『謎の喪失』驚かうとする心のないところに謎は存在する余地をもたない
この論文は昭和二十二年に発表された。
冒頭の引用から始める。
福田の問いは、小説における謎の喪失の理由である。
十九世紀以降、認識優位の時代になった。それと歩調を合わせて、科学が社会の中で力を増していく。力を増していくとは、人々の間で信頼を勝ち得ていったということだが、正確には、科学の可能性に人々は信頼していたのである。
たとえば、天気予報というものがある。天気予報への人々の信頼は何によって支えられているか。いうまでもなく、天気予報士個人ではない。それはもちろん、背後にある科学によってである。だがより重要なことは、たとえ天気予報が外れても、天気予報への信頼は微塵も揺らがないという事実だ。それは、人々の信頼の根拠が、現在の科学の正確性にあるのではなく、科学の未来の可能性にあることを示している。
福田の言葉を引く。
大事なのは、可能性なのだ。いつか科学の進歩・発展がこの世から「謎」を消滅させるだろうという信頼が、人々を支えている。
福田は言う。
当たらなくてもいいが、当たるであろう可能性をもつことを、我々は合理的と呼んでいる。その意味で、我々には合理的な生きかたしかできない。未開時代も、古代も、実証科学以前においても、人間はつねに合理的にしか生きてこなかった。
当然、万事を解決不可能と見るところに情熱は失われる。が、万事を解決可能と見るところにも、また情熱は失われる。なぜならば、知っていると思いこんでいることを、もしくは容易に知り得ると考えていることを、人は知ろうと努力しないからである。
この状態こそ、福田の言う、謎を喪失した状態である。
もちろん福田は補足を加える。
科学自体や、科学者自身は、決して謎を喪失してなどいないと。なぜなら彼らは、日々、現実のなまの素材と格闘し、側面からたえずやってくる合理性を破るものと悪戦苦闘しているのだから。
つまり問題は科学の外部にある。—— 与えらえた科学を利用し、傍観しているだけの人々の心の中にある。問題は、科学の可能性に寄りかかり、驚くことを失った人々の心である。
「驚かうとする心のないところに謎は存在する余地をもたない。」(『謎の喪失』福田恆存全集第二巻)
実際に、苦しんでいるのは科学者だけかもしれぬ。彼は人々に期待され、ひいきされるが、ひとたび仕事に取り掛かれば、直面するのは現実の限りない素材と、謎の脅威であるばかりだ。現実の不可解さ、不可思議さ、不可測性、それらを身に染みて知っているのは、科学者本人だけである。
ところで、福田の論旨は当然、科学論にはない。現代の小説の貧しさこそ主題である。
福田曰く。
人々は十九世紀以来、この百年間、「驚かぬ修業をつんできた」。驚くような事態に出逢えば、それを何とか説明づけようと躍起になった。その結果、さらに悪い事態におちいった。人々は説明のつく事実にしか目がつかず、説明しがたいことは無視し、忘却しはじめたのである。
「最初に黒船が舶来の珍品を満載してきたとき一度に驚いておけば、もうあとは一切驚かないですむのだ。」たいへん見事な比喩だと思う。近代日本にとって、未来は時間的にではなく、海の向こうの現在に、空間的に存在していた。
すなわち近代日本には、謎としての明日が喪失していた。
もちろん近代日本にとって、未来は、西欧が規定した一本道しかなかったわけではない。が、そう観念してしまった彼らの前に、ついに本当の意味での謎は存在しなえなかった。
驚く心、謎を見つける力、好奇心や探究心、それらを失うと生は平板にしぼんでいく。
謎とは障碍だ。闘うことになる。
だがそれと格闘しているとき、人生は間違いなく劇的になる。
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