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『ひとつ。』

お父さんが病院を退院するしばらく前。

非常に激しいせん妄状態に陥り、認知症のテストもことごとく引っかかり、「認知症」という診断を受けたお父さんに、またしても 私は人生を救われたことがあった。
(実際には誤診で、長い入院生活でよく陥る一時的な せん妄状態であった)

現実と全く区別のつかない「妄想」を体験し、その生々しさや、言うに言われぬ恐怖や、「あり得ないこと」の只中にまさに自分が置かれているという、あの独特な強烈なパニックを経て、「妄想」を認識したお父さんにこう言われた。

「私は、あなたを本当に心からわかったよ。辛かったろう。怖かったろう。こんな発狂しそうな「妄想」という状態に頻繁に陥ったのに、あなたはよく耐えてきた。私は、実際に体験してみて、あなたが抱えてきたものを、やっと理解できたよ」

お父さんは、自分の身に降りかかってくる様々な せん妄状態や、意識レベルの激しい 低下などを経験して、しみじみとこう言った。

「この病棟には、車椅子でしょっちゅう ナースルームに来る、5分おきに トイレに行きたいとせがむ おばあちゃんや、寂しくてわけがわからないことを言いながら、ナースルームにばかり来るおじいちゃんとか、認知症の患者さんが多いだろう?
なんとなく分かるんだよ。
例えば、あの 5分おきにトイレに行きたいとせがむ おばあちゃんにとっては、トイレに行くことが、人生の全てなんだ。トイレに行きたいとせがむこと、そしてトイレに行かせてもらうこと、その中に、不安も恐怖も満足も喜びも、全部が詰まっているんだと思うよ。
私は、野菜と果物の区別もつかなくなって、あなた 以外と喋ることも怖くなって、自分がそうなって初めて、あのおばあちゃんの心境が分かるような気がして、そしてあなたが分かるようになったよ。
あなたはよく生きてきた。辛かったろう。立派だよ。生きてきてくれてありがとう」

お父さんはそう言った。

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