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【歴史的観点】映画『ジョーカー』ゴッサムシティの姿は現代まで続く不平等化を表している

映画ジョーカーを(今さら)歴史的観点から捉えた考察です。

以下ネタバレありです。

考察:ゴッサムシティの不平等はその後どうなるのか

主人公アーサーの行動は終盤に向かうにつれて大きなムーブメント(暴動)を巻き起こしていきます。暴徒化した大衆に囲まれてパトカーの上で舞い、煽るアーサーはとても衝撃的でした。

今回考えたいのは、あのムーブメントがその後、映画の舞台であるゴッサムシティ内の「不平等」を打破するに至るのかどうかということです。

これを考えていくに当たり、まずは前提として「何を(劇中の)現実とみなすか」を決めたいと思います。
というのも、「劇中に起こったのは全てアーサーの妄想」説など様々な考察があるので。大変興味深いこちらのnoteとか。

結論を先に言ってしまうと、映画の99%はアーサーの妄想の物語であり、最後の笑いはその妄想を思いついたアーサーの笑いなのだ。

今回は下記を前提に話を進めていきたいと思います。

・ゴッサムシティの荒れた様子や、暴動(ムーブメント)は現実のもの。
・暴動の引き金としての「ジョーカー」の存在も現実であり、殺害事件・暴動等の事件も「ジョーカー」の登場が激化させた。
(ジョーカーの事件(A)が、元々不満を抱えていた大衆を扇動した(B)という因果関係を認めます)


ゴッサムシティの不平等の状況を推測する

では、まずはゴッサムシティの不平等の状況を推測します。そのために、現実の歴史的な観点も参考にしていきたいと思います。特に参考にするのは、こちらの本。

歴史的観点&劇中の描写&監督等の発言を参考に、ゴッサムシティの状況の定義を一言で表すと、歴史的に見るとそこまで深刻な不平等だとは言えないが、不平等が拡大しつつある状況だということです。
(ここで扱う不平等は、「所得と富の分配の格差」)

・街のモデルは、1981年のニューヨーク。「荒れて廃墟と化した都会の街」
・歴史的に、1970年代以降のアメリカの都市圏は、1900年代前半以降の歴史的「大圧縮」による不平等の是正効果が続いている状況。(=歴史的に見ると不平等が深刻とは言えない)
・ただし、劇中で、不平等の是正効果が弱まりつつある描写(→現代社会にもつながる暗示?)がある。

1980年代のNYをモデルとした劇中のゴッサムシティの「光」と「闇」

まずゴッサムシティのモデルについてフィリップス監督は、1981年のニューヨークをモデルにしていると言及しています。

「時代や場所は特定していないが、僕の中では1981年のニューヨークだ。外観や雰囲気がね。荒れて廃墟と化した都会の街だ」

劇中でも冒頭にアーサーが少年たちに襲われるなど、全体的に荒れた雰囲気が描写されており、不穏な空気が印象付けられています。
一方で、テレビの向こうの華やかな「マレー・フランクリン・ショー」。そして、バットマンシリーズで非常に重要なカギを握るトーマス・ウェイン一家を始めとする富裕層の煌びやかな生活。映画の全体を通して、貧困層と富裕層がかなり対照的に描かれています。
アーサーの凶行後の描写としても、ベッドに横たわる彼の近くに「KILL THE RICH A NEW MOVEMENT (金持ちを殺せ 新たな社会ブーム?)」と題された新聞記事があり、格差社会内の対立を印象づけています。


歴史的に、1980年代のアメリカの都市圏の不平等はどの程度であったのか

映画を見るだけでは、格差は深刻な印象を持ちますが、見方を変えてここで歴史的な観点で捉えてみます。

劇中のゴッサムシティが1980年代のニューヨークをモデルにしていることを鑑みて、実際に当時のニューヨークでの不平等と近しい状況であると仮定します。具体的に、当時の不平等がどれだけのものだったかを見ていきます。
下記2つの図のように1980年代は「アメリカの上位1%の所得シェア」は10%程度に収まっています。これは実は、1928年の23.9%と比較しておよそ半分以下です。(後ほど触れますが、1970,80年代以降は再び所得シェアは増えています。)

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約250年にわたって(1930年ごろまで)所得と富の不平等化が進行していた。それは、1930年頃以降からおよそ1980年代まで解消(平等化)に向かい続ける。
「暴力と不平等の人類史」P.142掲載の図

いずれの表から分かるように、産業や都市の繁栄・進歩と共に進行していた不平等は、2度の大量動員戦争、大恐慌などにより「大圧縮」(不平等の是正)が起きます。そしてそれは、1980年ごろまで続いています。

つまり、劇中のゴッサムシティのモデルとなっている1981年のニューヨークは歴史的に見ると不平等が深刻とは言えません。


平等は破壊の後にやってくる

社会の発展と共に不平等化が進み、「暴力的衝撃」でそれが是正されるプロセスを辿っているのはアメリカに限ったことではありません。第二次世界大戦後の日本もトップ1%の富が約9割下落しますし、ペストにより欧州は2000万人が亡くなり、実質賃金が2倍以上に上がりました。

数千年にわたり、文明のおかげで平和裏に平等化が進んだことはなかった。さまざまな社会のさまざまな発展段階において、社会が安定すると経済的不平等が拡大したのだ。古代エジプトであれヴィクトリア朝時代のイギリスであれ、ローマ帝国であれアメリカ合衆国であれ、それは変わらなかった。既存の秩序を破壊し、所得と富の分配の偏りを均し、貧富の差を縮めることに何より大きな役割を果たしたのは、暴力的な衝撃だった。
(前掲「暴力と不平等の人類史」より)

これまで歴史上において不平等を打破してきたのは、大量動員戦争・変革的革命・国家の破綻・致死的伝染病の大流行なのです。これをウォルターシャイデル氏は「平等化の4騎士」と名付けています。


1980年代以降、「不平等化の再進行」の兆候を示す

歴史的に比較して、2度の世界大戦を含めた様々な要因から起こる「大圧縮」により、1980年代のニューヨークはそこまで不平等が蔓延しているとは言えない状況です。

しかし、上記2つの図を見てみると、その大圧縮による不平等の是正効果(平等化)が弱まっている時代でもあります。つまり不平等が再び拡大しつつあったといえます。(そしてそれは現代まで続いています。)

何千年にもわたり、歴史は、不平等の高まりあるいは高止まりの長丁場と、散在する暴力的圧縮を繰り返してきた。1914年から1970年代あるいは80年代までの60〜70年間に、世界の経済大国と、共産主義体制に屈した国々の双方が、歴史上最大級の大幅な平等化を経験した。その後、世界の多くの地域が次の長丁場となりそうな期間に突入し、継続的な資本蓄積と所得の集中に回帰した。
(前掲「暴力と不平等の人類史」より)

つまり、劇中のゴッサムシティの状況を1981年のニューヨークと近しいと考えると、ゴッサムシティで起きている不平等は歴史的に見ると深刻ではないが、再び深刻化に向かっているフェーズと考えられます。

それを更に裏付けるのが、劇中の「福祉制度打ち切り」のシーンです。僕はこのシーンを、アーサーが一層「悪に落ちる」トリガーの1つであり、同時に「ゴッサムシティのその後」を推測する上でも重要と捉えました。

突発的に笑いが生じてしまう脳神経の病を患うアーサーは、冒頭から定期的なカウンセリングを受けていることが推測されます。

しかし、そのカウンセリングが打ち切られてしまいます。

カウンセラーの女性
「市の予算削減でここは来週で閉鎖。全面的な予算カットで福祉も例外じゃない。面談は 今日が最後よ。
市にはどうでもいいの。
あなたたちも 私達も。

このシーンは、初めて凶行に及んだアーサーが、少し本音を見せる瞬間でもありました。

「ラジオで聞いた曲だが…歌の主人公の名はカーニバル。 びっくりした。ピエロの時の僕の名だ。ちょっと前まで 誰も僕を見ていなかった。僕は存在するのかなって。
(省略)
こう言った ”僕はずっと 自分が存在するのか分からなかった”

でも僕はいる。世間も気づき始めた。


福祉制度の崩壊とも取れる描写がなぜ重要なのか。それは、不平等を打破する要因の1つである2度の世界大戦(大量動員戦争)が、皮肉にも福祉制度も進展させたと考えられているからです。

全国のあらゆる人々に降りかかった混乱は、階級間の区別を切り崩し、公正、社会参画、受容、および万人に共通の社会的権利の承認が達成されることへの期待を高めた。
(省略)
2度の世界大戦の経験が現代の福祉国家の創出に不可欠な触媒だったというのは大多数の研究者の意見が一致している。
(前掲「暴力と不平等の人類史」より)

これは戦前の象徴である「著しく歪められた物的資源の分配」とは明らかに対立した考え方です。

つまり、この暴力的衝撃(大量動員戦争)は、所得と富の不平等を是正すると同時に、福祉制度の進展にも寄与しているとされています。
しかし、そのような不平等を解消する作用が段々弱まる(崩壊していく)様子をこの映画では、格差社会の描写や福祉制度の打ち切りなどで暗示しているとすると、世の中で不平等が再び進行してきて、結果としてジョーカーという存在を生み出したとも考えられます。


不平等の歴史において、整合性のある内因化理論は導けない=アーサー発の「破壊」では不平等は打破されない

不平等の歴史は前述の通り、暴力的衝撃なしでは不平等が解決してこなかったことを踏まえると、今回の「問い」はアーサーをきっかけとするムーブメントが、あの後ゴッサムシティの不平等を打破するまでに至るのかどうかですが、
不平等は打破できないと思います。

なぜなら歴史的に、不平等を内因のみで打破した事例はありません。もれなく国外からの侵略や軍事介入などの情勢や、疾病といった外因性の出来事が連続的に関わってくることが平等化には必須だからです。例えば、前掲「暴力と不平等の人類史」で挙げられている1例として1800年代のスペインがあります。

スペインの不平等も同様に、何世紀にもわたって高まり続けていたものの、大きな危機は引き起こさなかった。外国勢力による度重なる侵略はおおむね外因性の出来事の連続で、それがなければ所得の分配が目に見えて変わることはなかっただろう。その変化が引き金となって、今度は中南米でスペインの統治に対する反乱が起きた。このプロセスも、そもそもは国内の緊張と、半島戦争を引き起こした外因性のきっかけの両方が原因である。
(前掲「暴力と不平等の人類史」より)

このように不平等を打破していくには、不平等を起因とする(=内因性の)暴力的衝撃だけでは、(現在では)達成できるとは言えません。ですので、今回のジョーカーが起こした暴力的衝撃だけでは困難だと思われます。

ただこれは、これまでの歴史の出来事において、関わる交絡変数(それぞれが結果にどの程度影響しているか区別できない)が多いことがより精緻な解明を困難にさせています。ウォルターシャイデル氏も内因性については「残された仕事はまだ多い」としています。

とにかく結論は、他に外的要因(ウォルター・シャイデル氏のいう「平等化の4騎士」)が重なったり、「常人では到達できないレベルまで肉体を鍛え上げた人物」が現れない限り、
アーサーが巻き起こしたムーブメントは結局ゴッサムシティの不平等を転覆させられるほどの暴力的混乱には至らないし、不平等は進行し続けます。

つまり、劇中の出来事だけでは社会は変わりませんし、格差社会の進行(不平等化)→ジョーカーの誕生→ムーブメント(暴動)などの描写は、
現実世界に起きている、1920年代から1980年代ごろまで続いた「大きな破壊的暴力による不平等の是正効果」が弱まり、再び現代社会でも不平等が拡大しつつある状況を暗示しているのかもしれません。

僕たちは今ある武器で進まなければいけない

歴史が未来を決めるわけではないと思いますが、これまで述べてきたような歴史的観点からみると、現代の不平等化を食い止めるのは簡単なことではありません。
とはいえ、今後来る未来は誰にも想像はつきません。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の書籍にあるような人類のシンギュラリティへ向かっていて、なにか想像もつかないようなとんでもない未来を辿るかもしれませんし。

ただ、ウォルターシャイデル氏が言うように、差し当たっては僕たちは現在持っている頭脳と肉体と今まで築き上げてきた制度で進んでいくしかありません。
僕たちを守ってくれる超人も今のところは存在しない(はず)ですから。

だからこそ過去に僕たちが「何を経て今に至っているのか」に向き合うために歴史を学ぶ意義があると思っています。

歴史から学ぶというのは、また、現在の光に照らして過去を学ぶということも意味しています。歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にあるのです。
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むしろ、歴史とは過去の諸事件と次第に現れて来る未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきであったかと思います。

(E.H.カー「歴史とは何か」より)


最後は若干脱線しましたが、いずれにせよフィリップス監督達がこの映画を通して何を伝えたかったのかは気になるところです。
この映画をきっかけに巻き起こった現実の「ムーブメント」に対する監督のインタビューを最後に引用して終わりたいと思います。

「いずれ、僕たちが何を考えていて、執筆時に何を意図していたのかをお話しすることにします。それは大切なことだと思っていますが、ただし今じゃない。[中略]この映画を振り返るのが楽しくなるほど、遠い未来のことになるでしょう。なぜなら、みなさんの体験を邪魔したくないから。これから出てくるかもしれない仮説の妨げになりたくないからです。それこそがこの映画を面白いものにしてくれるんだと思いますしね。」




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