一生忘れることができない「桜」の風景がある。
一生忘れることができない「桜」の風景、というのがある。1年前の春、山口市を流れる一の坂川で見た桜は、まさに自分にとって永遠に忘れることのできない風景となった。
昨年の4月、山陰を旅していた。鳥取から島根、山口へ。初めて訪れた松江や出雲、石見銀山は楽しかったし、山陰本線の車窓から眺めた日本海に沈む夕日も素晴らしかった。
旅の2日目の夜、島根県の益田という小さな町のホテルに着くと、僕は実家に電話をかけた。
電話に出た母の声が暗かったので、いやな予感がした。そしてその予感は的中した。施設に入居している祖母が食べ物や水分をほとんど摂らなくなってきている、もう長くはないと思う、という話だった。
祖父母と同じ家で生まれ育った自分にとって、祖母は「もうひとりの母親」のような存在だった。祖母ほど自分のことを可愛がってくれた人はいない。93歳のいまも、僕が施設へ会いに行くたびに、「大好きだよ」と直球で言ってくれるような祖母だった。
いつかはその時が訪れることはわかっていた。その「いつか」が間近に迫っていることも。でもそれが本当に訪れてしまうと、やはり動揺せずにはいられなかった。旅先で聞くその知らせは、余計に不安を駆り立てた。
翌朝、山口線に乗って津和野へ向かい、その午後には旅の最終目的地である山口へ辿り着いた。
春という季節の素晴らしさを絵に描いたみたいな晴天の日だった。薄ぼんやりとした水色の空と、柔らかくて温かい日差し。津和野の山々には緑が芽吹き、山口線の車内では優しい光の粒々が揺れていた。
山口駅の前からまっすぐに延びる道ではチューリップの花が首を傾げていた。赤、白、黄色……と、まるで童謡の世界みたいだった。その道をしばらく歩いていくと、一の坂川が見えてきた。
桜はまさに満開の時を迎えていた。緩やかに蛇行しながら流れる一の坂川の両側に、その美しさを競うかのように桜の花が咲き誇っている。その姿は春の訪れを祝福しているみたいに華やかで、どこまでも眩しく見えた。
一の坂川にやってきた人々は、目を輝かせながら桜を見つめていた。多くの人の顔には笑みがこぼれ、新しい春の始まりに胸を躍らせているようだった。僕だけが一人、これから訪れる大きな哀しみのために、静かに心の準備を始めていた。
川面には小さな桜の花びらたちがたくさん流れていた。上流から下流へと、いくつもの可憐な花びらが運命みたいに流れていく。咲き誇る桜にも、散りゆく時が到来しつつあるようだった。
僕はその日の夜行バスに乗って東京へ戻ると、翌日すぐに祖母の入居している施設へ向かった。
祖母はこの1週間でとても衰弱したようだった。それでも僕が出雲大社で貰ってきた長寿のお守りを渡すと、「ありがとう」と言って喜んでくれた。帰るときもいつものように、「また来てね」と言いながら見送ってくれた。消え入りそうな声だったけれど、僕の目を見つめながら、はっきりと。
子供の頃から大好きだった、優しい祖母がそこにいた。
その3日後だった。祖母との永遠の別れがやってきたのは。
一の坂川で見た桜の風景を思い出すと、いまでも胸が締め付けられそうになる。
あの桜並木の下を歩いていたとき、祖母は生きていた。93年に及ぶ人生の、最後の時間を生きていた。命が消えるその瞬間まで、優しい祖母として生きていた。
たぶん僕は無意識のうちに、目の前に広がる桜の風景と、別れの時が訪れつつある祖母の姿を重ね合わせていたのだと思う。その桜は僕の目に、どこまでも淡く、そして儚く、かけがえのない風景に映った。
祖母はあの春、桜を見ただろうか。もしかしたら……と思った。
2年前の春、つまり祖母が亡くなる1年前の春、家族で桜を見にドライブへ行ったことがあった。施設に外出許可を貰って、僕が運転する車に祖母を乗せ、父や母も連れて近所の桜並木へ行ったのだ。
そこもまた、細長く流れる川の両側に桜の花が咲き誇る場所だった。窓の外をピンクのヴェールが流れていく光景を、祖母はうっとりとした表情で眺めていた。1時間ほどのドライブを終えて施設へ戻り、介護士の女性に感想を聞かれた祖母は、「最高だったわ」と得意げな顔で笑っていた。
僕が祖母をドライブに連れて行ったのは、それが最初で、最後になった。
家族で見に行ったあの桜こそ、祖母にとっての「人生で最後に見た桜」だったのかもしれない。そして、祖母はもしかしたら、その風景をずっと忘れることなく、心に留めておいてくれたかもしれない。僕にとっての、一の坂川の桜と同じように。
あれから1年が経ち、今年も春がやってきた。祖母が旅立ってから初めて咲く桜は、ちょっと切なく見えるけれど、それでもやっぱり美しい。
旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!