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『赤土と太陽』第一章

ハリウッドブールバード沿いの古い小さなカフェ。テラスでコーヒーを飲みながらタバコを吸っていると感情が見えない涙がつたった。私はそれをぬぐうでもなくロサンゼルスの人々の営みを眺めていた。

西海岸らしく晴れ渡った空とは対照的な自分の心の最深部にあるものを懸命に分析していると何本かのタバコが燃えかすになった。ここは私が想い続けてきた街。何かが変わると信じ続けてきた街。その街の片隅で自問自答を繰り返す。

答えがぼんやり見えてくる頃には陽も少し傾き始め、爽やかな風は灰皿に溜まった思考の燃えかすを吹き飛ばしていった。私は乾きかけた涙をぬぐって立ち上がる。

2013年10月25日15時58分

赤土と砂漠の大地を走り抜けついに6300kmに及ぶ旅の終着点であるロサンゼルスにたどり着いた。しかしそこに私が当初期待していたものは何もなく、現在も続く長い旅の新たな始まりが待ち受けていた。
 
そしてこの日私はゴールを失った…






◆第一章目次
 
「国道1号線」
「国道2号線」
「南洋へ」
「音楽と旅と」
「不安」
「UFOキャッチャー」
「思いやりという名の狂気」
「アルコール中毒」



 
【国道1号線】
 
旅をする事に必ずしも理由は要らないが私の旅には漠然とした理由があった。何をやっても中途半端な自分にいい加減うんざりしていた私は一つだけでいいから言った事をやり遂げてみようと奮起した。しかしそれが具体的に何なのか分からず旧知の仲である中野岳臣に期待もなく相談してみると、彼は無責任かつ冒険心を擽る自由な提案を口にした。
 
『今度大阪で日下部君の結婚式があるじゃん?それに自転車で行ってみたらどうだ?』
 
岳臣にしてみれば深い思考を介さず思い付いた事を口にしただけだろうが、それにしてはこのアイディアは私の心を鷲掴みにし他の提案はもう必要としなかった。
 
私はビールを飲みながら考えてみた。東京から大阪まで自転車で行くためにはまず何が必要か?酔った頭であれこれ想像を巡らせる事は難しかったが一つだけ明確な結論は導き出した。まずは自転車が必要だ。
 
そもそも自転車を持っていなかった私は知り合いが中古で手に入れたという20インチの自転車を借りてきた。ピザにしては大きいくらいのタイヤサイズだったが気にする事はなかった。

次に自分が住む東京と大阪の距離や大体の道のりを調べてみた。550kmか...  1日に100kmくらい走ったとして5日かかる訳だ。ならばちょうど結婚式の5日前に出発する事にしよう!大切な友人の結婚式に参加しない訳にはいかないから意地でも走り切るだろうと自分を追い詰めたのだ。

2009年11月17日00:00
 
自転車を手に入れた以外特にそれらしい準備もないまま出発の夜を迎えた。出発直前にも関わらず私はいつもの様に参宮橋のカフェで仲間と大騒ぎをしていた。本気で心配しているやつ、あまり分かっていないで飲みに来ているやつ、走れるかどうかを賭けているやつ、色々な友人が集まり宴会は夜遅くまで続いたが、日付が変わった11月17日00:00、私は彼らに見送られながら大阪に向って走り始めた。なぜ初日から徹夜で走る事にしたのかは全くもって不明だが、普段着のままカバンを一つ自転車に縛り付けて山手通りを国道1号線に向って走り始めた。
 
これが全ての旅のきっかけ。
 
順調に深夜の1号線を走り夜明け前には太平洋を臨むところまで来ていた。深夜にスタートしたせいで初日はどこで宿泊できるのかさっぱり分からなかった。宿があってもチェックインは15:00くらいだろうし、少なくとも出発から15時間は走り続けなければいけない事にようやく気付いたのだ。

自分の計画性の無さに呆れていると見慣れた温泉地にたどり着いた。箱根湯本だ。車やロマンスカーでは何度も来た事があった箱根も自転車で来ると少しだけ景色が違って見えるのが面白い。寛ぎたいところではあるが温泉になどゆっくり浸かっている気分的な余裕はない。この時点で100kmも走れていない上に箱根の山越えが待ち構えているからだ。
 
箱根湯本を過ぎると急に本格的な山道が始まるが、まともなヒルクライムなど経験した事もない徹夜走りの私はほとんど自転車を押して上っていた。何とか芦ノ湖にたどり着いた時には夕方近くになっており、今度は日暮れまでに下山しなければならないという焦りに急き立てられた。徹夜で走ったのは自業自得だがペダルをこがなくてもいい下りでは朦朧とする意識を保つのに必死だった。

眠気のピークが過ぎるとハイな時間がしばらく続き、一度も休まずに大阪まで走っていけるかのような自信がみなぎってきて、結局初日は静岡市までの180kmを走り切った。1日100kmと決めていた訳で180kmという距離は自分に自信を与えるには十分な結果であった。
 
ただ翌朝走り始めると右膝に違和感を感じるようになっていた。サイクリング経験のない私は当然の疲れだとしか思わず軽快に走り始めたが、20kmも走ると違和感などという曖昧な表現が許されない明確な痛みを感じ始めた。無理もないだろう。何の経験もない男が何の準備もなく最寄の駅に行く程度の街乗り自転車で180kmを走り箱根の山を越えてきたのだから。

静岡市からの1号線の西進は大した道のりではない。大した事はないのだが痛みは着実に私のやる気を削ごうとしており、ひそかに2日で名古屋まで到達する目標を立てていたが岡崎の山中で停滞を余儀なくされた。そして元気に走っていた時にはあまり気にならなかった寒さに震え始めた。なるほど、東京から大阪まで自転車で行くのはそれほど簡単な事でもないようだ。

寒さに耐え切れずコンビニで温かい肉まんを頬張ったが、寒さを凌げたのはその一時で、改めて走り始めると肉まんの一つくらい何の意味もない事を痛感した。寒さが身体の芯に向かって伝わっていくのを感じながらも何とか頂に立ち行く先を眺めると、遠くの方に何とも言えない下品な輝きを確認する事ができた。

ラブホテルだ。
 
ラブホテルだろうがホテルはホテル。私は迷わず一人で駆け込んだ。小窓から初老の男性が口元だけを突き出し丁寧に料金やシステムの説明を進め、最後にそのホテルが現在キャンペーン期間中である旨を添えた。入室して部屋のどこかに書いてあるキーワードを言えば料金が割引されるのだという。山中で震えていた私にはどうでもいいお得情報だったが実際に部屋に入るとあまりにも分かりやすい場所にそのキーワードは書かれていた。

旅の序盤での経費削減は重要な発想だと思い直しフロントに電話をかけると聞き覚えのある声のおじさんが応対した。先程システムやキャンペーンの案内をしてくれた初老の男性じゃないか。しかし彼は先ほどとは打って変わってロバート・デ・ニーロか舘ひろしを思わせる渋い声で『合言葉は?』と尋ねてきた。
 
『ミッドナイト......』
 
何なんだこれは!?

おじさん相手にラブホテルで一体何をやっているのだろうと虚しくなった。

気を取り直して私は風呂にお湯をはった。とにかく少しでも体を癒さないと大阪どころか名古屋までも走り切れない。

七色に光るラブホテルの大きなバスタブに身を沈めジャグジーを作動させると快感から意識が遠のいていくのを感じたが次の瞬間!急に両脚が動かなくなった!いや違う。脚が攣っていると言うか下半身全体が痙攣するような感覚に襲われているのだ!顎下まではったお湯の水位がどんどん上がってくる。正しくは水位は変わらず私が沈んでいるのだ。

七色に照らされた私は必死でバスタブにしがみついた。

岡崎の山中にあるラブホテルで私が溺死した状態で発見されれば普通は事件だとしか思わないが、実際に事件性は無くただの事故死であったなんてこんな惨めな死に方もない。それは親が泣くし周りは笑うだろう。そして何より生前最後の言葉がラブホテルのおじさん相手の『ミッドナイト』だったというのは悔いても悔い切れず、何分もバスタブにしがみつき必死に痙攣に耐えた。
 
 
ラブホテルのキングサイズベッドで独り目覚めるのは想像以上の虚しさがある。昨夜は仕方なかったがこれからはあまりラブホに泊まるのはやめよう。
 
大阪に向けて3日目のスタートを切った。右膝の痛みをかばう様に走っているとしばらくして左膝も痛みを伴うようになった。3日目は亀山を目指していたが四日市に至る頃に両親から一本の電話が入った。滋賀に住んでいる両親が、何故か東京から大阪まで自転車で走っている息子を食事に誘おうとしたのだ。

我々はたまたま見付けた「かに道楽」に入った。暖かい座敷で散々かにを頬張れば走る気などは完全に失せるもので、店を出てから走る鈴鹿峠の麓までの道のりはこの上なく辛いものであった。

自転車旅では走行の途中であまり大きな休憩を取ってはならないと決めているがそれはこの体験に起因する。
 
走行4日目。猿だらけの鈴鹿峠を越えて我が故郷・滋賀県に入った。滋賀を離れて長く東京に暮らしているが、東京と滋賀がどのように繋がっているのか初めて体感できた気がした。ここからは大した山道もない。地元なので地理にも詳しいのだ。やはりそれを知っていて走るのは大きな安心感があるもので走行4日目にして私は京都までたどり着いた。

結局膝の痛みには最後まで苦しめられたが、11月21日午後、東京から大阪までの550kmを無事に走り切り心斎橋のホテルニッコー大阪にたどり着いた!

一つだけ言った事を最後までやってみようと安易に走り出したがついに有限実行できた訳で、自分の中に小さな自信というか、過去の自分を許す勇気の様なものが生まれるのを感じた。
 
結婚式当日、新幹線で移動してきた岳臣が私の礼服を届けてくれ、それに着替えた私は日下部君の結婚式に無事参加する事ができた。結婚式の準備で忙しかっただろうに、東京から自転車で結婚式に参加する私の奇行をなぜか映像にまとめ披露宴で紹介してくれた。私にはサプライズにしていた内容で、司会者が『東京からこの会場まで自転車でおこしになったゲストがおられます!』と紹介した瞬間、男性の来賓はどよめき、女性の来賓は勢いよく引いていったあの光景を忘れない。

穴があったら入りたいとはこのような状況か。

日下部君は優しい男で遠方からの来賓にはお足代を出していたが、自転車で来た私はお足代をもらっていいものかと悩んだ。
 
今思えばこの旅は実に素晴らしかったと思う。情報化社会と言われるこの世の中、全ての事はどこかしらに情報があるもので、インターネットで「東京-大阪自転車旅」などと検索すればいくらでも情報を得る事はできただろう。事実この区間を自転車で旅している人はたくさんいる。しかし私はほぼ何も調べなかった。調べたのは距離と国道1号線さえ走っていれば梅田新道まで辿り着くという事くらいだ。

こだわりがあって調べなかったのではなくただ面倒だっただけなのだが結果的にその怠惰が自分の旅に独創性を与えた。

情報があればその土地の名物を味わい有名観光地を通り過ぎる事もなかっただろうし、いくつか経験したリスクも避ける事ができたかも知れない。しかしそれでは情報元の体験に寄っていく事は間違いない。あまり下調べせず旅に出る事が増えたのはこの経験がきっかけになっている気がする。
 
結婚式も新郎の号泣をもって無事に終わり東京に帰った私はすぐに方南町のドンキホーテに自転車を見に行った。東京-大阪を走ったばかりだがもう自転車旅に夢中になり始めていた。大阪よりもっと先まで走れるのか試してみたかったのだが、人様の自転車で走っていい距離ではないと思い私は似たような小径車を購入した。

ロードバイクやクロスバイクを買えばいいのになぜ性能の低い中古自転車から性能の低い新車に乗り換えたのか。別にこだわりがあった訳ではなく自転車についての知識も調べてみようという好奇心もなかったのだ。自転車は走りさえすれば何でもいい、当時はそう考えていた。
 
 


 
【国道2号線】



2010年2月15日

私はまた山手通りを国道1号線に向かって走っていた。前回の旅から3ヶ月と経たず再出発したのはやはり強い好奇心によるものだろう。大阪より向こうを目指し自分がどこまで走っていけるのかを知りたかった。とりあえず福岡まで行ってさらに走れてしまうなら沖縄を一周しよう!

私は取り憑かれたように自分の好奇心に服従していたが、それは自制心がごっそり欠如しているとも言え、一部の友人、当時の彼女、母親などはその様子を酷く心配していた。私は突き詰める傾向にあり映画にはまった時は年間1000本以上の作品を劇場で観るほどであった。ただ映画と違って命の危険もある自転車旅というものに傾倒していく事は愛する人々の心中に波紋を広げたようだ。
 
前回同様、国道1号線を西進し箱根湯本にたどり着いた。今回は通り過ぎるのではなく温泉宿に泊まり鈴廣かまぼこをつまみに箱根地ビールと洒落込んだ。大阪までの道のりは前回と変わらないのでできる限り違う場所に泊まり違う体験を心掛けた。

翌朝外に出てみると生憎の雨だったが雨だろうが何だろうが先に進む決意は揺るがず雨合羽をかぶって走り始めた。しかしその雨は間もなく雪へと変わっていった。宮ノ下を越えると見る見る気温は下がり箱根の山は単色と化した。標高が500mを超えるともうそこは「走る」などという事が成立する世界ではなくなっており、道路に設置されている気温計を見ると氷点下を表示している。

自転車という足枷を付けた登山に興じること6時間、満身創痍で雪の無い三島に辿り着いた時、自然とこみ上げてきたのは笑いだった。

この年の正月の事だ。2月という真冬に東京から自転車旅を始めればどこかで雪の問題に直面すると思い、たった2日ではあるがシミュレーションの旅をしていた。実家のある滋賀県長浜市に滞在し大雪が降りそうなタイミングを見計らって私は琵琶湖一周の旅に出た。案の定二日目には大雪警報が発令され湖西から湖北は50cm以上の積雪となった。

もちろんこの時も走れるというような状況ではなく私は30kmほど自転車を押して雪道を歩いたのだが、もしその経験がなければ箱根の雪山を6時間歩き続ける事ができたか分からない。何を調べた訳でもないが自分の予想が見事的中し対策を行っていた事に笑いが込み上げてきたのだ。
 
そこからの道のりは温和なもので前回同様5日で大阪に辿り着いた。市内のコンビニで立ち読みした道路地図によると大阪から先は国道2号線になるらしいから、とりあえず「2」という数字を追い掛けていれば九州に辿り着けるだろう。雪への対策を怠らなかった用意周到さはどこへやら、道のりに関しては相変わらず適当であった。

1日100kmのペースで順調にこぎ進めていたが広島から山口に入った頃一つ問題が起こった。パンクだ。しかし私はパンクの修理道具を携行していない。何故なら自分で修理する事が全くできないからだ。「私の自転車旅に限ってパンクなど起こるはずはない!」と楽観的に走ってきたがタイヤはぐだっと地面に広がり走れる代物ではなくなっていた。困った私はとりあえずタバコをふかしつつどうするかを考えたが、自転車屋さんに持って行って修理してもらうしかないという至極当然の結論に至った。
 
自転車を担ぎ国道2号線を外れ街に入るとすぐに自転車屋さんは見付かり修理は完了したが、パンク修理一つ自分でできないのはどうなのかと自らを恥じた。しかし日本ではそれでも何とかなってしまう訳で、都合の悪い事はすぐに忘れ「そうそうパンクする事もないだろう!」と元の楽観思考に立ち返った。

全く酷い話だが私がパンク修理を覚えたのはこれより3年以上も後の事だ。
 
大阪を越えてからは常に走行距離の新記録を更新している訳で、関門海峡を越えて門司に至る頃には1000kmを超えていた。最初の自転車旅の時は膝の痛みに苦しめられたが1000kmも走れば自然と無理のない走り方や正しいサドル位置を覚えるものだ。出発から11日、身体に大きな問題もなく私は福岡に辿り着いた。

よく「日本は狭い」という言葉を聞くが実際に参宮橋の自宅から福岡まで1100kmの線を引いてみれば、その言葉が誰から発せられたかによっては安易に受け入れられないものへと変化した。ただ私はここ福岡を終着点にする気持ちにはもう少しなれず、日本は狭いのか否かそれも究明したくなっていた。
 
到着後間もなくキャナルシティにあるハイアットのバーへ飲みに行った。福岡に友人がいなかった訳ではないが誰にも連絡をしなかったのは、ここ最近自分の中に生まれつつある新しい自分と語らいたかったからだ。議題ははっきりしている。これからどうするか。

タイトルから内容がさっぱり推察できないカクテルのグラスを傾けながら考え始めると、すぐに髪の長い白人ミュージシャンがビリー・ジョエルの『ピアノマン』を歌い始めた。聴き入っていると次第に考えなくなり、無になり、残ったのは「考える必要もない」という答えだった。福岡の夜は実に美しかったがここで旅を終える事はできない。
 
 


 
【南洋へ】
 
2010年2月27日

マグニチュード8.8の巨大地震が起こった。チリ地震だ。私は津波警報で真っ赤な沖縄に降り立った。沖縄一周350kmを走る予定だったがルートのほとんどは海岸線である。普通の地震ならまだしも観測史上5番目に大きな規模の地震が起こす津波とは一体どんなものなのか... 不安が頭を擡げた。

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