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遊び好きな宇宙

訳者コメント:
子供たちは自然に遊ぶのに、大人への準備として遊びを取り上げて教育で置き換え、余暇時間に許される娯楽へと作り変えてしまいます。しかし、遊びは宇宙の基本的性質で、人類が熱中している分断というゲームでさえ、宇宙の遊び心の一端なのだとチャールズ・アイゼンスタインは主張します。この遊びに、私たちはもう飽きてしまったことに早く気付き、別の遊びを始める時が来たということなのです。人が若さを失うのは、遊びを諦めて心身ともに硬直してしまうから。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.11 遊び好きな宇宙

永遠は時の産物に恋をしている。  — ウィリアム・ブレイク

ジョン・ザーザンはこう書いています。「象徴文化と分業によって、我々はとんでもなく間違った方向に進んでしまった。以前の場所には魅惑と理解と全体性があったのに、進歩という教義の中心にはそれらが無いのに我々は気付く。空虚であるとともに空虚を作り、全てを支配しようと求める家畜化の論理は、いまや他の全てを破滅させる文明の廃墟を示している。自然が劣ったものだと考えることで、文化システムの支配が可能になり、やがてはそれが地球を住めない場所にするだろう。[86]」

ザーザンの雄弁な嘆きは細部まで正しいのですが、一つだけ引っ掛かるところがあります。象徴文化と分業は「とんでもなく間違った方向」などではなく、本章を通して主張したように、私たちがずっと目指してきた方向だったのです。それはさらに悪くも思えるでしょう。原理の上では改善可能な間違った選択でないのだとすれば、この「魅惑と理解と全体性」からの長い下降は、宇宙の道理だというのでしょうか? 私たちは荒廃し、破滅し、絶滅する運命にあるのでしょうか? それとも、この下降はより大きなパターンや変化の一つの段階なのでしょうか?

1938年に、歴史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊び好きな人間)という概念を提唱し、原始人の行動と発達を生存競争に結び付ける論調一色の現代人類学に真っ向から対立しました。ホイジンガは、闘争ではなく遊びこそが文化的発達の形成要素だと示唆しました。というのも、遊びは創造的な〈ごっこ遊び〉という精神世界であり、それを通じて私たちは大きくなってから外部環境を作り変えていくリハーサルをするからです。

彼は、ホモ・ルーデンスという概念を、人間の領域だけでなく全ての生命に広げることもできたはずです。なぜなら、遊びが決して人間だけのものではないからで、それは犬や猫を育てたことのある人なら誰でもわかる事実です。そして遊び心を見せるのは家畜だけでなく、野生の動物も同じです。だから「猿みたいに騒ぎ回る(monkeying around)」というのです。(興味のある読者は、トム・ブラウン・ジュニアの著書『Tracker(トラッカー)[森の生き物の足跡を追いかける伝統技術の熟達者]』や『The Search(ザ・サーチ)』に収められている、野生動物との戯れについての魅惑的な記述をお読み下さい。)

遊びの機能をダーウィン進化論の言葉で説明するのがかなり難しいのは、生存と繁殖の最大化に向けられるはずのエネルギーを消費してしまうように思えるからです。遊ぶように遺伝的にプログラムされた個体は、食物採集や交尾などに全エネルギーを注ぐ個体に対して競争上不利になります。したがって遊びについて論じる場合は、交配儀式、支配、狩猟などの技能の練習といった観点から、強引に説明(というより、言い逃れ)を試みるだろうと予想できます。もうひとつの説明は、人生は自然な遊び心があふれ、のんびりとしていて、楽しいものだというものですが、これは動物の行動を動機づけるものについての私たちの基本的な概念に当てはまりません。

私たちの文化では、遊びは一般的に子供の領分だと考えられています。私たちの文化の中にある清教徒的な[道徳的に厳しい]面から見れば、遊びは贅沢か道楽ですが、子供たちが「仕事」(つまり学業、宿題、家事など)をやり終えている限り、少しだけなら配給してやっても構わないのです。より寛容な面から見れば、「教育的」な遊びだったら構いません。そのため、幼児向けの玩具やゲームの数々は、アルファベットや数字などの「認知技能」を密かに注入しようとします。動物は狩猟技術を磨くための手段として遊ぶというダーウィン進化論の説明にならえば、遊びは人生の練習になるから良いのです。純粋に遊びのための遊びは時間の無駄だという見解は、「生存こそ人生の目的」という前提に基づくもので、これが現代の科学と経済学の根底をなしています。結局のところ、一分一秒でも遊びに費やせば、その分だけ人生で成功する機会を失っていることになります。

どちらにしても、私たちはいずれ大人になり、遊ぶ時間は無くなってしまいます。さて、実生活の厳しい仕事が始まります。ええ、確かに「オフの時間」に遊ぶ「余裕」はあるかもしれません。オフの時間とはつまり、生存の要求を満たした後に残された時間です。しかし、よほど裕福でない限り、時間とエネルギーの大半は仕事に費やさなければならないと私たちは考えています。

おそらく真実はまったく違うものです。青年時代が遊びの時間なのではなく、遊びこそが私たちを若々しく保つのかもしれません。おそらく、創造的な表現の限り無い自由な流れが、子供の頃の私たちの肉体的、精神的なしなやかさを保っているのです。私たちが遊びをコントロールし、制限し、無難で安全なものと引き換えにあきらめると、安全という縛りが心と身体に投影され、可動域はどちらも著しく制限されるようになり、時間が経つにつれ硬くなっていきます。

仕事と遊びという二元論を疑ってみましょう。子ども時代の遊びは練習だという可能性を考えてみましょう。確かにそうですが、大人の遊びのための練習であって、大人の仕事のための練習ではありません。なぜなら実際、子どもの頃の遊びと同じ特徴が、最も創造的で生産的な大人の活動にも等しく当てはまるからです。子ども時代の遊びは、限界の探求、創造性を縛るものの解放、環境との創造的な対話であり、私たちに与えられた世界に新たなイメージを吹き込む練習なのです。遊びは、あらかじめ決められた目的に縛られるのではなく、プロセスそのものを通して目的が自然に現れるように任せるものです。遊びには、集中力を維持して自然な欲望に打ち勝とうとする意志の力など必要ありません。それは自然な欲求の現れなのです。私たちが遊ぶとき、最終的な有用性や価値の保証など無くても、進んで試してみます。でも逆説的なのは、そのような動機を手放したときにこそ最も役に立つものが生まれることです。例えば、この本を書くにあたって、論理的な枠組みを構成するために必要な題材を取り上げようと気を引き締めると、私の言葉は学者ぶって刺激のないものになりますが、私の最高の文章はアイデアで「遊んでいる」ときに生まれ、この遊びの中で私が予め考えるようなものよりずっと強力な論理と構造が浮かび上がってくるのです。私が想像するのは、トーマス・エジソンが同じようなことをしている姿です。研究室を歩き回り、成功の保証はないけれど、あれやこれやと試しながら、その過程で新しいアイデアを思い付き、また試してみます。私が想像するのは、アルベルト・アインシュタインが、物理学のアイデアを、楽しみと喜びのためにとにかく試し、最初は突拍子もないと思えたはずの考えも、そんなことは気にせずとにかく探究する姿です。私自身をこのような天才たちになぞらえるつもりはありません。過去に何が試されたか、何がうまくいくか、何が確実な結果をもたらすかなどは忘れて、それとは違うことを楽しみながら試してみるということです。

遊びの創造性は自発的なもので、禁じ手もなく、どんな決まり切った型にも影響されないので、それは私たち自身を超えたところから来ていると考えなければなりません。私たちは宇宙が遊ぶためのチャンネルであり、宇宙の遊び心の一面が私たちの心と体を通して現れるのであって、私たちが使う理性と表現という知的技能を超えたところから、遊びは発しているのです。

ならば、私たちの人間性を象徴する言語、数学、芸術、テクノロジーなどは、遊びから生まれたのであって、宇宙の遊び心を実現するための高度に発達した新しい手段だと考えることができるでしょう。言語という現象がその一例です。幼児期には、言葉は想像力を発達させ、ごっこ遊びの世界を創り出す能力を養う大切な要素です。私たちを現実から遠ざける言語の抽象化の性質によって、同じように私たちは内なる現実も創り出し、それと戯れることができますが、この能力は、精神的な戯れによって磨かれ、やがて再び外界へと適用することで、以前に言葉で連想するイメージを作ったのと同じように、物質的なものを使って新しいものを作り出すのです。ジョセフ・チルトン・ピアースは、子供たちにとって語り聞かせが大切なことを語っています。子供たちがうっとりと耳を傾けているうちに、その物語はまるで自分の体験であるかのように鮮明なイメージの連続によって肉付けされていきます[87]。子供時代に培われたこの能力は、大人になってから「こうなるかもしれない」と思い描くことにつながります。こうなるかもしれないと思い描くことは遊びの基本であり(「クマになったつもりでいよう」)、また創造性の基本でもあって、本物の創造性には以前に存在しなかった可能性を思い描く必要があります。現代では、(絵本やテレビという形で)既製品のイメージが私たちの物語に付属しているため、イメージを形作る能力が十分に発達する機会はなく、私たちは与えられた人生以外のものを想像することができなくなります。

そこで私が提唱するのは、言語の起源が狩猟や道具の製造のような生存のためのものではなく、また、ジョン・ザーザンや言語学者E・H・スターティヴァントが示唆するように、人を欺くためでもなかったということです。表象言語は遊びの一形態として生まれたもので、物や動作に音を関連付けるゲームなのです。だからこそ原始文化では、音や声、歌、沈黙に比べれば、相対的に言葉は非現実的であり重要でないと認識されていたのです。アダムの言語について述べたように、慣習と偶然によって付けられた人や物事の名前の裏には、表象ではなく物事それ自体の一側面である神秘的な本当の名前が存在するのです。遊んでいる子供が、棒についた雑巾が本当は赤ん坊ではないことを知っていながら、遊びのためなら赤ん坊にしてしまうのと同じように、言葉を最初に使った人々が戯れに物事から言葉を抽象化したのは、創造性を高めるためでした。物語りと〈ごっこ遊び〉の類似点は、幼児における言語の認知機能に見られます。

このことが説明するのは、一見すると逆説のようですが、言葉が一方では記号であるにもかかわらず、何かを本当に生み出す力を備えていることです。ジョセフ・エペス・ブラウンはこう言います。「…言語には創造的な力がある。言葉は単に物事を指し示す記号ではなく、それらは言及された存在の現実と力を呼び起こすのだ。[88]」現代的な考え方では、言葉の象徴的な意味は、単なる物体、音波の組み合わせ、あるいはページ上にある図形として、その基本的な現実から切り離されたものと理解されています。(これは、言葉が言及するものが同じようにデカルト二元論の宇宙の単なる物体であるなら、全く驚くことではありません。)とはいえ、言葉が単に表象的なものではなく、創造的なものでもあるという認識は、私たちの文化の呪術・宗教的伝統の中に見出すことができます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。[89]」聖書では、言葉は創造性の源泉であり、神格とされています。では、物理的な宇宙の存在自体に、潜在的な分断があるのでしょうか? 宇宙のはたらきもまた、遊びの現れと見ることができるのでしょうか?

もうひとつ一見すると逆説なのは、言語に与えられた神聖さで、人や動物や場所の名に対する畏敬の念のため、母語で冒涜することなど不可能でした。神聖さや畏敬の念と遊びはどう両立するのでしょうか? むしろ、命に関わるほど深刻に思えます。この逆説は、遊びが真剣であることを理解すれば解決します。私たちの文化は、遊びを幼稚なもの、軽薄なもの、真剣な大人の問題として注意を払う価値のないものだと思い込んでいます。しかし子どもたちの遊びを観察すると、彼らの中に人間のあらゆる感情や愛着を見出すことができます。笑いもそうですが、真剣さも情熱もあります。少なくとも子どもたちは、遊びをとても真剣に捉えています。大人の遊びに見せかけた最近のレクリエーション[つまり再びクリエイティブになること]は、その弱々しい模倣に過ぎず、精神の不満をなだめるに過ぎません。それは創造的ではなく、反対に消散的で、私たちの人生に深く関わることはなく、むしろ「娯楽」のふりをしながら私たちを人生から遠ざけてしまいます。スポーツカーであれ、ヨットであれ、ビデオゲームであれ、私たちが自分の玩具おもちゃを心から信じることはありません。

もし子どもたちから遊び方を学び直すのなら、私たち自身が幼稚で軽薄なものから踏み出さなければなりません。私たちも子供らのように、時には真剣に献身的に、時には笑いあり涙ありで遊んだっていいのです。要するに、私たちは人生のあらゆる経験を通じて遊ぶことができるのです。

もし言語やテクノロジーなど分断の要素が遊びとして生まれたのなら、それらはどのように遊びとは違うものになったのでしょう? ある意味、別物になどならなかったのです。私たちはまだ遊びの最中ですが、極めて間違ったゲームに首まで浸かり、そこから抜け出すことができないでいます。結局のところ、私がこの本で書いている自然、精神、自己、他者からの分断は現実ではなく、それもまた遊びであり、エネルギーと情報のダンスなのです。自発性、大胆不敵さ、探求心、創造性、限界を試す意欲、結果への無執着といった遊びの特性を、いま私たちが全て失ってしまったことは、個別化という大きなゲームの一部なのです。現代において、分断のダンスがますます耐え難くなり、世界中で危機が高まるにつれ、私たちはこのゲームをやめて別のゲームを始める時が来たことに気づき始めているのです。「モノである宇宙の中の個別ばらばらの存在ごっこ」というゲームは、もうその役目を終えたのです。

別の見方をすれば、私たちは遊びを止めたことはないけれど、遊んでいることを忘れてしまったということです。私たちはときどき、現代のテクノロジー社会にしっかりと組み込まれていながら、その慌ただしさや不安、疎外感を捨て去り、人生に対してもっと気楽で遊び心にあふれた態度をとっている人々に出会います。このような人生の変化が起きるのは、大病などの個人的な災難によって、かつての野心や夢中になっていたことが本当は虚しいものだと思い知らされた結果であることが多いものです。そして「人生を深刻に考えるのをやめた」とか、「本当に大切なことに立ち帰った」などと言います。しかし、それほど深刻に考えていないにもかかわらず、彼らは人生から切り離されてはいません。彼らに情熱が無いわけでも無関心なわけでもなく、どちらかといえば今この瞬間により深く完全に関与しているのは、現代生活の不安こそが私たちをこの瞬間から遠ざけてしまうからであり、そのため私たちは「今ここにいる」余裕がなく、何をしていても完全に没頭する余裕がないと感じてしまうのです。

もう一つこのような人々が言うのは、「自分のことを真剣に考えるのをやめた」ということで、現代の醜さ、苦しみ、不安の元凶が、自己に対する誤った認識にあることを示しています。私たちの社会の形態や構造が共謀して、自分自身に対する誤った観念を植え付け、私たちの本当の姿を隠そうとしていますが、私たちはまだ、言われたことを信じず、生まれながらに持っている遊びの権利を取り戻す力を持っています。原始社会では、遊び心を持って生きるのに十分な安心感とつながりを持った大人が自然に育っていたのに対し、私たちの社会には生存に対する微妙な脅威が隅々まで広がっていて、それが私たちを人質にしています。生存の不安とは、「余裕がない」という言葉が意味するものです。おびやかされているという感覚はとても繊細で、私たちの人間存在にとても深く織り込まれているため、それを意識することがほとんどありません。それは雲ひとつ無い蒸し暑い夏の午後に雷が鳴り響くような感覚です。それは幼児期から始まっていて、罰、はずかしめ、条件付きの承認を通して、親たちが私たちの頭上に最大の脅威を振りかざすのです。その典型的な脅威とは、親に見捨てられることです。やがて私たちは、薬物や映画などのスリルのような強力な刺激がない限り、完全に集中することも完全にリラックスすることもできず(この二つは密接に関連していますが)、絶え間ない不安の感覚としてそれを内面化するのです。

人類が疎外された歴史を成す残虐行為と苦しみの全貌を、私は痛いほど理解しているのですが、その全てが間違いだったとは言いません。私が主張してきたように、ここ数世紀の間に私たちが探求してきた分断の極みは、ずっとずっと昔から未来に書き込まれていました。しかし中立的な必然性以上に、おそらく現在の疎外状態は、私たちの将来の発展にとって必要なものなのです。その可能性については後の章で探ることにします。いずれにせよ、現在の「ごっこ遊び」はそろそろ終わりにしましょう。私はこれを、励ましとしてではなく、単純な事実として述べているのです。農耕が始まったときから、あるいはそれ以前から〈分断の時代〉が必然だったように、その終わりも同様に必然です。それが必然なのは、どうしようもなく持続不可能であり、より正確に言えば、持続するにはますます高い代償が必要になるからです。他者との再合一は、自然や他の人々、そして自分自身の失われた部分との再合一という形で、分断の代償が耐えられなくなったときに起こるのです。私がこれを言うとき、アルコール依存症者に「あなたの依存症が永遠に続くことはありません」と言えるのと同じ確信を持っています。依存はそれ自体の終焉を作り出します。世界の危機が高まって、私たちのますます多くの個人個人に襲いかかり、どんなに裕福であっても、世界をコントロールすることにどれほど長けていても、その影響から逃れることは難しくなり、私たちは集団として「どん底」に落ちようとしています。私たちの社会が受ける影響は、死に瀕した個人が受けるのと同じようなものになるでしょう。

回復した依存症者が、チャンスを失い、家族を引き裂かれ、人生を台無しにされ、その跡に残された破壊の信じられないような物語を語るとき、彼らの後悔は前より賢くなったという認識によってやわらいでいます。彼らは自己をゆるすことへの突破口について語りますが、それは自分が何者であったかを考えれば、自分がした以外のことはできなかったろうという認識に他なりません。これは私が言う必然性と同じことです。人類の歴史の恐ろしい経過は、私たちが何者であったかに組み込まれていたのであり、その経過を経て、私たちはこれまでとは異なるもっと偉大な存在になりつつあります。集団としても個人としても、私たちは新たな自分に生まれ変わろうとしているのです。良い知らせは、妊娠が完了すれば赤ちゃんが生まれるのと同じように、何があろうとそうなるということです。悪い知らせは、それでもなお私たちは出産を無期限に延ばし、母子ともに滅びなければならないところまで遅らせる力を持っているということです。私がこの文章を書いている目的は、避けられないことに抵抗するなと、みなさんに語りかけることです。劇は終わりです。試合は終わりです。目を覚まし、別の遊びをする時です。


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注:
[86] ジョン・ザーザン [Zerzan, John,] “Future Primitive”, http://www.primitivism.com/future-primitive.htm.
[87] ジョセフ・チルトン・ピアース [Pearce, Joseph Chilton.] Evolution’s End. Harper-Collins, 1992. pp. 154-172
[88] ブラウン [Brown,] p. 16.
[89] ヨハネ [John] 1:1


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-11/

2008 Charles Eisenstein


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