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生命の起源(前)

訳者コメント:
今回は進化生物学とその根底にある自己の定義を見ていきます。「利己的な遺伝子」という生命発生の物語に含まれているのは、生物と「環境」とが切り離され別のものだという前提です。これがあまりにも当たり前なこととして文化の中に浸透しているので、改めて疑ってみる価値があるのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


3.7 生命の起源

デカルトやルメトリの予想に反して、生命現象は長い間、ニュートン的決定論や還元主義が指し示す悲惨な結末を拒んできたようです。生命の驚くべき秩序と複雑さは、単純で決定論的な物理法則とは相容れないように思われました。この複雑さはどこから来たのでしょうか? 生物の仕組みはあまりにも細かく調整され緊密に結合しているので、17世紀の考えでは、生命は外部の優れた知性によって設計され組織されているに違いないと思われていました(し、今でも多くの人がそう思っています)。さらに、生物の成長や自発的な動きは、運動量保存則のような単純で機械的な法則をただ反映したものではありません。私たちは力に従う単なる質量として振る舞うのではなく、自ら行動を起こします。直感で分かるのは、この生命力が、自発的な動きと成長が、生命の重要な特徴であることです。タレスが紀元前7世紀に「鉄を動かすことができるのだから、磁石には生命、すなわち魂がある」と認めたように、アリストテレスは「魂が運動を生み出す」といって生命と運動を結びつけました[25]。つい最近の19世紀に、生気論者たちが表明していた同じ直観では、死んだ物質の宇宙で生命の自発性を生み出すことができるのはエラン・ビタール(生命の飛躍)だけでした。

ニュートン的な世界観を成立させるためには、目的を持ち生気に満ちた複雑な生命体が、死んだ化学物質からどのようにして生まれるのか、何らかの説明が必要でした。

心臓はポンプ、肺はふいごという、当初の機械的な生命の概念は、血液の循環より複雑なことを説明しようとしても、ものの見事に失敗しました(実際には血液循環さえも満足に説明できません)[26]。19世紀になりメンデルとダーウィンの研究によって初めて、物理学や化学の単純さと、自然が持つ見かけ上の躍動感や目的を整合させるという試みが、大きく躍進したのです。20世紀末には分子生物学と遺伝学という科学が、生命の起源から進化や現在の行動に至るまで全ての根本的な謎に対して、解答とまではいかなくとも、少なくとも解答の輪郭は示したと主張するようになりました。ダーウィン進化論とメンデル遺伝学が〈大統合〉され、私たちの文明を定義するイデオロギーを強化する形でこれらの問題を解決したのも、偶然ではありません。そのイデオロギーとは、個別ばらばらの自己、世界をコントロールする計画、進歩の手段である競争の優位性、そしてテクノロジーによって最終的に自然を超越するという人類の運命です。

現在、自然界の変化に関する主流の説はネオダーウィニズム(新ダーウィン主義)ですが、リン・マーギュリスはこれを「生物が時間とともに変化しないとするメンデル遺伝学と、変化するとするダーウィン進化論を調和させようとする試み」だと要約しています[27]。メンデル遺伝学では、種内の変異は既存のDNAの組み換えによってのみ生じるので、真に新しい形質が出現する可能性はありません。しかし、古生物学、発生学、遺伝学などの分野から得られた圧倒的な証拠から、生命は確かに時間をかけて進化し、真に新しい特徴が遥か昔から繰り返し生じているのが明らかです。

ネオダーウィニズムは、この変化の源をランダム突然変異に求め、変化の方向を自然選択に求めます。それは生存と繁殖のための資源をめぐる競争です。生物進化は、ランダムな点突然変異、フレームシフトエラー、偶発的な欠失や挿入など、DNAへの偶然の変化が徐々に蓄積され、それが様々な組み合わせで「試される」(つまり実際の生物に発現する)ことで起こるはずなのです。ほとんどの突然変異は致命的か無害かのいずれかですが、時には突然変異の一つが競争上の優位をもたらす新しい特徴を生み出し、新しい生物とその子孫が生態的ニッチで古い生物を圧倒したり、新しいニッチを独占したりすることがあるのです。長い時間をかけて、こうした新しい特徴の積み重ねが新しい種を定義するようになります[28]。

従来の生物学の見解では、自己とは「遺伝子の発現」に他ならず、遺伝子は形態の設計図であり行動の根本的な決定要因なのです。人間だけは、遺伝子に対抗する文化という決定要因があって、(時には)遺伝的な「プログラム」を覆すか、少なくとも修正するのだと考えられています。これは新しい衣をまとった古い考えです。昔なら、それは「遺伝子のプログラム」ではなく、私たちの「獣性」「原罪」「肉欲の誘惑」だったでしょう。いずれにしても結論は同じで、私たちは文化の台頭とともに自然を超越しつつあるということなのです。私たちは人間の生態を超越し、新たな領域、人間独自の領域へと上昇しているのです。人間という例外を除けば、全ての生物は遺伝子のプログラムに従い、遺伝子の指示に従って(タンパク質やその産物のメカニズムを介して)環境に作用すると考えられているのです。

つまり、生物を操作することは遺伝子を操作するということであって、根本的にはその特性を環境から切り離すことができるのです。遺伝子を生物の設計図やプログラムと捉える考え方は、したがって、コントロールの企てを助長するのと同時に、遺伝子を生物学的自己の核心とみなします。

設計図とプログラムという遺伝子のパラダイムは、デカルトの客観性にぴったり繋がります。遺伝子はそれがあやつろうとする環境から切り離されていて、それ自身はランダムな突然変異によって偶然に環境の影響を受けるだけです。この見方によく似ているのが、人間は自然から切り離され、自然のランダムな「気まぐれ」に左右されるかもしれないけれど、それでも支配者であり、意識をもって無意識の物質を操る者だという見方です。それはまた、魂が肉体の管制センターに存在し、その行動を監督するというデカルト的な概念とも類似しています。まったく皮肉なことに、その魂という概念は従来のキリスト教的な神に似ていて、自然の外側にある別の視点から自然を支配しているのです。正統派の遺伝学は、自己と世界について私たちの文化が思い込んでいること全てにぴったりと一致しています。遺伝子を個別で自律的な生物学的自我の核ではなく、環境がもつ目的を達するための道具と見なすような別の理解に対して、このように強い抵抗があるのも不思議ではありません。

第6章では、ジャン=バティスト・ラマルクからブルース・リプトンのような現代の革新派まで、このような別の理解のいくつかを検証していきます。遺伝子が設計図やプログラムだというモデルが崩壊すれば、他の多くのものも一緒に崩壊するでしょう。

現代生物学の文化的な影響を見るには、生命の起源について現代生物学がどう説明するか、そして、「私たちはどこから来たのか?」「私たちなぜここにいるのか?」「私たちはどこへ行こうとしているのか?」という人類永遠の問いに、現代生物学がどう答えているかを見ることから始めるのが良いでしょう。進化生物学が私たちに与えたのは、生命の起源に関する物語の輪郭、つまり創世神話です。あらゆる創造神話がそうであるように、この神話には根深い文化的価値観や私たち自身の人間としての自意識が込められています。それが意味する文化的な前提や偏見に目を向けながら、そのことについて紹介していきます。私が問うのは、「これを信じることで、私たちは自分自身について必然的に何を信じることになるのか?」ということです。私たちなぜここにいるのでしょうか? 人生の目的とは何でしょうか? 私たちはどこへ行こうとしているのでしょうか? その答は、私たちが信じることを選んだ創造の物語の中に書き込まれているだけでなく、私たちをその創造の物語へと引き寄せます。

リチャード・ドーキンスが1990年に出版した『利己的な遺伝子』は、100年前にオパーリンとホールデンによって着想された生物発生に関する一般的な見方を明快に示しています。それは、ネオダーウィニズムの進化論と同じように、ランダム突然変異と自然淘汰という二つの重要な特徴に依存しています。この物語は、生命の構成要素である有機分子の〈原始スープ〉から始まります。そこでの決定的な出来事は、自分自身の複製を触媒するという非常に特殊な性質を持った複雑な分子が、偶然に出現することです。確かに、このようなことが無作為に起こる確率は極めて低いのですが、そのような分子が存在すればすぐにそれ自身の複製を作り始めるのですから、発生は一度だけ起こればよかったのです。ドーキンスがレプリケーター(自己複製子)と呼ぶこの分子は、最初の遺伝子の先駆けとなるものです。

やがて海はそのようなレプリケーターでいっぱいになりました。でもその全てが同じだったわけではなく、ランダムな複製ミスによっていくつもの変種が生まれました。あるものは自分の複製を作ることができなくなってしまいました。そのような変種はすぐに姿を消しました。別の変種はより安定性が高く繁殖力が強い(つまり複製速度が速い)ため、「スープ」の中でより多く見られるようになりました。ある時点で、構成要素となる化学物質が不足するようになり、レプリケーターの変種の中にはうまく複製できないものが出てきました。別の変種はもっと要領よく、例えば、他のレプリケーターを餌食にして、その部品を使うことができました。状況が変化すると、あるランダムな変種は他の変種より良い結果を出すようになりました。ある時点で、やはりランダムな複製ミス(突然変異)によって、新しい性質を持つレプリケーターが出現しました。例えば、タンパク質の保護被膜、そしてついには、脂質でできた膜の内側で恒常性を維持する、タンパク質を基にしたメカニズムです。より複雑な段階へと進化するたびに、そのかたわらには無数の失敗がありました。生存と複製に有利な突然変異が一つあれば、絶滅の運命をたどる突然変異は何千とありました。

「利己的な遺伝子」での生物発生の物語の支柱となっている前提は、生物と環境の間に明確な境界があるということです。そこにはレプリケーターがあって各々は互いに異なっており、またそこに底質[そこで生物が成長する、無生物の基盤]があります。生命の起源における重要な出来事は、ある分子の出現であり、おそらくRNAかそれに類するもので、自己複製できる分子です。その別々の個体が第一と見なされます。このことは、私たちの文化の信念に、なんと自然に一致することでしょう。人間は自然から切り離された存在であり、私たち一人ひとりは、他の人間とは独立した別個の存在なのです。自然とは私たちが最大限に活用できる資源の集合体であるという姿勢に、なんと自然に一致することでしょう。レプリケーターと底質、人類と天然資源、自己と環境。「環境」という言葉そのものが、内外の区別、自己と非自己の区別が成り立つことを前提としているのです。

この思い込みはとても根深いので、それが思い込みであって、現実に関する客観的な事実ではないと意識することさえ難しいのです。環境から切り離された原初の生物から始まらない生命の起源などほとんど考えることができないのは、それが私たちの考える有機体、つまり「生命」というものだからです。しかし他の文化では、家族や部族、村、森を単位とする、もっと流動的な自己定義をもっていました。「私」の意味そのものが文化的に決定されます。シャーマンのマーティン・プレクテルが語る文化では、病気の妻を治してくれるよう呪医じゅいに懇願するとき、「私の妻は病気だ」ではなく、「私の家族は病気だ」と言うのです[29]。病気は、妻のものであると同様に、彼自身のものでもあるのです。あるいは、村の何人かが病気であれば、「私の村は病気だ」と言うかもしれません。たとえ西洋の医師が、彼を見本のような健康体だと判断したとしても、「私は健康だ」という言葉に彼は同意しないでしょう。なぜなら彼にとっての「私」は、違う意味を持っているからです。その境界はもっと流動的です。彼にとって、「私は健康だが、家族、村、森、世界が病んでいる」と言うのは、「私は健康だが、肝臓、腎臓、心臓が病んでいる」と言うのと同じくらい馬鹿げたことなのです。そのような文化にどっぷり浸かっている人は、レプリケーターの出現が生物発生における重要な出来事だとは全く思わないかもしれません。

これは、家族、村、生態系が健全でなければ、人が真に健全ではありえないという、見識ある理解なだけではありません。それは、家族、村、生態系を含んだ、より広い自己の定義なのです。その理解はスピリチュアルな教えの数々に書き込まれていて、例えば「上なる如く、下もまた然り」という神秘主義の原理、内的宇宙が外部に存在する全ての関係を体現するという道教の概念、そして仏教の教えであるカルマ(ごう、つまり、この世で行ったことは全て自分自身にも及ぶこと)や、自我の非実在性などがあります。私たち現代人にとって、キリスト教を含む古代宗教にある非二元論の教えを、二元論のレンズを通さずに理解することは非常に難しいのです。こうしてカルマは誤解され、外の宇宙が何らかの形で悪行に復讐し、善行に報いるものと解釈されます。アニミズムは誤解され、全てのものがスピリットという別の物質を持っていると解釈されます。「上なる如く、下もまた然り」は誤解され、二つの独立した領域の間に境界(つまり自己)が独立して存在することを示すと解釈されます。キリスト教は誤解され、現世や地上から根本的に切り離された神を想定していると解釈されます。こうした誤解は全て私たちの自己概念から生じています。同様に、私たちの自己概念はネオダーウィニズム的な生物発生と進化の物語に私たちを向かわせ(そこからさらに支持を得て)、より良い説明を与えるかもしれない競合の物語を見えなくしてしまいます。また私たちは自然界に存在する証拠にも目を閉ざしていて、無視するか、興味深い珍事や例外として片付けるか、あるいは気まずそうに競争や生存の観点から説明して片付けようとするのです[30]。とはいえ、個別ばらばらのレプリケーターに端を発するのではない、科学的に説得力のある生物発生の理論は、確かに存在します。このような理論では、生物ではなく生態系が第一であり、生命は宇宙の基本的な性質なのです。第6章ではそのような理論を探求していきます。それらは生物学をはるかに超えた影響を与えると予想できます。なぜなら、「自己」とは何であるかということについて、全く異なる概念を示唆しているからです。

後半につづく


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注:
[25] アリストテレスからタレスに遡る生気論の追跡については、ジョンジョー・マクファデンによる。(『Quantum Evolution(量子進化論)』, p. 7-9).
[26] 医学部で教わるのとは反対に、機械ポンプ・モデルでは血液の循環をうまく説明できない。クレイグ・ホールドリッジの『The Dynamic Heart and Circulation(動的な心臓と循環)』、あるいはトム・コーワンの『The Fourfold Path of Healing(癒しの四つの道)』を参照されたい。血管が血液の受動的な運び手であるという従来の心臓主導型の循環モデルは、二元論的な世界観に適合したものであって、それに対する水撃ポンプ・モデルは、循環がシステム全体の有機的な性質であると捉えていることに注目されたい。
[27] リン・マーギュリス [Lynn Margulis,] ジョン・ブロックマン[John Brockman,]著『The Third Culture(第三文化)』 Simon and Schuster刊, 1995年. p 133. に採録の対談、ブリッグ・クライス [Brig Klyce]による引用。http://www.panspermia.org/neodarw.htm#%202txt.
[28] 前述したのは、じつは漸進説という主張で、これはエルンスト・マイヤーをはじめとする多くの生物学者が現在も支持しているネオダーウィニズムの古典的な形である。(彼の近著『What Evolution Is(進化論とは何か)』に、現在では崩れつつあるこの正統説を純粋に解説している。)しかし、潮流はステファン・ジェイ・グールドとナイルズ・エルドリッジの断続的安定説に傾きつつあるようで、そこでは、化石の記録は漸進的な進化ではなく、突然の劇的な飛躍とそれに続く長い相対的な静止期間を示していると主張する。進化生物学者の中には、こうした飛躍を化石記録の不完全さから来る統計的な副産物として説明しようとする者もいるが、学者の多くは少なくともある形の断続的安定を受け入れている。これを突然変異の漸進的な蓄積という説と整合させようとする試みにしばしば含まれているのは、蓄積された突然変異がゲノム上で発現することなく休眠しており、調整遺伝子の突然変異によって誘発されるというような考えである。こうした試みには大きな問題があるが、進化に目的は無いという主張を守るために必要なのだ。
[29] グリーン・ギャザリング(Green Gathering)会議での講演, 2003年9月.
[30] 確かに、ゲーム理論に基づく協力のモデルは、協力が利己心と矛盾しないことを示しているが、複雑さを大きく飛躍させることが必要な進化のあらゆる段階を悩ませるのと同じ「ブートストラップ問題[いわゆる、鶏が先か卵が先か]」がある。ブートストラップ問題については第6章を参照。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3-07/

2008 Charles Eisenstein


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