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記憶の混濁が紡ぎ出す、小さな世界/『遠い山なみの光』

カズオ・イシグロ作品を読むと、自分がいかにせっかちなのかということを毎度思い知らされる。

「私」という一人の語り手の告白によって構築されていく物語は、語られる出来事の時系列が前後していて、なかなか全体像を掴ませてくれない。
始まりから終わりまで、ぼんやりと霧がかかった景色が、少しずつ、ようやく視界に捉えられるくらいまでに姿を現したかと思えば、突然幕が下ろされて、置いてけぼりにされてしまう感覚に近い。
そして、この居心地の悪さを味わいたいがために、つい彼の本を手に取ってしまう。

これまでに読んだのは『遠い山なみの光』(1982)、『日の名残り』(1989)、『私たちが孤児だったころ』(2000)、『わたしを離さないで』(2005)の4作品。
いずれも場所、時代設定、主人公のキャラクター、テーマを描き出すモチーフは異なれど、一貫して共通していると感じたのが、「記憶の混濁」というテーマだった。デビュー作の『遠い山なみの光』を取り上げながら、すこし考えてみたい。

イギリスに暮らす悦子は、家族の喪失を経験する中で、過去の自分に思いを馳せる。戦後まもない長崎で、悦子はある母娘に出会い、数々の幻想的な体験を重ねていた。その振り返りの中で、過去と現在の自分を連ねる物語を紡いでいく。

読み終えると、悦子という一人の女性の生き様が一本の線になって浮かび上がってくるのだが、忘れてはいけないのが、すべてが彼女の視点から見た記憶によって、物語が構成されているという点だ。

記憶というのは、たしかに当てにならないものだ。思い出すときの事情しだいで、ひどく彩りが変わってしまうことはめずらしくなくて、わたしが語ってきた思い出の中にも、そういうところがあるにちがいない。たとえば、あの日心にうかんだやりきれないイメージが、果てしなくつづく空白な時間にわたしの心を去来していた無数の白日夢よりもはるかに鮮烈なまったく別のものになったのは、あの日の午後に虫が知らせたせいだと考えたくなる。

カズオ・イシグロ、小野寺健訳『遠い山なみの光』ハヤカワepi文庫 p.221

戦争という避けられない環境の変化を背景に、喪失を経験した悦子は、記憶を辿ることで、過去の自分と現在の自分との、折り合いのつけ方を探しているように見える。

時代、社会、国家。
抗うことのできない「大きな世界」に生きる私たちは、意識の有無に関わらず、自分の身を守るために「小さな世界」を同時に持っている。
自分だけの「小さな世界」では、望む通りの景色を描くことができるし、何度でも描き直すことだってできる。そこでは自分が信じていることだけが真であり、何者からも奪われることはない。

この「小さな世界」を描き出すための材料は、自分自身が持つ記憶や思考、感情そのものであり、客観的な要素は何一つ必要ない。もはや完全なるフィクションの世界であり、そのオリジナリティの原点となるのが「記憶の混濁」なのではないだろうか。

霞んで、滲んで、薄まった記憶から生まれてくる物語は変幻自在で、どんな姿にもなることができる。無意識のうちに自己を支えるための柱にもなれば、他者や世界を解釈するための補助線にもなるだろう。

記憶の混濁が紡ぎ出す、小さな世界。

それは、私たちの力が到底及ぶことのない「大きな世界」の中で、希望を失わずに生きていくためのシェルターであり、かつ人生の晩年においては、過去を彩るための詩情として機能するのだろう。

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