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音楽は誰のもの|Snarky Puppyの来日公演

日本でも大人気のジャズ・ミュージック集団、Snarky Puppy。5年ぶりの来日公演に足を運んでみれば、今や分断が逃れられない音楽の世界において、共有というアプローチで未来を描こうとする彼らの姿勢が伝わってきます。

 グラミー賞の常連、Snarky Puppyの5年ぶりの来日公演はBillboard Liveにて、いまや貴重なクラブ開催となった。前回、2019年はQUATTROとCITTA'というライブハウスでのオールスタンディングだったことを思うと、着座でじっくりと堪能できることがありがたい。自らがフェスを主催し、ライブレコーディングを好むご機嫌なパフォーマンス・コレクティブを今回このようなスタイルで迎えられるのは、日本の音楽ファンの懐の深さもあるのだろう。東京、大阪と即日完売し、ひそかに追加された横浜も満員御礼だった。「明日にはオーストラリアに発つよ」と語った大忙しのマイケル・リーグ(Michael League)氏には申し訳ないけれど、さらにいくつかのステージを開いてもらいたいと思えるだけの熱気をまとっている。

 Snarky Puppyの魅力の一つはその規模だ。今回も総勢9名のメンバーで組み立てられる音楽が私たちを圧倒する。1曲目は2016年のアルバム『Culcha Vulcha』から「Tarova」。レコーディングのアレンジと同じように、ボビー・スパークス(Bobby Sparks)氏がオルガンでファンキーにメロディーを弾きはじめると、すぐにブラスのアンサンブルがそれに取って代わる。客席からは思わず歓声が上がった。いくつもの楽器から直接体に届く空気振動が気持ちを激しく揺さぶるのだ。続く、クリス・マックイーン(Chris McQueen)氏の抑え気味のギター・ソロが、まだはじまったばかりのステージに冷静さを取り戻させる。メンバー間のコンビネーションだけでなく、音響のバランスも申し分ない。特に最近のライブでは耳障りなことも多いベースの音が聴きやすいのは、さすがマイケル・リーグ氏の手腕というべきだろうか。一旦ブレイクした楽曲は、最後にドラムとパーカッションから成るリズム隊をフィーチャーしてエンディングを迎える。

 この1曲だけでも、今日ここに来た甲斐があったと言えよう。今のジャズは1曲の中でも次々と雰囲気を変え、展開していくアレンジが定番だけれど、Snarky Puppyはそうではなく、それぞれのメンバーが個性をぶつけ合って変化を見せる。人数が多い分その幅が広く、聴き応えがあるのだろう。2曲目の「While We’re Young」でトランペットのマイク "マズ" マーハー(Mike "Maz" Maher)氏が神秘的な長いソロを響かせれば、3曲目の「Xavi」ではボビー・スパークス氏が思いっきり歪ませたクラビネットでロックギタリスト顔負けの速弾きを披露する。音楽の世界でも再び分断が進みがちな人種、文化の垣根を越えられている捉えると、いかにもアメリカらしい理想を体現するグループと言えるのかも知れない。昨今、多くのアフリカン・アメリカンのアーティストたちがジャズという表現を避け、自らのルーツミュージックへと回帰を志向するように、ここでは常に所有がテーマとして上がってくる。私たちの音楽と、彼らの音楽は本当に混ざり得ないのだろうか。

 哲学者・鷲田清一氏の近著『所有論』(講談社、2024)には、「持つこと」と「在ること」の同義性と、その間の変化を説くために、ミュージシャンの例が示されている。「ヴァイオリニストが演奏しているときに、演奏している主体はかならずしもヴァイオリンというモノに対して自律的であるわけではない。ヴァイオリニストは演奏中、楽器を支配するよいうよりもむしろそれに身を委ねている」。私たちが「いま自分が楽器を持っている」という意味で、「ここに楽器があるよ」という表現を使うのはそういうわけだ。だからと言って、それが「そのまま他者に所有されることにはならない」。楽器に対して生まれる「崇敬」といった感情が自律的なモノとの関係性を維持している、という分析にはなるほど、納得感があるだろう。所有の歴史を紐解く鷲田氏は結局、これが「権利」の問題に終始されてきたことに警笛を鳴らす。本来の所有は「責任」の一面も持ち合わせており、自分のものだから自由に扱えるのではなく、正しく維持管理し、必要に応じて皆に分け与える責務が伴うはずなのだ。

 「Xavi」の後半、会場内はマイケル・リーグ氏のコールに従って、全員で手拍子がはじまる。立ち上がって踊らなくとも、一体感が醸成される。私たち一人ひとりの音がバンドの音楽に合わさって、唯一無二の場が作り上げられる。このアプローチこそが、音楽を分け合うための一つの方法ではないだろうか。ステージで楽器を弾くメンバーはもちろん、聴く人がいてこそ成立する音楽は、積極的に観客に共有されていく。ステージは最新アルバム『Empire Central』(2022)から、「Bet」、「Belmont」、「Take It!」と続いている。途中、ジャスティン・スタントン(Justin Stanton)氏がトランペットを置いて見事なスキャットを披露するなど、本当に多様な演出に驚かされる。そして、本編最後の曲は10年前にリリースされた「Shofukan」だ。その名の通り、オランダにある「日本文化センター 松風館」滞在中に書かれたという日本由来のオリエンタルな楽曲が選ばれたのは、ただのファンサービスではないだろう。満員の客席で皆が声を揃えて歌えば、彼らの音楽が私たちの音楽になる。アンコール曲「Chonks」の前に、マイケル・リーグ氏は「人々が音楽を共有することは素晴らしい」と締め括った。

 メンバーの人数が多ければ多いほど、ツアーを回るのにはコストが掛かる。一つのステージで集められる観客の人数は公演スタイルによって決まってしまうのだから、客席数の限られるクラブ公演が減ってしまうのは必然だ。あまりに高いチケット料金は音楽の民主性を妨げてしまう。このバランスにおいて、Snarky Puppyはおそらく模索を続けていることだろう。まだ内緒だけれど、新しい取り組みを準備していると言っていた。そして、またすぐに日本にやってきたいと言ってくれた。私たちはそれをどう受け入れて、どう共有していくべきなのか。考えながらも楽しみに待ちたいと思ったのだ。

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