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『まつごのめ』(短編小説)

2004年頃に興味本位で某芥川賞作家の小説学校に1年間だけ通っていました。その授業で発表した約3,000字の短編小説を少し加筆修正したものです。恥ずかしながら、自分の鬱屈とした20代の日々が見え隠れしています。若さと自己顕示欲でペンを走らせた、物語も文章も拙い作品です。PCの奥深くに封印していましたが、noteという場を得たことで再度人の目に触れさせてみようという気になりました。気分次第でまたすぐに引っ込めるかもしれません。

まつごのめ

 深い深い夜だった。外では霧のような細かな雨が街を霞ませている。アパートの薄暗い四畳半に雨音だけが単調に鳴り響いている。どこからともなく通り抜けてくる湿った風が、風鈴のくぐもった音を奏でる。

 コップに注いだ水を一気に腹へ流し込んで、さあ寝ようかと布団に横たわったその時だった。
「ドンドンドン!」 
 激しくドアを叩く音が静寂をかき消した。突然の出来事に睡魔は一気に吹き飛んだ。
「ドンドンドン! 」
 再びドアを叩く音。心臓の音も同じくらいの大きさで響いていた。息を飲み込む。
「はあ、はあ……」 
 女性らしき微かな息づかいがドア越しに聞こえる。いつもの自分ならドアに近づくことすらしない。でも僕は何かに導かれるようにゆっくりとドアのぶに手を伸ばした。人恋しい季節がそうさせたのかもしれない。
 ゆっくりとドアを開けると、長い髪に水を滴らせた裸足の若い女が震えながら立っていた。銀色のラメをちりばめたワンピースは水に透けて、肌や下着の色がわかるほどだ。濡れた髪が黒いストライプのように顔を隠していたが、端正な目鼻立ちなのが見てとれた。女は僕に抱きつくようにもたれかかって崩れ落ちた。仄かな香水の匂いが僕を包んだ。

 部屋の傍らで横になった女はひどい熱だった。毛布をかけたあと、タオルを水で浸してそっと額に乗せた。熟睡する女の顔を眺めながら、自分がとった一連の行動にただただ驚いていた。バイトと四畳半を往復する単調な日々に、何らかの事件が起こることを僕は望んでいたのかもしれない。
 外では、パトカーだか救急車だか何やらわからないサイレンがけたたましく鳴り響いていた。雨は相変わらずしとしとと降り続き、街をいっそう黒く染めていった。            

 目が覚めるとカーテンの脇から僅かな陽光が差し込んでいた。隣にはスースーと寝息をたてている女がいる。やはり昨晩のことは夢ではなかったようだ。女を看病しながら自分もその横で寝てしまったらしい。カーテンを開くと、前日までの雨が嘘のような冴え冴えとした空が広がっていた。
 女の表情からは昨晩のような険しさが消えていた。女の額に手の平をあててみた。すっかり熱は引いたようだ。 
「ん…」 
 女の瞼が鈍く動いた。大きな目を一瞬まぶしそうに細めたかと思うと、みるみるうちに大きく見開いて、僕をとらえた。 
「あっ、ああ……」 
「起きたんだね。大丈夫?」 
「…」 
「昨日の夜、ひどい熱で部屋の前に立ってて。びっくりしたよ、あんな時間に。しかも靴はいてないし」 
 女はうつむいている。 
「俺、ミノルっていうんだ。きみの名前を聞いてもいい?」
「…」
 反応がない。
「いや、言いたくないんなら無理しなくていいよ」
「あの……ここに……あの、おいてもらえないですか」
 彼女の突然の申し出に、僕は躊躇することなく頷いていた。
「何て、呼んだらいい?」
「金魚」
 突然始まった金魚との時間は、乾ききった僕の暮らしに潤いをもたらしてくれるかもしれない。確かに僕はそんなふうに思った。

 日が沈む頃、二人で多摩川に涼みに行った。堤防の上に伸びる未舗装の道を肩を並べて歩く。空気が澄んでいて、なだらかな山々の稜線が赤い空と黒い影をはっきりと隔てているのがわかる。
「きれい…」
 金魚が遠くを眺めて、ぼそっと言った。
「ここを歩くのが好きなんだ」
 吹きつけてくる風を受け、彼女の髪が乱れる。右手で髪を気にしながら、サイズが大きめの僕のサンダルをペタペタ鳴らす。すれ違う人たち皆が僕を好奇の目で見ている気がする。ひょっとすると僕はまだ夢の中にいるのかもしれないなと思った。
「ちょっと休もうか」
 鉄橋のすぐそばのベンチに腰を下ろす。言葉を何も交わさない時間が流れていく。忙しく流れる川の水面に見入りながら、無口な彼女が切り出した。
「あの…」
「ん?」               
「知ってますか」
「何?」
「まつごの目っていう言葉」
「まつご?どういう意味?」
 一瞬間を置き、金魚はゆっくりと口を動かした。
「何もかもが美しく見える目のことです」
「へえ…」
 金魚は弱々しい声でさらに続けた。 
「あの空も、今日の風も、そこにある名前を知らない花も……」
 空は藍色に染まり、道はすっかり闇に飲み込まれていた。  
 その時、彼女がいったい何を言おうとしていたのか、遠くを見つめる瞳には何が映っていたのか、わからなかった。

 それから数日経った。僕はバイト先の物流倉庫のロッカールームにいた。作業着を着替えながら、今夜は金魚と一緒に何を食べようかと考えていた。
「おつかれさまでした!」
「今日も帰るの? お前、ここ最近付き合い悪いなあ。何かあったのか」
 バイト仲間のヒロシが声をかけてきた。バイトの後は麻雀という無言の約束があったものだから、ヒロシが不自然に思うのは当然だ。でも、僕は一刻も早く金魚のもとに帰りたかった。ちょっと目を離した隙に金魚が消えてしまうかもしれない。なぜだか、そんな予感がして落ち着かなかった。
 僕は早足で歩きながら、二人の不思議な関係について考えていた。同じ屋根の下で時間を共にしていながら、必要最低限の言葉しか交わさない。友達でもなく、恋人でもない。彼女について僕が知っているのは、本名かどうかすらわからない名前だけだ。時間が経てば話してくれるだろうか。
 商店街を通り抜ける時、太鼓腹の中年男二人が後ろを歩いていた。中年男二人は大きな声で何やら話している。
「お気の毒に。その娘さん、まだ若かったんだろう」
「まだこれからって時だからなあ。親御さんも無念だろうな」
「病気だったんだっけ」
「そう。昨日は礼服を着た人がたくさん屋敷の前にいたよ」
 近所に住んでいる誰かに不幸があったという話をしているのは間違いなかった。しかし、田舎から東京に出てきて以来、近所づきあいのようなことは一切していない自分には近いようで遠い話でしかなかった。

 アパートに戻ると、部屋の角で膝を曲げて体を小さくしてうずくまっている金魚がいた。まるで何かに怯えているようだった。
「どうしたんだ?」
「怖い…」
「おいしっかりしろ、何が怖いんだ?」
「…」
 体中が震え、表情が青白い。僕は彼女の手をとり、包み込むように抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だ…」
 彼女の体はどことなく冷たい感じがした。
「寒いのか?ちょっと待ってろ。温かいもの買ってくるから」
 商店街におでん屋台があったのを思い出し、僕は部屋を飛び出して夢中で走った。熱々のおでんをぶらさげ、急ぎ足で部屋に戻った。そこに金魚の姿はなかった。
「な、なんで…」
 薄暗い四畳半に残されたのは、20代半ばに差しかかったフリーターの男と、その男の手にぶらさがったおでん、微かに漂う金魚の香りだけだった。アパート周辺を探したが、金魚の気配はなかった。風通しの悪い空間で、風鈴が音をたてて揺れていた。

*

 窓から差し込む神々しい西日が二人の顔を赤く染めている。香世は怪訝そうな顔をして僕をじっと見ている。
「で、金魚さんはそのお屋敷のお嬢さんだったってこと?」
「そんなの、どっちでもいいんだ」
「あなたの部屋をなぜ選んだのかしら?」
「俺にもわからんよ」
 目をつむると、色褪せた記憶が鮮明な映像となって頭の中を駆け巡った。
「あなた…、あんまり話し過ぎると体によくないわ。そろそろ休んだら?」
「なあ香世…」
「どうしたの?ミノルさん」
「外に行きたい。連れていってくれ」
「でも…、あんまり動いたらダメだって先生が…」
「頼む」
「ま、いっか!ちょっとだけね」
 僕はもう長くない。いつもと変わらない口調と表情で接しているのは、彼女なりの精一杯のやさしさだろう。
 香世に車椅子を押してもらい、庭に出た。

「ああ、ああ、そうか……」
    心から何かが一気にあふれ出した。頬に大粒の涙が伝っていく。涙もぬぐわず、瞬きもせず、ただひたすら景色に見とれていた。
    木々や池や建物が鮮やかな橙色に染まる。花壇の花が可憐に揺れる。風が肩を撫でる。目の前に広がっていたのは、30年前のあの日に見た黄昏だった。きっと、あの日の彼女の眼差しの先にあった同じものを、今の僕は見ているのだろう。
「夕焼けがきれいだ」
「あら、あなたらしくない台詞ね」


「末期の目」=人が死を覚悟した時、目に映る全ての景色が美しく愛おしく見えること。

読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。