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家族の金銭感覚や役割分担を呪いのように感じる件

こんにちは、taigaです。
突然だが、皆さんは家族との関係は良好だろうか?
もしそうであれば、それは素晴らしいことだ。

僕も自分の家族は好きだ。
何不自由なく育ててもらい、現在も家族は元気に日本で生活している。家族がいなくなると考えると寂しいし、親の死を考えるとちょっと涙脆くなる、そんな年頃にもなった。まあ平たく言えば、どこにでもいる普通の家族では、ある。

だが、何の不満もないのかと聞かれたなら、それは違う。

徹底的に家族仲が悪い人たちから見たら『贅沢言うな』という世界の話かもしれない。しかし少なくとも家族の中での生き辛さと言うのは思春期ぐらいの頃から常に感じていて、「何だか自分はこの家族の中で異端な気がする」と言う感覚はずっと纏わり付いている。
もしかしたらみんなどこかしらそうかもしれない。それは僕には分からない。

そんなわけで、今回はドイツとか色々そういうのを抜きにして、自分が家族について思うことをつらつらと書いてみよう。

◆個人の金銭感覚は、その人の裕福さに関係なく『生まれつきの感覚』だと思う

僕は大学を卒業するまで、親元で生活をしていた頃は、『富裕層』とまではいかなくとも『それなりに贅沢ができる生活レベルの家庭』で育った。
海外にもかなり長いこと住んでいたので、俗に言う帰国子女で英語もしっかり勉強した。成績はいつも良い方だった。

お金がないから買えない、お金がないからできない、などということは今までの人生でただの一度もない。それだけ金銭的に本当に恵まれていたわけだが、どういうわけか僕は、自分でも引くほどの『超ドケチ人間』だ。理由はわからない。

たとえば、以前は何か欲しいものがある時は、楽天とかアマゾンで最安値を探すために何時間もパソコンにへばりつくようなことをやっていた(それがたとえ500円程度のものでも)。もちろん費用対効果があまりにも悪いので、さすがに最近はもうあまりやらなくなったが。
あとは、たった数百円のことでも、納得がいかないことは問い合わせずにいられないというか「そんな時間があったらもっと有意義なことに費やせばいいのに」と自分でも思うような行動をとっていることが多い。

今まで1円たりともお金に苦労したことがない僕が、たった数百円のことで時間をここまで使う心理はどこから来ているのか、全く分からない。
平たく言うと「隣町のスーパーの卵が10円安いから買いに行く」レベルだ。
まあ何にせよ、僕の行動は巷では「いや必死かよ」と思われるレベルの時があるのだ。きっと本当のお金持ちはこんなことはしないだろう。

このような自分の金銭感覚は、高校生辺りからもう自覚していたように思う。
両親からはお金を粗末にするなとは育てられたと思うが、「ただの1円も無駄にするな!」という教育は一度も受けていない。
だからなぜ自分がこのような感覚を持っているかが不思議でたまらない。
家族の誰とも違うような気もする。だがもしそうであれば、金銭感覚というものは、自分がお金持ちかどうかに関係なく、生まれた時にすでに持っている『先天的な感覚』なのかもしれない。

◆僕の父親の金銭感覚

さて、話がやや飛ぶわけだが、自分の金銭感覚のルーツはどこから来たのかとちょっと考えてみた。
僕の父はかなりの苦労人で、戦後すぐのあの時代に祖母に女手一つで育てられたため、金銭感覚は非常にシビアだ。しかし何でもかんでもケチるタイプの人間ではなく、支払うべきシチュエーションとそうでないシチュエーションの見極め方が実に上手な人間である。

そんな僕も学生時代は「親父ィ、んなケチケチすんなよ。今夜は焼き肉食わせろよ。どうせ金持ってんだろォ」とか相当ふざけたことを言っていたが(相変わらず自分クソだな・・・)、今思えば父親に対して「みみっちいなこのオッサン」などと引いたことは多分一度もない。

何というか、うまく言えないのだが、つまり父親から『ゾッとするようなしみったれさ』を感じたことは今まで一度もないと言うわけだ。
だから、父親に対しての金銭的な違和感は少ない。むしろ歳を重ねるごとに若干共感している自分がいる。そういう意味では、僕の金銭感覚は父親寄りなのかもしれない。

◆僕の母親の金銭感覚

どちらかというと、現在でも自分を時おり苦しめているのは、実は母親の(正確には母方の家族の)金銭感覚である。

僕の母親は当時、俗にいう『白いワンピースが似合うお嬢様』というやつで、母方の父親(僕にとっての祖父)はかなりの収入があったという。
その名残かは分からないが、母を含めた母方の家族(祖母、そして2人の叔母)は皆、金銭感覚がまるで違っていた。
こう、なんというかあれだ。サラリとブランド物を身につけて(成金風味ゼロの溢れ出るお上品さ)、『○○円ポッキリ食べ放題!』的な安いレストランには行かず(今でもそのような場所に連れて行こうとすると途端に機嫌が悪くなる)、ワンメーターでも「タクシー使いましょうよ」という感じだ。何となくイメージしてもらえれば嬉しい。

しかしそんな両親に育てられた僕は、社会人になるまでは、正直にいうと圧倒的に『母方の家族』を贔屓していた。なぜなら、

欲しいものは割となんでもすぐ買ってもらえた。
例えば、「大学でレポート書くのにパソコンが必要なんだけど」と言えば「じゃあ今からタクシー呼んでビッ○カメラ行こうか」「この中で一番いいやつ下さい」という感じ
いつもいいレストランで外食していた。
今夜ホテルの高いステーキやら鉄板焼き行く?というイメージ。やたら高いカニとかすき焼きのコース料理とかも、思いついたら予約してディナーを食べに行くのも別に普通だった
ただの週末に近場の温泉や地元のホテルに家族で泊まっていた。
そしてちょっとおしゃれしてディナーを食べに行ったりショッピングしたりして楽しむんでいた。ちなみに何の記念日でもない
なんでもない普通の平日でも、割とご飯が豪華だった。
寿司やピザや出前、デパ地下などで金に糸目を付けず買った色々な食べ物が食卓に並び、舌鼓を打つとか

・・・うん。自分で書いててあれだな。当時は相当恵まれていたな(遠い目)。
そして今思えば、それを当然のように享受していた自分も、何だかこうして改めて書いていると、ガッツリ煩悩まみれ野郎だったことが否めない。

ちなみに僕には妹が一人いるのだが、今でも妹と話していると、二人ともあの頃(大学を卒業するまで)はある意味ゴールデンタイムだったという結論に落ち着いている。

◆なぜ、このような価値観が今苦しいのか?

そんなわけで、僕は社会人になって親元から巣立つ前までは金銭的にかなり恵まれていた。だが新卒で社会に出て一人暮らしを始めて、初給料は手取り17万円という生活をする中で節約術に目覚め、ポイ活に目覚め、100均の素晴らしさに目覚め、自炊することに目覚めた。
当時はヤフオクもデビューして家にある不用品を売ったりして小金を稼ぎ、サイゼリアで安いランチを食べたり、映画館のポイントカードをコツコツ押してもらい、1000円で最新映画を見たりすることに喜びを感じていた。

つまり、働き始めてからは親族に頼らなくなったので、かつて身を潜めていた『自分本来の金銭感覚』が花を開いた感じだった。
そしてこの開花した金銭感覚というのは今でも変わっていない。

だから苦しいのだ、実家に帰ると。

なぜなら実家に帰って正月やお盆などを家族と過ごすと、否が応でもあの時の、つまり僕にとっての『ゴールデンタイムの金銭感覚』に引き戻されるからだ。
自分が交通費の節約のために一駅歩くとか、コンビニではなくスーパーで飲み物を買うとか、そのようなことをすると、家族に笑われるからだ。

「なんやァ、あんた、また節約してるんかいね?」

この言葉、一度や二度ではない。ずうっと今も続いていて、それがふと吐き気を催すというか、非常に不愉快に感じるのだ。
僕は自分がヌクヌクと育ててもらってきた環境を差し置いて、傲慢ではないのかと自分自身でも何度も自問自答しているのだが、この『なんとも言えない不快感』がどうしてもぬぐい切れない。

「いやいや・・・昔がおかしかったんや。こんなの節約のうちに入らんよ、別に普通のことやろ」と何度言ったことか。

時が経つにつれ、母親は節約について多少は真面目に受け止めるようになってきたが、やはり根本は変わらない。
「あんた、タクシー使わんかいな」は変わらないのだ。
僕は運動がてら一駅か二駅ほど歩くことは何の苦にもならないからと、何度も伝えてきたつもりだが、もう言う気にならない。

叔母に至っては、母親以上に変わらないものだ。いつまでも昔のバブリーでゴールデンな感覚から抜け出せないでいる。

「せやせや、まあ節約も大事やからなァ。あんたはエラいなぁ」

こう言われると、まるで自分がセコセコと生きているような気分にさせられて、しかもこの『エラい』と言うのも、どことなしか小馬鹿にしたように聞こえてしまい、非常に不愉快に感じるのだ。
ちなみに昔、一度本人たちに話したが全く自覚はなかったようだ。
「ええ〜何や、あんたそんなこと考えてたんやァ」と笑い飛ばされて終わった。それもまた非常に不快だった。

ちなみに、ここ数年は歳をとって老いて来た両親や叔母に格安スマホを薦めて、そちらを契約を切り替えたりと、色々と細かい金銭面で面倒を見ている。
しかしやはり二言目には「あんた、ようこんな細かいこと知ってるなァ」と来たものだ。やはり何度言われても慣れない。
その後にもちろんお礼も言われるわけだが、どうしてもその全てがイヤミに聞こえてしまい、全く素直に受け取ることができない。

金になんの苦労もなく育ったはずなのに、なぜこんな考えになったのか自分にはまったく分からない。

◆今まで自分が与えてもらったことを、全く同じだけ返すことはできない

親孝行や、家族孝行はいつだってしたいものだが、自分は『今ままで育ててもらってきたことと全く同じように返すことはできない』と思う。
金銭的に考えても、それはとても無理だ。
何でもかんでもタクシーに乗って、欲しいものを欲しいだけ買い、食べたいものを思いつきで食べ、申し訳程度のお遊びの『節約ごっこ』に興じ・・・そんなことは残念ながら物理的に提供できない。

そんな中、最近叔母と少し話す機会があった。
妹の二人の子ども(僕にとって甥と姪)が叔母の家にお泊まりをしたらしく、久しぶりに甥っ子&姪っ子と話すと、叔母がわざと甥っ子に耳打ちした。

「スイッチ買って、っておねだりしてみなや」

叔母に言われた通りに、幼稚園に通っている甥っ子は「スイッチ買って〜」と僕に言ってきた。こんなことはどこの家庭にもある普通のことで、きっと当たり前のことなのだが。

せっかく楽しく甥っ子とビデオ通話をしていたのに、思わずスン・・・となってしまった。
んん?スイッチは数万円ほどするゲーム機じゃなかっただろうか?
そんな高価な機械を、二つ返事で「いいよ〜」とアマゾンでポチれるほど自分には経済力はない。いや、そりゃあ数万円程度の貯蓄はあるが、「ねえ、そのお菓子買って〜」のレベルでは決してないわけで。

思わずスンとなって言葉に詰まった僕に、叔母が畳み掛けてくる。
「あんた、スイッチぐらい買ったりやァ。可愛い甥っ子と姪っ子なんやから」

最近は叔母のこの『いきなりのムチャ振り』がナリを潜めていたのですっかり忘れていた。それを言われた瞬間、久々に『あの何とも言えないムカムカする不快感』を思い出した。

確かに、僕や妹は叔母や祖母に甘やかされ、色々と買い与えられてきて育った。それを叔母が僕にして来てくれたからこそ、そんなことはできないよ、なんてことがひどく言いづらいのだ。
僕がそれをできないと言うのはなんとなく叔母に対して、家族に対しての『裏切り』のような気がして、『自分が与えてもらったものを次世代に返せない人間』のような気がして、言葉を返せなくなるのだ。

ちなみに、僕は今までドイツのおもちゃ、本、お菓子、文房具、そのようなものはたくさん買っていた。今までの一時帰国の際もそれらをお土産にしてスーツケースをいっぱいにして持ち帰り、喜んでもらっていた。

スイッチのような高価なものを毎回二つ返事で買うのはちょっと難しいかもしれないが、他のものは問題ない。だが、なぜ他人(いや家族なのだが)にそれを、『役割を強要される』のがこんなに不快なのだろうか。

「それくらい買ったりや、家族なんやから」と言うのは、僕にとっては呪いだ。

自分の身の丈に合わないことでも、家族という大義名分で全て『無償に尽くす』ことが善とされ、それができないと途端に『人でなし』『しみったれ』扱いだ。

それが、ひどく息苦しい。
だから家族は好きだが『まあ・・・ほどほどで良い』と思ってしまうのだ。

◆まとめ:『家族なんだから』という呪い

なんとも取り止めのない話になってしまったが、そろそろ締めようと思う。
今回は僕の家族の金銭感覚についてダラダラと語ってみた。
母方の家族には確かに世話になったが、それを100%の力で返していくことは残念ながら僕にはできない。
しかし家族の昔と変わらない金銭感覚は、今でもふとした瞬間に顔をもたげ、『それがさも当然だよね?』の如く放たれる。その矛盾が生きづらい。

今回は金銭感覚編だったが、他にも家族との確執というか、自分が大人になった今でもなぜか消えないモヤモヤはまだ幾つかある。
どの家庭でも誰しもそれなりに悩みを抱えていると思う。割と『普通の家族』であっても、それはどこも同じだと思う。
みんなは家族に対してなんとも言えない不快感を感じたことはあるだろうか。

それにしても『家族なんだから』という言葉は呪いだなァ、とつくづく思う。
これ、結婚した女性は日々このように言われ続けているのではないだろうか?

「ご主人の健康を考えてあげなきゃ、妻なんだから」
「お子さんを支えてあげなきゃ、母なんだから」
「義理の両親はいたわらきゃ、嫁なんだから」

もちろん男性側も言われることぐらいある。
だが男性は妻の健康を考えて支えているだろうか?いや、ほぼないはずだ。
『夫の健康を考えてご飯を作る義務』レベルの責任なんてまず負ってない。
仕事をしていれば家事育児をしなくとも「忙しいから仕方ない」で許されるし、妻の義理の両親のことだってそこまで考えるわけないだろう。だってあれだ、妻の家に行っても至れり尽くせりお客さまで別にこき使われたりしない。

だからそれだけ、役割の押し付けはマジで呪いだと思う。
僕でさえ、他でもない自分の家族から『○○なんだから』『家族でしょう?』などと自身の役割を押し付けられた瞬間、頭を掻きむしりたくなるぐらいに不快でイライラするのだ。
それを常日頃から夫やママ友、先生、友人、義理の両親や親戚、あるいは見知らぬオッサンやオバサンに『妻なんだから、母なんだから』と言われ続けて、不満を表そうものなら口答えするな生意気だ。何言われても笑って耐えろ、女は愛嬌だろうが』と押さえ付けられている既婚女性たちは、そりゃあストレスだろうと思う。

黙って耐える日本の女性は、大人しいからとか、それが国民性だからとか、そういうわけではないと思う。国や政府、男社会が女性に声を上げさせないように長年じっくりコトコト、何十年とやってきた結果なんだろうな・・・と僕は思う。

『○○なんだから』『○○として』とかそういうのは、少なくとも僕は他人に言わない。僕は自分がそう言われるのが死ぬほど嫌だと身をもって知っているので、他人に同じ思いをして欲しくないので言わない。
金銭感覚にしても役割の押し付けにしても、日本人さ、自分の価値観を『正義』として他を一切排除するそれをやめたら、もっとみんなが生きやすくなると思うんやけどな。


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