仏教はいかにして「地動説」を受け入れたのか? 天文学と仏教
昔は「私たちの住む大地は動かないのであって、太陽が地球の周りを回っている」と考えられてきました。これを天動説と言います。やがて天体観測の技術が発達すると、「地球などの惑星が、太陽の周りを回っている」という説が唱えられるようになりました。これが地動説です。
浄土真宗では「人は亡くなると、はるか西方の極楽浄土(阿弥陀仏の世界)に生まれる」と説きます。しかし、地球は回っているのですから、宇宙に東西の区別はありません。
これに限らず、宗教の教えと現代の天文学とは、合わない点があります。その問題について、どう考えられてきたのでしょうか?まずはキリスト教(とくにカトリック)、そして日本の仏教について見ていきたいと思います。
■カトリック編
コペルニクス、地動説を唱える
地動説を唱えたのは、ポーランドのニコラウス・コペルニクス(1473~1543)です。コペルニクスはカトリックの聖職者であり、そのかたわらに天文学に取り組んできました。地動説の概要は1532年の『コメンタリオルス』で発表されました。これについてバチカンの上層部は、「一つの仮説」として検討しようという雰囲気でした。
コペルニクスの説の詳細は1543年の『天球の回転について』で発表されました。この序文には「ここに盛られている見解は天文学上の計算を容易にするための一つの仮説に過ぎない」という一節があります。これは、出版元がコペルニクスに無断で加えたようです。
とにかく、この時代には地動説は一つの仮説でした。コペルニクス以後、デンマークのティコ・ブラーエ(1546~1601)は、地球の周りを太陽が回り、太陽の周りを他の星が回るという説を提起しました。
天動説の立場を取る場合でも、地動説は「天体の動きを計算しやすくするための便利な方法」として受け入れられていました。
ガリレオの苦悩
地動説について注目されるのは、イタリアのガリレオ・ガリレイ(1564~1642)です。ガリレオは観測の結果、コペルニクスの説が正しいという確信に至ります。聖書の記述との関係については「解釈の問題」で乗り切れると考えていたようです。バチカン内部にはガリレオの理解者がいました。枢機卿(ローマ教皇* に次ぐ地位の聖職者)の一人は、地動説が証明されたなら、聖書の趣旨をよく理解していなかったと受け止めるべきだと語っていました。
*「ローマ教皇」は「ローマ法王」とも呼ばれますが、カトリック中央協議会では「ローマ教皇」を使用しています。
しかし地動説を取り巻く情勢は、コペルニクスの時代より厳しくなっていました。1616年、コペルニクスの著書が異端目録に加えられます。
ついに、ガリレオは「聖書に反する説を唱えた」として、異端審問にかけられてしまいます。裁判において、ガリレオは説の撤回を余儀なくされます。1633年、ガリレオに下った判決は、期間の限定がない(終身もあり得る)投獄でした。しかし実際には、メディチ家(当時のイタリアでの有力な家)別邸で軟禁、後には自宅軟禁となり、許可があれば外出可能でした。
なお、判決が下った直後にガリレオが「それでも地球は動いている」とつぶやいたと伝えられています。この発言は、ガリレオが信念を貫こうとした姿勢の表れと受けとめられてきました。しかしこの発言は、ガリレオが亡くなって100年以上経った1757年発行の書『イタリアン・ライブラリー』に初めて現れたものであって、それ以前の文献には見られません。つまり、あの発言は架空です。
ヨハネ・パウロ2世、ガリレオの名誉を回復
1979年、当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世(1920~2005)は「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」と題する講演を行い、ガリレオの名誉を回復し、神学者は科学的真理と信仰上の真理の調和を目指すべきと説きました。
その中で用いられているのは、神が天地を創造したという、キリスト教の教義です。神が宇宙をどのような姿に作ったのか明らかになり、それが聖書の文言と異なっているなら、従来の解釈を改めて、その文言に込められた真意を追求することが必要と述べています。
■仏教編
地動説、日本に到来
地動説が日本に伝わったのは、江戸時代です。江戸時代、日本は外国との交流をかなり制限していましたが、西洋の国の中でもオランダとは交流がありました。そこで、オランダを通じて西洋の学問が日本にもたらされました。これを「蘭学」と呼びます。「蘭」はオランダ(和蘭)のことです。この時代の日本では洋書を訳す際に、訳者による註記を加えることがよく行われていました。つまり、訳書には訳者の見解が反映されています。
さて1774(安永3)年、通詞(通訳・翻訳家)の本木良永(1735~1794)がオランダの天文学の書を『天地二球用法』として訳しました。この書はコペルニクスの地動説を取り上げていますが、従来の天動説も併記しています。
しかし、1793(寛政5)年に訳した『太陽窮理了解説』では地動説を明記し、地動説にもとづいて天体の動きを解説しています。本木はこれ以降も、さまざまな天文学の書を訳しています。
「惑星」「恒星」「彗星」は本木の造語です。ただし本木は「地動説」という言葉を使っていません。
「地動説」の語を初めて使ったのは、本木の弟子、志筑忠雄(1760~1806)です。志筑はニュートン力学の入門書を『暦象新書』として訳しました。この原書の著者ジョン・ケール(1671~1721)は、万有引力を発見したアイザック・ニュートン(1642~1727)の弟子です。
志筑は、1798(寛政10)年刊行の『暦象新書』上編の「附録」で「天動説と地動説は、地球と太陽のどちらを基準に見るかの違いに過ぎない」として、どちらが正しいか断定を避けています。
しかし1800(寛政12)年刊行の中編では、地動説を明言しています。その註記で、天文学の論を「形体」、仏教など宗教の宇宙論を「道徳」と分けて、「形体を以もって言へば、地は円にして動なり。道徳を以て言へば、地は方ほう(四角形)にして静なり」と述べます。天文学と宗教を共存させる意図が見えます。
志筑の造語として「天動説」「地動説」の他に、「引力」「重力」「遠心力」「速力」などがあります。余談ですが、志筑は1801(享和元)年に『鎖さ国こく論ろん』を著しています。これが「鎖国」という言葉の初出とされます。
仏教の宇宙観は方便
こうして、日本でも地動説が紹介されるようになりました。地動説を世間に広く紹介したのが、蘭学者にして洋風画家の司馬江漢(1747~1818)です。
司馬は本木の『太陽窮理了解説』を読み、地動説に興味を持ちます。そして1793(寛政5)年、『地球全図略説』を刊行し、地動説を取り上げます。ただしこの時点では「近ごろの西洋の人の説」としての紹介であって、地動説への疑問を併記しています。
しかし1805(文化2)年の『和蘭通舶』では、地動説を明記しています。これ以降、司馬はさまざまな著作を刊行して、地動説を世に広めようとしました。
そこで問題となったのが、仏教の宇宙観です。仏教が説く宇宙の姿と、天文学が明かす宇宙の姿は異なります。これについて司馬は1811(文化8)年の『独笑妄言』で、仏教の宇宙観を「方便」と評します。方便とは、「真実ではないが、真実へ導くための手段としての教え」の意味です。つまり、「仏教の宇宙観は実際の宇宙の姿と異なるが、それは正しい教えを説くための手段として示した姿である。宇宙の実際の様子を明かすことを目的としているのではない」ということです。その上で、「今の僧侶は真実と方便を取り違えている」と、僧侶のあり方に批判を向けています。
仏教の宇宙観と地動説の論争
こうして、日本に地動説が広まりつつありました。すると、地動説に反論した僧侶がいます。京都・聖護院の僧、円通(1754~1834)です。円通は1810(文化7)年、『仏国暦象編』を著して、仏教の宇宙論を真実とする立場から、地動説を論じます。そこには、「仏教の宇宙論は天眼(真実を見る目)の持ち主の目に映る真実の宇宙の姿である。それに対して、天文学の説は凡夫(一般の人々)の目に映る宇宙の姿である」という内容が述べられます。
司馬は円通の論を知って、論争を挑みました。1812(文化9)年、司馬は円通に書状を送ります。すると、円通から返信が届きました。その内容は『江教論天』にまとめられています。
まず、司馬が「暦象考正と申書は西洋の訳書」と書いています。これについての円通のコメントを現代語訳すると、「暦象考正とあるのは、暦象考成の誤りです。この書は中国・清の康熙帝と乾隆帝の命によって作られたのであって、西洋の訳書ではありません」となります。
『暦象考成』は、当時の天文学者にとって必読と言える書でした。つまり円通は、司馬に天文学の基礎学習が欠けていると示唆しています(江戸時代に日本で洋書を訳す際、漢文で書くのはよくあることでした。『暦象考成』は中国製だから漢文ですが、司馬はそれを洋書の翻訳と誤解したのかも知れません)。
さらに、司馬の書状には自身が寺社奉行の役人であると書いてありますが、円通はそれが偽りであることを見抜いています。実際、司馬が寺社奉行の役人であった事実はありません。その上で、司馬が「仏教の宇宙論は比喩として示されたものである」とすることに、円通は「仏説は真実である」と返しています。司馬からの再反論がないまま、2人の論争は終わりました。
しかし、仏教の宇宙論と地動説について、これで決着が付いたわけではありません。伊能忠敬(1745~1821)は1817(文化14)年ごろ、『暦象編斥妄』を著して円通の論を批判し、仏教の宇宙論は方便だと述べます。
ところで、江戸後期には国学が盛んとなりました。国学とは、仏教など外来思想に依らない日本の精神を追究する学問です。国学者は皇室を重視し、外来宗教である仏教に否定的でした。
地動説が日本に紹介されると、国学者はそれに好意的でした。国学者の平田篤胤(1776~1843)は1813(文化10)年の『霊能真柱』で、仏教を「妄説」と呼びます。その上で、地動説は日本古来の精神に合致していると言います。同書の図では、天(太陽)に天照大神を充てています。天照大神は皇室の祖とされ、太陽の女神でもあります。それを中心にして地球が回るという説は、国学に好都合だったようです。
さらに、大坂の商人にして学者でもある山片蟠桃(1748~1821)は、1820(文政3)年の『夢の代』で、国学とは別の視点から、仏教などの宇宙論は信じるに値しないと評します。
浄土の存在をどう説明する?
時代が明治になっても、天文学と仏教の関係は論点であり続けました。とくに、浄土真宗など浄土教の宗派では大きな問題でした。なぜなら、これらの宗派では「西方の浄土への往生」が教義の大きな柱だからです。
それについて、「浄土の姿を説くのは真実へ導くための方便」という見方と、「天文学の説は科学における真実、浄土の説は信仰における真実」と区別する、2通りの見方が提示されました。
まず本願寺派(西本願寺)の島地黙雷(1838~1911)は、1877(明治10)年に「地獄極楽の分れ道」でこのように述べます。
地獄極楽とは如何なる物ぞと云ふに、仏世尊の説によりて之を窺うに、取りも直さず苦・楽二趣の異名と云ふべき者なり。…(中略)…人の行為に善悪の二つがある以上は之を報ふて顕るゝべき苦楽の二報あるは必然の理なり。…(中略)…地獄極楽の名は止めてもよし。名は畢竟仮に施したる符牒にて、何と名付くるも差支なし。
行為の善悪によってその結果にも善悪があるのであって、地獄や極楽はその結果に付けた仮の名前に過ぎないと判じます。その中で「地獄極楽の名は止めてもよし」という大胆な提案をしています。これは、浄土を方便とする見方の一種と言えます。
東洋大学の創立者、井上円了(1858~1919)は1898(明治31)年に『仏教理科講義』を著しました。その中の「極楽論」の内容を要約すると、「浄土は本来、仏の智慧によって理解できるものであって、凡夫の能力で理解できる範囲を超えている。宇宙に東西南北の区別はないが、凡夫に伝える方便として西方という方位で示したまでである」となります。
それに対して、浄土の説は方便ではなく、天文学とは別の意味での真実であるという見方が提起されるようになりました。大谷派(東本願寺)の清沢満之(1863~1903)は1901(明治34)年の「科学と宗教」で「科学には科学の範囲あり、宗教には宗教の範囲あり」と、科学的真理と宗教的真理を分けるよう提案します。
清沢はさらに、1902(明治35)年の「宗教は主観的事実なり」でこう述べます。
私共は神仏が存在するか故に神仏を信するのではない、私共か神仏を信するか故に、私共に対して神仏か存在するのである。又私共は地獄極楽かあるか故に地獄極楽を信するの
ではない、私共か地獄極楽を信する時、地獄極楽は私共に対して存在するのである。
浄土は客観的存在とは言えないが、信じる者にとっての真実であるということです。
天文学と仏教はなぜ両立できる?
仏教の宇宙論と天文学は異なりますが、共存してきました。なぜでしょうか?その理由として2点挙げることができます。
まず、仏教界において複数の「正しい教え」が共存してきたことがあります。お釈迦さまの教えは「八万四千の法門」と呼ばれるように、多種多様な教えがあります。そこで後世、「どの教えがお釈迦さまの真意なのか」が考察されるようになりました。そして、どの教えを「お釈迦さまの真意」と判定したかによって、さまざまな宗派が成立しました。
各宗派において、「お釈迦さまの真意」とされた教えが真実であり、それ以外の教えは「方便」とされます。方便とは、「真実ではないが、真実へ導く手段としての教え」という意味です。
宗派が変われば「真実の教え」は変わります。それ以外を「間違い」と排除するのではなく、多様な「真実の教え」を共存させてきました。これが、科学と宗教の関係に応用されたのでしょう。
次に、浄土を「方便」とする見方について、その原型が親鸞聖人にあると言えます。親鸞聖人は浄土を「無量光明土」と示します。「限りない光の世界」の意味です。仏教において「光明」とは「仏のさとり」の意味があります。
さとりの境地は、真実そのものです。真実そのものには、具体的な形がありません。つまり、さとりの境地である無量光明土には具体的な形がなく、私たちに理解できる範囲を超えています。
さまざまな経典が浄土の具体的な姿を描いていますが、これについて親鸞聖人は「方便化土」と規定しています。浄土は本来なら具体的な姿がないが、そのままでは私たちに理解できないので、あえて具体的な形で示したものということです。これを踏まえていれば、天文学との両立は難しくありません。
最後に個人的な意見を述べたいと思います。「科学における真実」と「信仰における真実」を区別すれば問題ない、というのが私の考えです。「事実であると信じる」内容と「信仰として信じる」内容が一致する必要はありません。「これが正しい」は、必ずしも「これ以外は間違い」を意味しません。
とは言え「信仰における真実」は、信仰を異にする人とは共有できません。
むしろ、浄土の具体的な姿については「方便」として、浄土そのものは人間に理解できる範囲を超えているとした方が、さまざまな立場の人と共有しやすいのではないでしょうか。そもそも、仏教の目的は私たちを真実に導くことです。宇宙の姿を解き明かすことではありません。
(文/編集委員・多田修)
【参考文献】
・浅見恵・安田健編『日本科学技術古典籍集成 天文学篇4』(科学書院)
・浅見恵・安田健編『日本科学技術古典籍集成 天文学篇5』(科学書院)
・池内了著『江戸の宇宙論』(集英社)
・池内了著『司馬江漢「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(集英社)
・井上円了著『仏教理科講義』(哲学館)
・梯實圓著『親鸞教学の特色と展開』(法蔵館)
・菅野陽著「司馬江漢と釈円通の論天問答―文化九年九月の『江教論天』―」(有坂隆道・浅井允晶編、清文堂出版『論集 日本の洋学Ⅱ』所収)
・柏原祐泉著「近代における浄土観の推移」(池田英俊編、雄山閣『論集日本仏教史 第八巻 明治時代』所収)
・教皇ヨハネ・パウロ2世、ポール・プパール枢機卿(柳瀬睦男解題、川田勝訳)「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ―ガリレオ裁判をめぐるローマ教皇庁の見解」(みすず書房『みすず』第35巻8号所収)
・『清沢満之全集 第6巻』(岩波書店)
・三枝博音編『日本哲学思想全書 第6巻』(平凡社)
・佐藤満彦著『ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿』(中央公論新社)
・『司馬江漢全集 第2巻』(八坂書房)
・『司馬江漢全集 第3巻』(八坂書房)
・『島地黙雷全集 第4巻』(本願寺出版部)
・杉本つとむ編集『天文暦学書集(1)』(早稲田大学出版部)
・杉本つとむ著『長崎通詞ものがたり』(創拓社)
・高田文英著「真宗先哲の地獄論―近世・近代を中心に―」(真宗連合学会『真宗研究』第
56輯所収)
・田中一郎著『ガリレオ裁判 400年後の真実』(岩波書店)
・常塚聴著「須弥山と地球―科学的宇宙論と仏教的宇宙論の接触―」(親鸞仏教センター『現代と親鸞』第205号所収)
・『新修 平田篤胤全集 第7巻』(名著出版)
・水田紀久・有坂隆道校注『日本思想大系43富永仲基 山片蟠桃』(岩波書店)
・村上速水著『親鸞教義の研究』(永田文昌堂)
・渡辺敏夫著『近世日本天文学史(上)』(恒星社厚生閣)