒しの役割を果たせる時もあると唱える人もいます。たとえば、粘液を排出して溜まった老廃物を取り除くのを助け、不健康な組織のバランスを回復するかもしれません。このたとえを拡大して、新型コロナが全国民、つまり国家の体に発動した病のプロセスは、私たちを癒しの地へと導くかもしれないと、私は言いたいのです。

それが実現するとしたら、私たちがその教訓を学んだとき、私たちがそこから与えられる導きを受け取ったときでしょう。そうしないなら、この病は深まり続け、感染症という分類になじまないような新しい様々な形に変化していくでしょうが、私たちが新型コロナのパンデマニアにかかりやすくなったのと同じ社会的な病を照らし出すでしょう。

* * *

その病とは何で、教訓とは何でしょう? 私が受け取った反響を通してそれを見つけようと思います。コメントに回答を続け、読者の関心が高ければ連載記事にしようと思います。

コメントの主なテーマの一つが信頼への裏切りと破壊でした。多くの人はこう問いかけます。私たちはただ赦して忘れて普通の暮らしに戻るのでしょうか? ある人はこのようにコメントしました。

私たちがこの2年間に取ってきた(勇気ある)姿勢のせいで、排除されたり辞めさせられたり単に切り離されると、そこには痛みや怒り、不安などが付きまといますが、それを尊重し敬意を払いながら友だちや地域の人々を大事にしてくれた人々もいました。どうやってこの人たちと接していけば良いのでしょう?

この問題の反対側にいる人々も同じような感情を表すのではないかと思います。こんな風に言うかもしれません。「あの人たちは最高の専門家が出したアドバイスを馬鹿にし、みんなが合意する科学を無視し、危険な陰謀論に私たちを巻き込もうとし、そうやって私たち全員を危険にさらしたのだ。あんな人たちと一緒にどうやって暮らしていけばいいというのだろう?」

しかし、この両側の間には深い非対称性があります。一方の側は村八分、検閲、つるし上げ、失職、免許剥奪、公共空間からの締め出しに遭いましたが、もう一方にそんなことはありませんでした。ウクレレ・サークルを出入り禁止になったスーザンというバーモント州の女性が投稿した次のコメントは、私たち自身の経験に通じるものがあります。新型コロナに関して政府のいうことが正しいと信じる側の人も、「自業自得だ」という先入観なしでこれを読み、それが私たちにとってどんなものだったかということを感じようとしてほしいと思います。

このウクレレ・サークルのことだけではありません。他のこと全てのも同じです。友だちがいっぱいいてコミュニティーの一員だということを実感できたヨガ教室も、今はワクチン接種済みの人しか入れてもらえません。これまで45年間、毎年夏に開かれていた高校の同窓会に、昨年私はあからさまに(そして聖人ぶった言い方で)参加を断られました。夫と私がよく行っていた2つの博物館も。たびたび通っていた2つの「開かれた肯定的な」教会はワクチン未接種者に門戸を閉ざしましたが、その皮肉に目を留める人は誰もいません。私がかかっているセラピストは、オルタナティブな(この他に良い言い方がないのですが)考え方の人で巨大製薬企業や近代医学のことを嘆いていたのですが、新型コロナが始まるとワクチン接種を受け、私がワクチンを打つまで診察は「難しい」といいました。最近になって、もしかすると私の診察を再開できるかもしれないけれど、条件として私がマスクを着用し新型コロナウイルスを殺す効果のある点鼻スプレーを使用することだと私に言いました。私は新型コロナに感染したから免疫があると彼女に言ったのですが。私がメンバーに入っているケルト音楽のトリオ、「奇跡のコース」研究講座、長年メンバーになっている2つの博物館、お気に入りの書店、地元のレパートリー劇場などなど。

ワクチン接種を受けないままでいることを選んだ私たちの多くは、同じような経験をしたはずです。私たちには何かスッキリしない感覚があって、そのせいで私たちは通常に戻って過去に起きたことをみんな忘れる気になれないのです。復讐に燃えているというわけではありません。みんなで過去のことはきっぱり忘れようというのは心をそそられる考えです。私たちを排除し、非難し、つるし上げ、検閲し、村八分にした人たちに、そのことを忘れてもらうのです。過去のことは過去のことにしようと私は思いますが、一つだけ忘れてはならないことがあります。それがもう一度起きないとどうして分かるでしょうか? ある部分はPTSDの問題です。このような人々の中にいると私はあまり安心できません。でも私自身の安全安心よりもっと重要なのは、私の子供たちがどんな世界に生きることになるのかという点です。ジョージ・サンタヤーナが書いた有名な言葉に、過去を記憶することのできない者はそれを繰り返すよう運命づけられている、というのがあります。パンデマニアが永続的なものになり、私たちの社会政治制度や、習慣、タブー、規範に織り込まれるという可能性を、私は恐れるのです。

あなたがアルコール依存の夫と暮らしているのを想像してください。彼は大酒を飲み続け、あなたにありとあらゆる虐待を浴びせます。あなたを怒鳴り、馬鹿にし、家から閉め出します。次の日に彼がしらふで目覚めると、そんなことは無かったふりをしようとします。通常に戻るという誘惑は強いのです。でもアルコール依存の裏にある状況が変わらず、悪いことをしたと認めて謝罪することさえも無いなら、戻った通常が長続きするとは、おそらく完全に信じられないでしょう。

スーザンは屋外で集まるときだけという条件付きでウクレレ・サークルに再加入するよう誘われました。彼女はイエスと言うべきでしょうか? 彼女のジレンマを別の人が次のようなコメントに書きました。

昨年、私たちを叱ったり、非難したり、反論したり、疑問視したり、排除したり、脅かしたり、馬鹿にした人たちに、戻ってくるよう招かれたら、どう対応すればいいのでしょう?聖人ぶった態度や、理解の欠如や、いら立ちや、辱めや、「過去のことは水に流そう」に、どう対応すればいいのでしょう?

完全を期すため、そこにあるモヤモヤした怒りをいくらかは伝えるために、私はアルコール依存者のたとえにある「虐待」が単に感情的なものに留まらないことを指摘したいと思います。私たちは怒鳴られたり馬鹿にされたり、家から閉め出されたりするだけではありませんでした。身体的な虐待もあったのです。血まみれになるまで殴られた人もいます。先週末に私は、新型コロナワクチンで兄と伯父を亡くした友人と一緒にひとときを過ごしました。それまで健康だった兄は接種の直後から衰え始めました。家族の目には明らかでしたが、医師はそう思わず、ワクチンの安全性は証明されているから偶然に違いないと言いました。そのような人に、悪いことをしたと認めてもいないのに、それを赦し忘れてほしいとお願いするなんて想像できますか?

とはいえ、赦し忘れるという衝動を私は簡単に捨てたくありません。そこには真実もあります。その真実はイエスキリストが十字架の上で言ったと伝わる言葉にあります。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」本当の赦しは寛大さのようなものではありません。寛大さとは、私たちに悪事を働いた者たちより自分自身を上位に置くことです。赦しは、もし被害者ではなく加害者の靴を履いたなら、私たちも同じことをしていたかもしれないという認識が元になっています。マティアス・デスメットが集団形成と呼ぶものの中で役を演じた者は、心理社会的な強い力にさらされると認識します。その力の影響を受けない人は誰もおらず、どうなるかは運しだいということです。

力を持った組織と冷酷な個人が権威主義的な目標を推進するためにこのような力を乗っ取るのは、本能的なものです。集団形成に加担する人々はその操り人形なのです。エリートでさえ本当の人形遣いでないのは、彼らもまた集団の原始的な心理に従ってほとんど無意識に行動しているからです。集団を支配する者はけっしてそこから免れることはなく、それが自分に降りかかることの無いように、新たな犠牲者を追い立て続ける他ありません。

ですから、赦し忘れるという欲求は、それが二度と起きないという希望的観測に基づくというだけではなく、重要な真実に基づいてもいるのです。それは、誤りの根源は私たちに害を与えた者たちを超えたところにあるということです。

したがって、最も有益な対応は、集団による私たちへの扱いに感じる怒りから目を背けないで、その根源まで追い詰めることです。怒りは境界侵犯の重要なサインです。それは私たちが何か行動を起こすために必要なエネルギーと勇気を与えてくれます。

虐待関係にある人なら誰でもそうだと思うように、加害者が謝罪したからといって虐待が再び起きない保証とはなりません。その謝罪が深く誠実に悔いたものであったとしても、保証とはなりません。

謝罪されるのは嬉しいかもしれませんが、しばしば謝罪が意味するのは支配と服従の関係が逆転するだけのことで、その超越ではありません。そして普通は一時的な逆転です。それはせいぜい、虐待に走る背景となる状況(トラウマ、環境)の、より深い探究への入口になるぐらいです。しかし、癒しのための赦しに謝罪は必要ありません。

私たちを村八分にし馬鹿にした者たちが謝罪するのは最重要事項ではありません。最も重要なのは、それが再び起きないような条件を作り出すことです。ウクレレ・サークルの場合、それは再加入しないことかもしれません。あるいはそうでないかもしれません。私には明確な公式を示すことができません。でも私がはっきり気付くのは、自分が虐げられた側に属するという意識を手放すと、私は誠実な悔恨の行いを、言葉に出さないものであっても、より良く認識できるようになるということです。

虐待が再発する可能性が高いことを示す明らかなサインは次のようなものです。

(1)屈辱的な状況を虐待される側が負わされる。

(2)虐待を与える力がそのまま残っている。

(3)加害者が悪いことをしたと認めるのを拒む。

(4)加害者が加害の正当化と口実を主張する。

明らかに、集団的なレベルで私たちにはこの先まだまだ長い道のりが待っています。実際には、危害は沈静化しただけで、終わってはいません。権力者側は全く変化していませんし、4つのサインは全て完全に現れています。新型コロナ反対派コミュニティーにいる多くの人たちは、医療全体主義を押し付ける新たな企ては崩壊すると見ています。私は確信が持てません。虐待は新たな形を取るかもしれません。新型コロナはパンデミックという文脈の外でも適用できる支配のテクノロジーと服従の習慣の試運転でした。必要なのは集団の注意を新たな脅威と新たな「内なる敵」に向けることだけです。

この文章は陰鬱な調子で終わりそうだということが私には分かっています。このシリーズの次の部で、多くの人々がコメントに書いた絶望と皮肉に、私は取り組もうと思います。おおぜいの人たちが人間を見限ったように見えます。それにもかかわらず、私は諦めてはいません。じつは私たちは岐路に立っていて(新型コロナについての最初のエッセイ『コロネーション』で提起したことです)、そこでは新たな道が私たちの前に開けているのだと思います。私たちは無力だという虐待者のメッセージを内部化するのは止めましょう。私たちが何を選ぼうとしているのか知ってさえいれば、より良い道を選ぶことができます。ですからパンデミックの教訓を消化しパンデマニアの深い原因を認識することが非常に重要なのです。私たちがそうする時、直接の加害者の非難だけに留まることはもうありません。それでも私たちは彼らとの間に境界を引いて彼らの辱めに従うことを丁重に拒否するかもしれませんが、私たちが拒否するのは我らと彼ら、善と邪悪、目覚めた者と眠る者、救われた者と呪われた者が対立するゲームです。それこそが前に書いたように、そもそもパンデマニアという病の蔓延を許した「病んだ組織の状態」なのです。

第2部につづく)


注1:死亡率に関していえば、新型コロナが「原因」ではなく「併発」して亡くなった人数を除外すれば、今回のパンデミックの人口あたり死亡率は1968年のホンコン風邪と同じぐらいで、1918年のスペイン風邪や19世紀以前の疫病に比べてずっと低いものでした。ジェネリック医薬品や自然療法が許可されていたら、死亡率はずっと低かったでしょう。さらに、失われた生存年数という点では、新型コロナがそれ以前のパンデミックよりずっと穏やかなものだったのは、全死者数のほぼ半数が75歳以上の人だったからです。これを何でもないというわけではありませんが、その対応は重大性に対して遥かに不釣り合いなものでした。最後に、現在の世界を覆う苦痛の規模でいうなら、飢餓に比べると色あせて見え、新型コロナが全期間で出す死者数より多くの命を毎年奪っています。しかし、その対策のために私たちは生き方をほんの少しも変えていません。

注2:感染の生体素地説(bioterrain theory)、あるいは単に素地説では、細菌は病気の原因というより症状であって、細菌は病んだ組織や有毒な状況に引き寄せられるのだといいます。


原文リンク:https://charleseisenstein.substack.com/p/pandemania-part-1


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