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村上春樹さんの『遠い太鼓』と、沢木耕太郎さんの『深夜特急』と、僕のささやかな旅の文章

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ギリシャのペロポネソス半島に、ナフプリオンという町がある。

つい先日、ギリシャをめぐる旅の途中、僕はこの小さな港町を訪れた。アテネからバスに乗って、ふらっと日帰りで行ってみたのだ。

遺跡でもなく、エーゲ海の島でもなく、ギリシャの町並みを見てみたい。理由はただそれだけだった。

その短い旅から帰国して、村上春樹さんの旅行記『遠い太鼓』を読んでいたときのことだ。

ギリシャとイタリアをめぐるその紀行の中に、思わぬ記述を見つけて驚いた。

村上さんの『遠い太鼓』は大好きな作品で、いままでに何度も読み返してるけれど、その記述はまったく記憶になかった。

僕が驚いたのは、それがあのナフプリオンについての記述だったからだ。

1989年の夏に訪れたナフプリオンについて、村上さんは短く、こんな文章を書いている。

僕らは選挙の投票日の日曜日にはナフプリオンの丘の上のホテルに泊まっていた。僕がこの町に来るのはこれでもう三度目だ。落ち着いた雰囲気のある町で、ギリシャの中でも僕がいちばん好きな町のひとつである。
(村上春樹『遠い太鼓』471ページ、講談社文庫)

なんとナフプリオンは、ギリシャ各地を旅した村上さんにとって、「いちばん好きな町のひとつ」だったのだ。

たぶん、あまりに記述が短かったせいで、記憶になかったのだろう。偶然にも、村上さんの愛する町を僕は訪れていたのだ。

そのとき、沢木耕太郎さんの『深夜特急』にも、ナフプリオンに関する記述があったことを思い出した。

でも、それがどんな内容だったかまでは思い出せない。

僕にとって、沢木さんの『深夜特急』もまた、大好きな作品である。何度読み返したのかわからないくらい、何度も何度も読んだ。いま旅を好きになれたのも、『深夜特急』に出会えたおかげなのだ。

気になった僕は、部屋の本棚から『深夜特急』のトルコ・ギリシャ編を出して、ナフプリオンの記述を探してみた。

すると、これもまた短い記述だったが、確かにナフプリオンについて、沢木さんも書いていた。

沢木さんが訪れたのは、1974年の冬。それはこんな文章だ。

ミケーネの次はスパルタへ行くことにしていた。途中、ナフプリオンへ寄ったが長居をする気になれなかった。ナフプリオンは、海に浮かぶ城があることで有名な古い都ということだったが、その城は高級ホテルになっており、宿泊客以外は上陸できないという。岸から眺めたが、美しいがそれだけ、という風景だった。
(沢木耕太郎『深夜特急5』201ページ、新潮文庫)

沢木さんの文章を読んで、僕はまた驚いた。それが村上さんの文章と、実に対照的なものだったからだ。

村上さんは80年代の夏に、沢木さんは70年代の冬に、それぞれギリシャのナフプリオンを訪れた。

そして村上さんは「ギリシャの中でも僕がいちばん好きな町のひとつである」と書き、沢木さんは「岸から眺めたが、美しいがそれだけ、という風景だった」と書いている。

面白いな、と思った。

村上春樹さんの『遠い太鼓』と沢木耕太郎さんの『深夜特急』は、近年の日本を代表する二大旅行記と言えるだろう。

その作品の中で、二人はギリシャの同じ町を旅しながら、まったく異なる文章を書いていたのだ。

もちろん、そこには懐事情の違いも影響していたかもしれない。

金銭的にある程度豊かな旅をしていた村上さんと、倹約しながら旅をする必要があった沢木さんでは、リゾート的色彩のあるナフプリオンに抱く感想が異なった。そういうことはあるだろう。

でも、と思うのだ。

まったく同じ土地を旅しながら、まったく異なる感想を抱き、まったく別物の文章を書く。それこそが旅の面白さであり、旅行記の面白さなんだと。

きっと、旅は旅人の数だけ存在して、同じ旅なんてこの世にひとつもないのだ。

同じ土地を訪れても、何に興味を持つかは違うし、何に心動かされるかも違う。そうして自然と、「自分だけの旅」が作り上げられていく。

だからこそ、そこがどんな土地であっても、訪れてみる価値はあるのかもしれない。

そこで自分がどんな感想を抱くかなんて、どの旅行記にも書いてなくて、やっぱり自分が行ってみないとわからないからだ。

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村上春樹さんの『遠い太鼓』と沢木耕太郎さんの『深夜特急』を並べて、ふっと考えた。

あのナフプリオンの町について、僕だったら、どんな文章を書けるだろう、と。

日帰りでナフプリオンを訪れただけの僕は、沢木さんの旅に似ているところがあるかもしれない。

でも沢木さんのように、「岸から眺めたが、美しいがそれだけ、という風景だった」とは思わなかった。

たぶん、久しぶりに見るヨーロッパの町ということもあったのだろう。僕はそのナフプリオンに、とても魅せられたのだ。

だからといって村上さんのように、「ギリシャの中でも僕がいちばん好きな町のひとつである」なんて書けるわけもない。

僕がナフプリオンについて書くなら、記述の短さだけ二人にお借りして、こんな文章を書くかもしれない。

僕はアテネから日帰りで、ナフプリオンという港町を訪れた。海に浮かぶ城があるほかは、とくに何がある町ではない。でもそこには、広場で楽しそうにはしゃぐ子供たちがいて、道端で世間話をする老人がいて、小道をゆっくり横切っていく猫がいた。どこにでもありそうなヨーロッパの町だったけれど、久しぶりに見るそれは、僕の心に深く沁み入ってきた。

旅の文章を書くのって、むずかしい。でも、面白い。

このnoteの最後、村上さんみたいに「やれやれ」と呟けばいいのか、沢木さんっぽく「では、また」と締めればいいのか、それさえわからないけど、面白い。

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