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正欲

ポップコーンは買わない。vol.142

あらすじ

横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、不登校になった息子の教育方針をめぐり妻と衝突を繰り返している。広島のショッピングモールで契約社員として働きながら実家で代わり映えのない日々を過ごす桐生夏月は、中学の時に転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。大学のダンスサークルに所属する諸橋大也は準ミスターに選ばれるほどの容姿だが、心を誰にも開かずにいる。学園祭実行委員としてダイバーシティフェスを企画した神戸八重子は、大也のダンスサークルに出演を依頼する。

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正しい欲はない、ただ、一時的な正しい解はある

本作が取り扱うテーマに特殊な性癖がある。本作で取り扱われるのは水に対しての欲情だ。水の動きや飛沫に対して性的な興奮、昂りを覚えるのだという。

確かに多様性の時代と言われて久しいが、フィクションも相まって本当にそんな癖が存在するのだろうかと疑ってしまう自分もいたのは正直なところだ。

自分以外の他者を「社会」としたときに、襲いかかってくる出来事として一般的なのは、「結婚はまだなの?」「彼氏(彼女)はいるの?」「子供はまだなの?」という言葉たち。個人から発されているとは思えないくらい面倒くさいノイズである。

本作でも新垣結衣が演じている、桐生は女性だから余計にそのノイズに悩まされる。ステレオタイプな性欲を持っているならそんなノイズに困りながらも、男性と結婚して、出産、子育てを経ていくのだろう。しかし、桐生は生物的に機能は持っていても、そこに喜びを感じないし、必要ないと思っている。

そういった特殊な性癖を持っている方々が社会で生きていくのはとても大変。だから同じ状況にある人と繋がって、助け合って生きていこうとする。

磯村勇斗演じる桐生と同級生の佐々木は桐生と同じ状況にあり、お互いに助け合うことで生きていくことを決意する。
その後、インターネット上で同じ状況の人間と知り合い、コミュニティを作ろうとする。そして同じ喜びを分かち合おうと動いたりする。

本作が取り扱うテーマは性的指向だけではない。不登校の息子をどうするかという中で、教育のあり方や、子育ての選択、コミュニティの選択、それに付随する親のコミュニティ、そしてコミュニケーション、そこに付随する浮気心など。変わりゆく社会の中で正解を求めてしまうことは自分たちを苦しめる要因となる。

寺井は検事という職業も相まって、非常にお堅い人間だ。生物的な本能よりも、社会規範をバチばちに守って、そのことにむしろ喜びを感じているような人間だ。でもそれは初めからそうだったわけではないはずで、後天的に授かった能力である。

子供はまだその社会規範に対する適応が薄い。だからこそ自由にさせてクリエイティブを伸ばすこと、逆にガチガチに規範に則って、その中で成果を上げることに喜びを感じさせることを教えていく対立になると思う。

生物的な本能と、社会的な規範に基づく縛りやルールに則るのはどちらも重要である。

ある種の正解なんてどこにも存在しないのだ。

正しい欲なんてものは存在しない。逆に言えば全てが正解ともいえる。

正欲というタイトルは性欲にかかっていると思いますが、これはある意味音だけ踏んでいるだけで、意味としては多岐にわたる欲を指しているのではないかと思っている。

いろんな正解があることを認めるのはいいが、答えが決まらないことをあえて決めていく必要がある場面も多々ある。

ある種の正解は必要で、決めなくてはいけない。

正欲は多様だが、社会の中では一旦の正解はなくてはいけない。
これもある種の、生物学的と社会学的なる分類に分けることができそうだ。

本作の中でも、小児愛者が検挙される場面が出てくる。その人は実は水にも興味あるようで、でも水といっても、水に濡れた子供の服が、、、という話になっていき、あれ、水というより子供が好きなんじゃね?となる。

その後の取り調べで、ほんとに水以外興味のない人たちも小児愛者であると疑われる。彼らは潔白を訴えるが、欲に対して物的証拠を示すのは難しい。ゆえに、こいつらは嘘をついていると判断されかねない。それによって罰せられてしまう悲しい現実も考えられる。

小児への性暴力はもちろんだめ。だけど、それが好きであること自体は問題はないはずで。規範を持って生活するのは、性欲以外でも同じことだろう。倫理観の問題である。

生活の中でもこの場合はこう、この場合はどう、などパターンによる訓練が必要だと思う。

性的指向が固定化されることによる排除の流れ

ジェーン・スーさんと西加奈子さんの対談のポッドキャスト聞いた。

それは西さんの短編についての話だった。

西さんは乳がんがきっかけで、両乳房、両乳首を摘出したそうだ。
その流れで女性のとっての乳房と乳首とはなんなのかということを話していた。
乳房や乳首の商品としての価値の異常な高まり。それを摘出したことで実感したのだという。ひとつひとつ単体で見れば、脂肪の塊とシワのよった突起物でしかないのに。

社会が変われば、乳房も乳首も丸出しにしている社会だってある。だからなんだといって終えばそれまでだが、要は社会の中で排除される人を大勢生み出していませんかということだ。

胸の大きさ、乳首の大きさ、色、位置など、あたかも正解があるかのような感じで、それに付随する商品が販売されていたり、広告として流れてきたりする。とてもおそろしい。男性も、包茎や筋肉など、身体のコンプレックスを狙ったものは多い。

それに劣位を感じ、そういった整形にお金を投じる。自由なのだが、本来気にする必要のないことなのに、それに苛まれる、時間を食われるのはなんだか勿体ないような気がする。

最後に

生きてると、さまざまな欲に悩まされる。
あれ食べたい、これ食べたい、寝たい、セックスしたいなど。社会にいると、自己肯定感を高めるには、起業するには、資格を取るにはなど、いろんな欲求が襲ってくる。全てに問題ないが、あれやこれやと欲しいものが多いのは見極めなくてはいけない。これは本当に必要なのか。そもそも気にする必要があるのか。

性欲に関しては自然に湧いてくるものかつ、多様なので、社会的にはおかしいと思われても、人に迷惑をかけない、被害を与えないということであれば、自己処理でとどめる。精神的な繋がりで生きやすくなるのであれば、コミュニティを作るなど、社会との距離感は大事にしなくていけない。

ただ、本作のラストのように、人との繋がりは見極めないと事件に巻き込まれてしまうこともあるのでどのようにつながるのかは慎重にならなくてはいけない。



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