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『謎の喪失』驚かうとする心のないところに謎は存在する余地をもたない

 この論文は昭和二十二年に発表された。
冒頭の引用から始める。

「現代の小説はそれ自身のうちに謎といふものを失つてしまつた。で、読者はもはや小説に魅せられるといふ経験を忘れてしまつてゐる。その罪は小説家のかはにあるのであらうか、それとも読者自身に帰せられるべきものなのであらうか。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

福田の問いは、小説における謎の喪失の理由である。

「人間精神のさまざまないとなみのうちにあつて、とくに認識の機能がその優位を許されるにいたつたのはさう昔に属することがらではない。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

十九世紀以降、認識優位の時代になった。それと歩調を合わせて、科学が社会の中で力を増していく。力を増していくとは、人々の間で信頼を勝ち得ていったということだが、正確には、科学の可能性に人々は信頼していたのである。

たとえば、天気予報というものがある。天気予報への人々の信頼は何によって支えられているか。いうまでもなく、天気予報士個人ではない。それはもちろん、背後にある科学によってである。だがより重要なことは、たとえ天気予報が外れても、天気予報への信頼は微塵も揺らがないという事実だ。それは、人々の信頼の根拠が、現在の科学の正確性にあるのではなく、科学の未来の可能性にあることを示している。

福田の言葉を引く。

「そこで、かういふことがいへる。ひとびとの信頼をおいてゐるのは、日々の予報ではなく、その背後にある科学であり、それも科学の現段階ではなく、その可能性である。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

大事なのは、可能性なのだ。いつか科学の進歩・発展がこの世から「謎」を消滅させるだろうという信頼が、人々を支えている。

「現在のぼくたちにとつて未知のものが存在しないといふのではなく、やがて未知の領域が消滅しうるであらうといふ信念がひとびとを動かしてゐるのだ。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

福田は言う。
当たらなくてもいいが、当たるであろう可能性をもつことを、我々は合理的と呼んでいる。その意味で、我々には合理的な生きかたしかできない。未開時代も、古代も、実証科学以前においても、人間はつねに合理的にしか生きてこなかった。

「が、十九世紀以前とそれ以後とを分つものは、じつさいにひとびとが合理的に生きてきたかさうではないかといふことではなく、一見不可思議にみえるあらゆる現実の素材に合理的解釈を与へうると考へるか、さういふことは所詮は不可能であるとおもひこむかの相違にある。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

当然、万事を解決不可能と見るところに情熱は失われる。が、万事を解決可能と見るところにも、また情熱は失われる。なぜならば、知っていると思いこんでいることを、もしくは容易に知り得ると考えていることを、人は知ろうと努力しないからである。

この状態こそ、福田の言う、謎を喪失した状態である。

もちろん福田は補足を加える。
科学自体や、科学者自身は、決して謎を喪失してなどいないと。なぜなら彼らは、日々、現実のなまの素材と格闘し、側面からたえずやってくる合理性を破るものと悪戦苦闘しているのだから。

つまり問題は科学の外部にある。—— 与えらえた科学を利用し、傍観しているだけの人々の心の中にある。問題は、科学の可能性に寄りかかり、驚くことを失った人々の心である。

「科学がひとびとにあらゆる現実は説明しえ、あらゆる謎は解決しうるといふ信念を与へたとき、人間はなにごとにたいしても驚異を失つてしまつた。(中略)ひとびとは可能性に盲目的によりかかつてゐて、現実のなぞにたいしてはたかをくくつて驚かぬ。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

「驚かうとする心のないところに謎は存在する余地をもたない。」(『謎の喪失』福田恆存全集第二巻)

実際に、苦しんでいるのは科学者だけかもしれぬ。彼は人々に期待され、ひいきされるが、ひとたび仕事に取り掛かれば、直面するのは現実の限りない素材と、謎の脅威であるばかりだ。現実の不可解さ、不可思議さ、不可測性、それらを身に染みて知っているのは、科学者本人だけである。


ところで、福田の論旨は当然、科学論にはない。現代の小説の貧しさこそ主題である。

「ことわるまでもなくぼくは現代の小説の貧しさを論じようとしてゐるのである。現代の小説は魅力を失つてしまつた—— それは謎を、謎に直面した困惑を知らないからである。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

福田曰く。
人々は十九世紀以来、この百年間、「驚かぬ修業をつんできた」。驚くような事態に出逢えば、それを何とか説明づけようと躍起になった。その結果、さらに悪い事態におちいった。人々は説明のつく事実にしか目がつかず、説明しがたいことは無視し、忘却しはじめたのである。

「このことは近代の日本にとつてはなにより適切にあてはまる。最大の理由は後進国であるといふことのうちにある。最初に黒船が舶来の珍品を満載してきたとき一度に驚いておけば、もうあとは一切驚かないですむのだ。ぼくたちのまへには前人未踏の空白が横たはつてゐるのではない。未来はすべて見とほしなのだ。(中略)かごから汽車へのうつりかわりに一度驚いてみれば、あとは汽車から自動車、自動車から航空機といふぐあひに、未来は時間的にではなく空間的に並列されてゐる。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

「最初に黒船が舶来の珍品を満載してきたとき一度に驚いておけば、もうあとは一切驚かないですむのだ。」たいへん見事な比喩だと思う。近代日本にとって、未来は時間的にではなく、海の向こうの現在に、空間的に存在していた。

すなわち近代日本には、謎としての明日が喪失していた。

もちろん近代日本にとって、未来は、西欧が規定した一本道しかなかったわけではない。が、そう観念してしまった彼らの前に、ついに本当の意味での謎は存在しなえなかった。

「大正から昭和にかけての現代文学における自己喪失とは、じつはこのやうにして自己内面の不可測なるものの存在に発言権を禁じたところに結果したものにほかならない。(中略)小説家がもはや人間のうちに、自分自身のうちに、謎を発見する能力をもつてゐない。かれは現実のかれ自身を超えることができない。で、作品はつひに作者自身を抜きえないのだ。(中略)かれのまへに謎はないのだ。素材も現実もかれ自身も謎ではない。自己喪失とはさういふことなのである。なにもかも底が見えてわかりきつてゐるといふことなのだ。」

『謎の喪失』福田恆存全集第二巻

驚く心、謎を見つける力、好奇心や探究心、それらを失うと生は平板にしぼんでいく。

謎とは障碍だ。闘うことになる。
だがそれと格闘しているとき、人生は間違いなく劇的になる。

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