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けんちゃんとりこ

「けんちゃんは何も変わってないね。」
その言葉の翌日、気がついたらバイクを走らせていた。気温は19度。風に揺れるブルゾン。
けんちゃんは名前の知らないこの感情の行き先をどうすればいいかわからずにいた。湖岸沿いのパン屋に着いた。
自販機でコーヒーでも買って、何かパンでも食べようか。そう思い、小銭を自販機に入れるが戻ってくる。
「その自販機、調子悪いんです。」パン屋から出てきた彼女はどうやら店員らしい。


美味しいパンを前に話は弾んだ。彼女の笑顔が可愛かった。口を覆うときに見える指先が綺麗だった。「仲良くなったな。」と思った。
そのパン屋に通うことは必然だった。彼女のことをたくさん聞いた。彼女も自分のことをたくさん聞いてくれた。りこは高校を卒業してからこのパン屋でアルバイトをしているのだという。
「彼氏、いるのかな。」けんちゃんは自分の気持ちに気づいていながら、特に相談できる友人もいなく、月日は経った。


ある日、りこが男の人と街を歩いているのを見かけた。見慣れないコートを着たりこに釘付けになる。「あっちいけよ。しつけぇな。」大きな声だった。りこは腕を絡ませていたのだと思う。りこは傷つけられているのに、その男についていこうとしていた。そのことを、信じたくなかった。
パン屋にはあまり行かなくなった。「どうしたの。けんちゃん最近おかしいよ。」気持ちが乗らなかった。少し困ったような顔で話しかけるりこに、どうしても気を使った。


その日は雨だった。夜なので特に寒かった。バイクのヘッドライトに、いくつもの雨粒が見えた。帰宅後しばらくしてインターホンがなる。彼女が傘を持って立っていた。けんちゃんはすぐにドアを開けた。
「急にごめんね?」「いや。大丈夫だよ。」
りこを家に上げた。りこは、泣いていた。
「重いんだって。」りこは話し始めた。高1の頃からだから、4年間付き合っていたのかとけんちゃんは思っていた。「羨ましいなぁ。」ひとしきり話したのか、その日はりこは家に帰った。「けんちゃんは優しいね。」と言ってくれた。


だいたいの会話は、今晩何を食べるかとか、今日は何時頃帰ってくるのかとかだった。りこの作る卵焼きがけんちゃんの好物だった。りこを思う気持ちは、ちゃんと言葉に出せずにいた。ただ、このまま一緒にいるんだろうなとぼんやり考えていた。事を終えた後は特に、言葉にせずとも、通じ合えている気がした。仕事は相変わらず大変だった。先輩に怒鳴られるのが嫌だった。それでも半同棲の生活は楽しかった。
ある日、りこに彼氏ができた。高校時代の先輩だという。「けんちゃんはさ、変わらないよね。」いつの日かに聞いた言葉だった。けんちゃんはまた、バイクを走らせた。


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