抽象と具象の狭間で。
この日を心待ちにしていた。
数ヶ月前に都内住みの友人と飲む機会があって、その際に当展示の話になった。
私はこの展示が楽しみだったので新潟への巡回を切に願っていて、それが叶ったのが嬉しかった。
その友人はひと足早く東京で展示会を観たのだという。
「ここが最高だったんだよ」
といって見せてきたスマホの画面には猫がバイオリンを弾いている原画と、色を指定する指示が書かれた用紙が重ねてあるものを撮影した画像だった。
「ここのさ、2本の弦と猫の身体が被ってるところの色指定にさ、(2本の弦の間)「ここは猫の身体」って書いてあるんだぜ?」と誇らしげに語ってくれた。彼の目の付け所の面白さに思わず笑ってしまった。
会場に向かい最中そんなことを思い出しながら、会場の入り口に差し掛かると、そこには「和田誠展」というシンプルなゴシック体で書かれたエントランスビジュアルが鎮座していた。
最初の展示には和田氏の原点となる幼少期の絵が数多く展示されていた。簡単に言ってしまうとしばしば見かける子供の絵という印象だったのだが、徐々にその絵も進化を遂げていき、ポパイとミッキーが登場する漫画や、オリジナルの4コマ漫画が登場してくる。小学4年生の頃にはすでに父親の似顔絵を描きはじめていた。
似顔絵というのは和田氏の大きな軸となるもので、小4の時点で形作られていたのかと思うと唸ってしまった。
のちの展示を見るとわかるのだが、圧巻のポスターの数々、そして週刊文集の表紙ものすごい数、2000だったかな。
そういった圧巻の作品群の原点がまさに小学生時代に形作られていたのを垣間見ることができるのは貴重である。
その原点を軸にして全ての創作がなされているように感じる。
企業や他人との仕事の中で、クライアントの要望を受け入れその通りに作るのは当たり前のこと、しかし、和田氏の作風がまず前面にきていることを前提として成り立っているデザインというのは非常に個性的で、我々の心を強く打つのかもしれない。
和田氏の作風にはある種の「幼稚さ」のようのなものを感じる。ピカソが言われているような「これ自分でも描けそう」みたいな評価をする人が出てくる作品を描いている。しかし、ピカソの例があるため逆にその境地に辿り着くには相当大変なんじゃないかとも思える。
「私にも描けるかもしれない」という言葉の裏には芸術作品であること以上に共感に近い感覚が備わっているように思う。
子供の絵に対して「うちの子天才かも!?」と言っている親バカたちの発言は和田氏らのそれに起因しているのではないかと考えている。笑
私らがこれらの展示を観たときに、こんなにも我々の生活に和田氏らの仕事が溢れていたのかとハッとさせられる。そしてこれをきっかけに街中への興味、創作への興味が湧き上がってくる。
それは描き方や方法といった手段といった具象的なことではなく、和田氏の作品に通底している「抽象性」が人々に共感を与え、新たな創作やムーブメントを与える、具体的な方法論というのは実は意味をなさない、のかもしれない。そう考えると抽象への期待感、可能性を感じざるを得ないだろうよ。
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