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私の思ったこと

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1日の中で、感じたこと、思ったこと、考えたことを毎日更新しています
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2021年2月の記事一覧

聞こえるクレームと聞こえないクレーム

聞こえるクレームと聞こえないクレーム

お店だったり、サービスを受けるとき、人それぞれの感想を持つ。

もちろん安かろう悪かろうの場合はフラストレーションも折り込み済みなことが多いものの、やっぱり人は気持ちいい場所やサービスを味わいたいし、そういう場所やサービスにまた行きたいと思うものだ。

「ありがとうございます」であったり、「また来てください」という声かけは、ほんとうのいいサービスの場合こちらこそと思っていることがほとんどだし、そう

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「誰かの為」と「じぶんの為」

「誰かの為」と「じぶんの為」

「誰かの為」にする何か、「誰かの為」を思うことは美しい。

でもその「誰かの為」にの、その奥にほんとうは「じぶんの為」にがあって欲しいと思っている。

それが一回とか短期間なら「誰かの為」でも構わない。

けれどあることが上手になったり、できることが増えていくという時、そこには必ず継続、そのことに向き合って長く続けるということがどうしても大切になってくる。

そのときどうしてもないがしろにできない

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書き進められないことがありました

書き進められないことがありました

数日前、毎日書いているnoteがどうにも書き進められないことがありました。

もうタイトルを繰り返しただけですね。

でも全然全然進まなくてなんでかな?なんでかな?と思っていたのだけど、何日かしてわかったんです。

それはnoteの記事って『タイトル』と『書き出しの数行』がたくさんの人に読まれるために大事。ってことをその日は意識し過ぎてしまったせいだったと後になって気付きました。

ボクはこの文章

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じぶんでかける呪い

じぶんでかける呪い

20代の人が30代や40代の人をおじさんだとかおばさんだとか言って、あるいは30代や40代の人が50代60代の人に対してネガティブな話をしているのを聞くと、運が良ければいつかじぶんもそうなるのになぁーと思うのです。

そして歳を重ねれば小さなミスや大きなミスもたくさん増え、身体も今まで通りには動かなくなるのに、いちいちそれらのミスや不具合をいじる人もいつかそうなるのになぁーと思ってしまいます。

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じぶんの中の「悲しい」と向き合う

「悲しい」とか「寂しい」みたいな感情をボクは心のわりと深いところにしまいがちだ。

その瞬間には気付かず、何かこう覇気がなくなるとか、少し元気がなくなって、身体の不調だと思って早く寝たりするけれど、やっぱり元気ないなぁーなんて時に初めて心を探すと「悲しい」と思うことがあったんだなぁと気づく。

そこにはできれば出会いたくない「悲しい」がある。

ならばそもそも見つけない方がよいのか?と言うと見つけ

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今日のじぶんが未来のじぶんを救う

今日のじぶんが未来のじぶんを救う

今日という日。

ふと周りを見渡すと、身近に居る人や環境、生活必需品から趣向品まで、じぶんが持っているものが、いろんなご縁が見えてくる。

それらはもちろん今日のじぶんが揃えたものではない。

かつてのじぶんが脈々と受け継ぎ、一日一日のじぶんが選んだり、決めたり、強めたりしてきたものだ。

つまりある日のじぶんが勇気や根気を持ち続けたから、今日のじぶんが当たり前に享受できているとも言える。

「か

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朝のスッキリ

朝のスッキリ

最近朝の習慣にしてよかったことがある。

起きたらすぐにお風呂掃除、食器を洗い、洗濯機を回し、洗濯物を干す。

スマホを見る前に、いろんな情報が入ってくる前に、家事を朝イチにやるとなんだか朝からいろいろ事を成したような気になって、そのあとの読書だったり、勉強だったり、移動だったりのエンジンになっていると感じる。

やる気が初めにあるのではなく、何かをしているとやる気が出てくるというのが体感できる。

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変人のまま死ぬ

変人のまま死ぬ

昨晩ふと変人のまま死ねる。というのは案外いい社会なのではないかと思えた。

人は3歳くらいになると集団、社会の中に放り込まれる。

そして周りの人とのコミュニケーションとその影響から人との距離感や塩梅、社会性を学んでいき、人は大人になっていく。

でもどうにもここ数十年は社会から規定される正解の人間像が強固で、せっかくそれぞれ違う人間として産まれているにも関わらず、ある範囲に収まるように矯正されて

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ラッキーとアンラッキー

ラッキーとアンラッキー

ボクはラッキーって日常にちょこちょこあるもので、アンラッキーって逆になかなかないと思っています。

そしてラッキーの反対がアンラッキーだとも実は思っていません。

例えば六枚同じ下着を持っていて、一枚違う下着の日をラッキーデイと名付けるとするじゃないですか?

じゃあ他の六日間ってアンラッキーデイですか?

と言われると違うと思うんです。

ラッキーとアンラッキーってそれぞれ独立しているんですよね

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どうしても苦手なもの

どうしても苦手なもの

ボクは人にお願いして何かをしてもらうとき、その手段や道のりにはお願いされない限り、口を出さないと決めている。

それはじぶんが手段の細かいところまで指摘されて、その結果相手の正解を探すコミュニケーションになってしまうのが苦手だからだ。

例えばスキューバダイビングとかなら細かく教えて欲しいのはわかるし、教えなければいけないのもわかる。

しかし掃除や皿洗いなどもまるでスキューバダイビングのように教

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「似ている人」と「似ていない人」

「似ている人」と「似ていない人」

昔はやっぱりじぶんに似ている人が好きでした。

同じものを好み、見ている世界、世界に対する姿勢が似ている、そんな人たちと時間を共にすることが多かったように思います。

でも最近はじぶんと似ていないこと、人として違うことに落ち着きやおもしろさを感じるようになってきました。

じぶんが人として器が大きくなって成長したからですか?と思われがちですが、それは少し違います。

むしろ逆でじぶんができないこと

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一つじゃないということ

一つじゃないということ

一つしかない。というとどうしても人は窮屈に感じてしまいます。

例えばボクはかつて実家で朝トイレに行きたいとき、誰かがトイレに入っているということに強いストレスを感じて将来はトイレが二つある家に住みたいと思っていたものです。

例えば最寄り駅が一路線しか走っていなかったとしたら、人身事故や天候不順による遅延や停止にも待つという手段しか取れません。

バスなり他の鉄道などがある方がやっぱり安心だった

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帰る場所というhome

帰る場所というhome

旅先で帰ることを意識しているのは旅行者。

常に次どこに行くか考えているのが旅人。

その定義でいくとボクは旅行者なのだと強く感じる。

そこに行きたいと思っていたのもほんとう。

今を楽しめていないわけではない。

その場所が心地良くないわけでもない。

でもそれでも脳裏にはどこかで帰ること、homeが浮かぶ。

ボクの移動、旅というものを下支えしているものがhomeで、そこを基準にしている。

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ほどほどがいいもの

ほどほどがいいもの

食べれなさすぎることを飢餓と呼びます。

食べ過ぎることを過食といいます。

付き合いたてだからといって週に六回も会っていたら今までの生活のリズムを崩してしまいます。

だからといって月に一回しか会わないのであれば、ほんとうに付き合っているの?好きなの?と不安になるかもしれません。

冬だからといって突如夏になって欲しいわけではないし、夏だからといって突如冬になって欲しいわけでもない。

これって

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