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日本はどこにあるのか?

日本はどこにあるのか?

日本ってどこにあるの?なんて質問をしたら、たぶん多くの人が「ついにこいつは勉強しすぎて頭がおかしくなったに違いない」と思うだろう。もしくは、こいつは地理が全くできないと思われるかもしれない。

では、みなさんは、日本はどこにあるのか?と聞かれてパッと答えられるでしょうか?少し考えてみてください。

中国の東側でしょうか?それとも、ロシアのシベリアの南でしょうか?もしくは太平洋の最西端に位置する島なんて答えがあってもいいかもしれません。もしくは調べると東西は東経122度から154度の間で、南北は北緯20度から46度の位置なんて表現もできるかもしれません。


では、さらに突っ込んでいく。日本はいつから日本で、どこまでが日本なのだろうか?

この答えは少し地政学的な知識や歴史の知識を必要とする。私は歴史学者でも社会学者でもないので、あんまり詳しいことには口を出せないが、昔は「倭の国」と呼ばれていた。

中国が唐の時代(おおむね西暦700年を過ぎたくらいの時代)に倭から日本に少しずつ変化したらしい。

なかなかこれは面白い事実だと思う。

さらに日本書記によれば、日本神話による初代・神武天皇即位の日(辛酉年1月1日)を建国とする説もある。(グレゴリオ暦に換算すると紀元前660年2月11日。)

日本神話なんかも深ぼってると、日本の始まりのストーリーが色々あってこれもまた面白い。

話が少し逸れたが、日本は何とも始まりが曖昧な国なのである。大体の国は建国記念日や独立記念日なんていうものがあるのだが、歴史があまりに古く、明確な時代がわからないのだ。

もっというと、ほとんどの国は1900年代に建国されている。ドイツは1990年10月3日、ベルリンの壁が崩壊された時だ。つい最近じゃないか!スペイン
1978年12月6日、イタリア1946年6月2日、日本・・・

そう考えると、日本はものすごく特殊な国だということに気付かされる。そもそも一度も占領されたことがないのだ。第二次世界大戦で負けた時でさえ、間接的な統治という形で日本の政府は、しっかりと残っていた。これまでの日本の歴史を振り返っても、元の侵攻を筆頭に何度も責められたことはあったけど、その度に乗り切ってきた。

平安、鎌倉、江戸、権力者は変われど、私たちは古来から日本人というアイデンティテを失わずに、文化や価値観を形成してきている。これは本当にすごいことだと思う。世界を見渡してみてもこんな国は日本くらいじゃないのか?

それは、のどかで平和的な文化が形成されるよなーと妙に納得してしまった。


では、もう一つの質問に移ろう。日本はどこまでが日本なのか?

これは、答えるのがもっと難しい。というのは、国によって定義が違うからだ。ご存知のように北方領土、竹島、尖閣諸島などは、長い間土地の所有権を言い争ってきたが、まるで話し合いが進む気配がない。(何なら少し押され気味な気もするけど。)

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ちなみに日本最西端、与那国島と台湾までの距離は111km、石垣島と台湾までの距離は大体300kmくらいだそうだ。

こうしてみるとわかるけど、沖縄というのは、日本よりも中国の方が近いまでいうと言い過ぎだけれど、相当に近い。石垣島と台湾が300km離れているそうだが、私が今、仙台に住んでいるが東京までを直線距離で結ぶと大体300kmくらいである。

たった、これだけの距離を移動するだけで、文化も言語も全く違った国があるというのは本当に不思議だ。

でも、国境を一歩越えれば、主義主張の違う全く違った国になった場所がいくつかある。ドイツや朝鮮だ。

冷戦中の東ドイツと西ドイツは、同じ民族でも主義主張が代わり、その政治体制だけで、あまりにも違う雰囲気の国になったそうだ。

国というのは、歴史をたどるごとにその形や主張を変えてきた。そこで生まれた文化もあるだろうし、新しいイデオロギーや生活ができたかもしれない。

占領されようと、主義主張が変わろうと、そこに人がいて、街があって、国がある限り、文化や主張が生まれる。それで生活のレベルまで変わってしまうのだから、国づくりというのは責任が重く、やりがいのあることなんだろうなと思う。

先ほど、日本は占領されなかったというが厳密な意味では違うのだろう。例えば、沖縄が日本に復帰するのは1972(昭和47)年5月15日で、それ以前はアメリカだった。確かにその時はアメリカのドルが使われていた時代がある。そしてその前は琉球王国で、沖縄という地域は非常に複雑な背景を抱えている。

ちなみに首里城が全焼したのは、かなり大きなニュースになったが、同時に歴史的な文書も燃えてるらしく友人とこれは、中国の陰謀なんじゃないかとか話していた。大体為政者は、歴史から変えようとしてくる。

日本はまだ、島国だから国境というのは割と明確だけど、他の国は経度で分かれてたり、川などの自然で境目でできてたり、もっと国境やイデオロギー、アイデンティティなんていうものは曖昧なのだと思う。


国境といえば、平成25年度の国家総合職試験では、「現代世界における国境の意味について」という出題があった。政策論文なので、もちろん答えはないのだけど、一般に人々の生活を安定かさせる政治システムと、人々の生活に必要な財やサービスを提供する経済システムという観点があるようだ。

つらつらとこの問いに答えてみたい。

近代国家以前では、血縁や地縁といった社会関係の及ぶ範囲が政治的なシステムの範囲として、国境のような扱いを受けてきたようである。つまり王族の支配圏かどうかというのが、国かそうでないかという違いを生み出してきた。

一方で経済圏というのは、国境というものよりもっと曖昧で、広範囲に渡るものだった。アメリカ経済がもたらす影響を考えればわかりやすいだろう。それに加えて、EUやASEANのような経済連携も生まれているのだから、現代社会における経済圏というのは大きな力学が作用する。

国境というのがある意味で、内部の治安や政治システムの維持として利用されてきたので、一種の排他性が生まれてしまった。現代がダイバーシティーというものを意識しているのなら、それを否定するような時代があった。

そういう外の考えや人種を排除するような動きが戦争や冷戦といった悲劇を生んでしまった。

現代はダイバーシティー的な考え方に加えて、グローバル化が加速しているので、より内と外という区分を設けることが難しくなっている。気候変動も金融システムも、もはや一国の手に負えるような問題ではなくなってしまった。

その一方でトランプを代表とするような、ナショナリズムの動きもある。確かに大統領はバイデンに変わったけれど、ナショナリズムというイデオロギー自体が消えた訳ではない。

国家の役割というのがますます不明瞭になるものの、それでも国境の内側の安定した生活を守るという役割は消えない。

引き算的な日本文化

かなり遠回りしてしまったが、ここからが本題になる。少々複雑な議論をしてきたが、要はアイデンティティとか、国境というのは非常に曖昧だけれど、世界的にみて日本は際立って、その成り立ちやイデオロギーの形成が特殊であるということを言いたかった。

こういうことを恥ずかしながら、全然知らなかった。色々世界を見て回ることはあったけど、足元の自分が生活をしている国が、こんなにも魅力や神秘に溢れているとは気づけなかった。

そういうわけで、もう少し日本の文化的な側面を考察してみたい。

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日本の文化はしばしば、引き算的と言われる。字面ではわかりづらいが、写真のような「暗がり」、「侘び寂び」といった文化だ。これを知ったとき、頭をガツンと殴られるような感覚があった。

日本は課題大国として語られる。世界に先駆けた少子高齢化、GDPの衰退、地方の衰退、借金大国、上がらない賃金、増えていく災害etc

まあ、ドン引きもいいとこである。こんなことを考えていたら誰だって絶望する。課題どころか、もはや終焉に向かっているようにしか思えない。壊れかけの安全装置がついたジェットコースターに乗りながら、何とかまだ生き残っているというのが、最大限謹んだ表現である。

こんなことを考えている時に引き算の文化という表現をみた。引き算というのは、暗がりを美として慈しむ心である。もしかしたら、こんな課題しかない日本もプラス、いやマイナスに捉えられるのかもしれないと胸が躍った。

ここで松尾芭蕉が謳ったとされる俳句を引用してみよう。

https://k-daikoku.net/wabi-sabi/

「夏草や兵どもが夢の跡」
またここで戦があったのか。
勝った側も負けた側もそれぞれの夢や希望を持ち大義名分を抱えて戦ったんだろう。
でも戦が終わってみると一面には多くの亡き命。
その周辺には、夏草が伸び、自然のサイクルが何事もなかったかのようにただただ続いていく。
本当に無常なものだ。

なんて、美しい詩なのだろう。夢や希望があって、戦って負けて、そんな無常の中に、夏草だけが一面になびく景色が見えてくる。
確かに武士道の世界でも、桜の花びらをみても、美しく散ることが一つの美学として捉えられてきた。

この状況は今の日本にすごく似ていると感じる。戦後、先人たちの必死の努力で高度経済成長を進め、一時期はGDPで世界2位、時価総額ランキングでは上位独占。ソニーやトヨタといえば、世界の誰もが憧れるトップ企業。技術の日本。世界の日本。

そんな時期が昔はあった!(らしい)。正直自分たちからすると、特段不自由はしてないし、経済的な憧れもだいぶ落ち着いたけれども、あのバブルのような華々しさはもはやなく、必死に過去の栄光にしがみついているようにも思える。


日本も含めて、現代世界はあまりに足し算の文化が押し付けられすぎた。大量消費、大量生産の社会に、まだ足りないとばかりに、あらゆる広告が消費を促す。

今の世界は明るすぎて、休まるところがない。何もかもが筒抜けで、ただただ競争の中に身が置かれる。小さい頃から勉強をし、いい高校、いい大学、いい会社に入って、そこで競争に敗れれば敗者としての烙印が押され、勝ったところで一体何が残るのだろう。

私たちには暗がりが必要だ。暗がりの中だからこそ、人は手を取り合い、支え合い、その心を寄せ合うのだろう。暗がりの美学は今こそ本領を発揮すべきなのではないか。


今こそルネサンスだ!

ルネサンスはご存知の通り、14世紀イタリアで始まった古代ローマの文化を復興していく一連の運動のことをさす。

あの頃も、十字軍の遠征やビザンツ、オスマン帝国の戦いなど激しい時代を得ながら、文化が入り混じり、原典を思い返していたのだろう。


日本にも素晴らしい原典がある。未だに暦が残り、日本神話から始まる天皇を敬い、桜を嗜み、日本語を大切に使っている。壮大な歴史を持っている。

現代は、資本主義という名の下に、夜でも明るい街ができ、貧困は減り、世界はもので溢れるようになった。その一方で、一日中仕事で追われ、休日はただただものを買い、かっこいい車は手に入っても、桜を嗜む余裕はない。

何か私たちには大切なものが欠けている。そんな気がするのだが、その答えが実は、足元のすぐ近くに転がっていたのかもしれない。


旅をすると、この世界の壮大さと神秘さに、ただ呆然と言葉なく立ち尽くすことしかできなくなるときがある。日本にはまだまだ知らない風景があるし、壮大な歴史と文化が残っている。

そういう足元をちゃんと見ながら、私は真っ白なキャンパスに一枚の線を描きたい。

どんな線になるだろうか。課題大国と呼ばれる日本で、どんな国を目指すべきなのか。私は今こそ「ルネサンス」なのだと思う。

これまで大切にしてきた「武士道」という価値観、「侘び寂び」の精神、GDPは衰退すれども、日本人としての誇りを保ちながら、生きていく道はないだろうか。桜のように美しく散りながら、年輪のように一歩一歩太く、次の冬を乗り越え、また咲けばいい。

こんなふうに僕は、世界を描ければいいなと思うのだけれど、みなさんはどんな線を描きますか?


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