宜興観光あれこれ
お久しぶりです。なかなか忙しくなってきたので更新が滞っていましたが、今日からまたボチボチ書いていこうと思います。
まずは宜興の風景区から郊外にあり、友達につれていって貰った。
昼飯は四川の麻辣火锅辛かった。
昼からは太平天国王府へ、下が宜興に封じられた王の紹介、Wikipediaからである。
楊 輔清(よう ほせい、Yang Fuqing、? - 1874年)は、太平天国の指導者の一人。広西省潯州府桂平県出身。東王楊秀清の弟。金田蜂起の後に国宗に封ぜられた。天京事変の際は天京にいなかったために難を逃れた。1858年、江西省景徳鎮を攻略し、清軍に降伏した将軍の韋俊を破り池州を奪回し、輔王に封ぜられた。1860年には第二次江南大営攻略に参加し、安徽省寧国を占領し、さらに江蘇省宜興を占領してそこに輔王府をおいた。
その王府を置いたのがここである。
入り口、獅がおしゃれである。
建物は江南らしい白壁の作りで、日本の武家屋敷などを思い起こさせる。
中の展示は歴史系と、現代の美術とにわかれていた。
宜興の風景
次の日は宜興の旧市街を散歩しつつ周王廟を見学しにいった。三国志の少しあと、西晋で活躍した人物である。
周 処(しゅう しょ、嘉禾5年(236年) - 元康7年1月4日(297年2月12日))は、中国三国時代から西晋の武将。字は子隠。呉・西晋に仕えた。揚州呉興郡陽羡県(現在の江蘇省無錫市宜興市)の人。
ぎ
管理人の事務所もデカイ
周処の有名な逸話で、次のようなものがある。
呉の有力な豪族の家に生まれたが、父の晩年の子であったため、幼くして父親を失った。周処は若い頃は乱暴者でよく狼藉を働き、郷里の人々に恐れられていた。
ある時、周処は郷里の父老に「今年は平和で豊作だったのに、なぜ皆喜んでいないのか」と尋ねた。すると父老は「南山の白額虎、長橋の蛟龍、そしてそなたの『三害』がいなくならない限り、喜ぶ事ができない」と答えた。周処はそれを聞くと、山に赴いて虎を刺し殺した後、川に入って蛟龍と戦い、三日三晩格闘し数十里も流された末、ようやくこれを始末した。郷里の人々は周処が死んだものと思い大喜びしたという。戻ってきた周処は、自分がどれほど人々に憎まれていたかをようやく知った。この時の「周処除三害」の故事は京劇の演目にもなっている。
廟前のレリーフや本堂の壁画にこの故事があった。
入り口に周処の説明と廟の説明があった。
周処の展示館とお墓の発掘調査の展示もあったが残念ながら閉まっていた。
近くの散歩の写真たち
こんな田舎でも日本と関係するものがこれだけあると、日中間系って大事なんだなと思いますね。
今日はここまで。
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