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変人のまま死ぬ

昨晩ふと変人のまま死ねる。というのは案外いい社会なのではないかと思えた。


人は3歳くらいになると集団、社会の中に放り込まれる。


そして周りの人とのコミュニケーションとその影響から人との距離感や塩梅、社会性を学んでいき、人は大人になっていく。



でもどうにもここ数十年は社会から規定される正解の人間像が強固で、せっかくそれぞれ違う人間として産まれているにも関わらず、ある範囲に収まるように矯正されてしまうことがほとんどだ。

そしてそこに収まらない人が仮にいても、おもしろがることはなく、お前も丸くなれと集団で圧力をかけるため、ますます規範の中にいる人が増えてしまう。


こうして書くと社会で言われている変人というのが変な人ではないことがわかる。

むしろボクらがこれから築いていきたい世界のロールモデルとも言うべき人たちだ。



外圧を受けながらも自身の気持ちや姿勢、やりたいことを守り、変人のままでいる。

そんな人がまた一人また一人と増えたとき、それは果たして変人と呼べるのか?


ボクの結論はそもそも人は一人一人変人だということ。

今回あえてタイトルにも変人という強い言葉を使ったのは、「変人は変わった人で社会の少数派」という認識自体がそもそも違っていて、人はみんな変人だということを言いたかった。

むしろ変人であれないことの方が異常なのだと。

だからこそ変人なまま死ねる社会が素晴らしいと言ったのは、変な外圧のない社会であり、他者との距離、社会との距離が個人にやさしい社会なのではないのかなぁと思えたことが今日の記事になっています。


皆さんのご自身の変なところはどこですか?



今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
様々な言葉をいいほうにとらえる、無理やり。みたいな訓練が時代の変わり目には大切になってくるかもしれないですね。

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