気づいたときに¥武富士は無し
不思議なもので、自分の周りには悩み事を抱えていても、それによって自身がどんな状態であるか話すことまで及ばない。目の前にある厄介事に立ち向かうべきか否か、立ちはだかる厄介事にどう対処したら良いか。という段階だからか。
ところが鬱や毒親によるしがらみに苦しむ人をSNSではかなり多くみかける。既に戦い苦しみ何度も打ちのめされているのだ。すごくデリケートな問題で周りには言えない、けど吐き出したい、レスポンス欲しさのかまってちゃんではない。ギリギリなのだと思う。素直にとても同情し、早く脱出出来ますように。と願う。近い距離の人なら、ズケズケと細かく聞き出して今この時だけでも楽になったら…と思うところだが。
私は、簡単に言うと、毒親のもと生まれ、大人たちの事情に振り回され、もがき苦しみながらやりたいことを抑えつつ脱出、気づくと燃え尽きていた。ジョーよりも私の方が、炭素的には勝ると思う。男、借金、蒸発のトリプルアクセル+反則のサマーソルトやっちゃう系母親。
ある日、自動販売機の前でだべる中学生、そして道を塞ぐチャリがあった。ヘラヘラしながらこちらをちらっと見る中学生にスイッチオン。クラクションを無心で鳴らす。プッ!じゃない。ブーーー!ブッブッブー!!(バンバン叩いている)退けるまでずっーと鳴らしていた。
「あ、ばあちゃん、私だめだ。」
そこで初めて自分がキてるのを自覚した。祖母を連れて病院へいつもの薬をもらいに行くところだったけど、「ごめん、心療内科行っていい?心療内科ってどこだっけ…」祖母は、優しく「いいよ、いいよ。」と言ってくれた。
助かる。私は助かった、と期待しながら問診票に記入していると、後ろの長椅子にいる同じくらいの男の子に「あなたも鬱ですか?」と涙を浮かべながら話しかけられ、「えっ、いえ。いや、わからないです。」と言うと、その子は付き添いの人に引っ張られ長椅子に座らされた。
「私は鬱なのか…」
やっと呼ばれ、明らかに学生の先生に問診票を復唱され、またアンケートのようなものに答える。カウンセリングみたいなのがあるんじゃないんだ…と落胆した。
「月経前症候群の重いやつかもしれないですねー。」
は? 確かに、生理の前が憂鬱、家の問題が深刻になるほどに悪化、加えて妄想や強迫観念まで。でも生理が来た途端、全てなくなるのだった。
処方されたは、パキシルと、デパス。デパスは浮腫取りでも使われていて、よほど辛い時だけ飲むように、と言われた。車に戻ると、祖母は「薬は駄目だぞ、○○。」と言った。何言ってんの、自分は薬だけでお腹いっぱいになるくせに。
驚いた。処方された薬は予想よりはるかによく効いた。スコーン!!と。もやもやが晴れるとともに、確かに、やがてだんだん強い薬になりそう。そう思った。
母親はトンズラして、私名義のキャッシングが残った。いよいよ首が回らなくなって転職した。割のいいマネキンだ。服飾の売り子。一人暮らしをはじめ、休んでいる暇なんてなかった。この頃には、パキシルとデパスにたよらず、婦人科をまわって漢方を飲んでいた。どの婦人科に行っても「子どもを産めば産むほど良くなるはず」と言われ、途方に暮れた。アメリカではうんぬんかんぬんという説明をボーっと聞いて、ピルを試した。良かったけど、忙しなさにかまけて続かなかった。
朝から晩まで働き、膝を曲げても肩まで浸かれない風呂に入り、潜って叫んだりしていた。ある日疲れ果て、風呂で睡魔が襲ってきたときは、このまま死んじゃえ。と思い、身を任せたけど、ハッと気づくと朝6時、風邪をひいただけだった。
自己啓発本を読み漁り、手帳にポジティブな言葉や目標を書きなぐった。だんだんと、元凶を取り除いたら治るのではないか、と思えるようにまでなっていた。それまでだって、出勤に遅れたり突発的に消えて街をさまようなんてこともあった。自分を責めるけど、それでも返済日がくる。働かなくちゃならない。
切り詰めるなんてことはせず、とにかく稼いで、人に会い遊んだ。寝る時は気絶だった。私が作った借金でない事実が救いだ。ならこれをなくせばいい。惨めは嫌だ、遊ぶのだ。と、スローガンにしていた。その頃、派遣先にいた社員さんはビジュアル系の追っかけをしているそうで、ホストの彼氏と同棲しており、夜はキャバを会社に内緒でやってると話していた。行動的で、賢くて、自分を持っていて。オール明けに化粧を上塗りする以外、感心することが多かった。ある日、その子が無断欠勤した、飛んだらしい。のちのちわ分かったのだが、借金の関係で東北に連れてかれたそうだ。
こんなこと、本当にあるんだ…怖くなった。
いや、身近にもあったじゃないか。
夜中に突然母親から「お酒のんじゃったから迎えに来て」と呼び出された。かなり雨が降っていた気がする。「だよ、もう。」仕方なく指定されたあたりに近づくと母がずぶ濡れになって、服もはだけた状態でいた。一目で何があったか想像した。それよりずぶ濡れだ、早く家に帰ろう。頭が回らなかった。( 服が破れてた?下着が見えていた気がする、50過ぎたオバサンだよ。やだやだ思い出したくないわ。 )
次の日、母親の車が車庫に戻っているのを見て青ざめた。事故とかじゃない、何かで殴打されたのがわかるくらいにボディーがボコボコにされていた。そんな悪夢を、悪夢ならまだいい、地獄がこんな近くにあったのだった。
話がそれたが、仕事に行けば刺激的で、仕事が終わりゃ遊び呆けていたので、考えてる暇などなかった。正面から受け止める器量がないのは分かっていたから、いちいち気づきたくなかったのだと思う。これ以上の事実を受け止めたら自分がなくなると思っていた。
6年経った。予想通り、完済する度に嘘のように癒えていった。残ったのは、燃え尽き症候群の私と、連帯保証人にならない強い決意。
今になって、有耶無耶にしてきたことを反芻している。それだけ今は、余裕があるということなのだけど。気が滅入って殺伐としてた、箸が入ってないだけでクレームつけちゃうあのキてた自分が嘘のようだ。
一生抜け出せない、と愕然としたあの頃。目の前が真っ暗で、もがいてももがいても灯りが見えない感じ。自分が自分ではなくなる、自分のことなのに、分からない恐ろしさ。
こんな経験をしても、鬱や毒親に苦しむ人に、容易く「分かるよ。」と言えない。それぞれの経緯と苦しみがあるから、共感なんて嘘になっちゃう。でもわかってあげたいほど大切な人なんだよ、あなたは。と言いたい。
必死だったから、うつぬけの瞬間は分からない。ただぼんやりと、あの頃かな?と思える。不幸自慢がかっこ悪い。と、やっとそんな風に思えるまでになった。専門学校が決まったあの頃から、雲行きの悪さに気付いていたけれど、ぼんやりしていたとはいえ自分のやりたいことは閉ざされたまま。何もない私が残ったというわけだ。
ここまで、しんみりしてしまったので話題を変えよう。
不幸初期、親に騙された借金は返さなきゃいけないの?という疑問がまだあった頃。勇気を出して電話をしたことがあった。弁護士相談10分無料。その時の電話口の男性が、軽快で優しい口調、時間を急いでパニくり泣きながら身の上話する私に、丁寧に対応してくれたのが忘れられないのだ。私名義は私が。という当たり前の答えだったのだが…。嗚呼、無茶苦茶優しかったんだよ、あの人。1度出向かなきゃならないことなど、時系列で記憶を呼び起こすしんどさに己のこれ以上の心労を恐れ、行けなかった。
完済してからようやく過払い金を思い出した時には、あの電話口の男性の名前を忘れている。事務所も忘れている。そして、ラジオでよく名前を聞く法律事務所に調べてもらったら期限切れ。いくつかの消費者金融が潰れており、かえってこなかった。
嗚呼、田中だったかなぁ、前田だったかなぁ…
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