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“たった一文字”を変えるだけで、言葉の伝わり方は大きく変わる

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「で」と「が」です(本記事は2023年9月の築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

「今日のお昼、何が食べたい?」
 と家庭で問われた時、
「冷やし中華でいいよ」
 と決して言ってはいけないということは、今ではよく知られるようになりました。

「冷やし中華」が禁句なわけではありません。「冷やし中華」のあとに来る「で」が、問題なのです。

 冷やし中華というと、暑い時期にさっと食べられる手軽な食事だと、料理をしない方は思われているでしょう。しかし冷やし中華は、実はものすごく手間のかかる料理です。

 薄焼き卵を焼いてから千切りにして、錦糸卵を作る。きゅうりやトマトや焼き豚など、好みの具材もそれぞれ細く切っておく。具材は全て事前に準備しておき、麺を茹でたらキリッと冷やして彩りよく具材を盛り付け、さらに冷やしておいたつゆをかけ……と、それはちらし寿司と同じくらいに大変な作業。

 食べるだけの人としては、「冷やし中華は、簡単にできるだろうし」と、ほとんど思いやりの気持ちから、「冷やし中華『で』いいよ」と言うのだと思います。が、作る側からすると、その「で」を聞いた瞬間に、絶望に近い気持ちを覚えるのでした。

 では何と言えばいいのかというと、
「冷やし中華『が』食べたい!」
 となりましょう。積極的に冷やし中華が食べたい。それもあなたが作ってくれる冷やし中華が。……というニュアンスが「が」の字にはこもるのであり、「が」を聞いた時、作り手としては「よーし、面倒くさいけど、いっちょう作ってあげようではないか」と、やる気になってくる。

 もちろんこれは、冷やし中華に限った話ではありません。「カレーでいいよ」であれ「チャーハンでいいよ」であれ、全ての「で」は、料理を作る者を絶望の淵に立たせます。料理をただ食べるだけなのであれば、せめて「カレーがいいな」「チャーハンが食べたい」と、嘘でもいいので「が」を使用するのが、作り手への礼儀であり、エールなのではないか。

 俵万智さんの有名な短歌にしても、「この味がいいね」と「君」に言われたから、「七月六日はサラダ記念日」となったのであり、君が「この味でいいや」と言ったとしたら、七月六日は別れの日になっていたかもしれません。

 日常生活においても、「が」の持つ力は大きいのでした。たとえば仕事の企画をいくつか提出した時、上司から、「この企画がいいと思う」と言われるのと、「ま、この企画でいいか」と言われるのとでは、その後のやる気に大きな差が出ましょう。

 「が」を上手に使うには、自分が良いと思うものや欲しているものを選び取る力が必要です。大げさに言うならば、「が」とは、言う側にも責任を負う勇気が必要となってくる助詞なのです。

 対して「で」からは、責任回避の香りが漂います。「積極的に良いと思っているわけではないけど、ま、しょうがないから選んでおきます」と言いたげな。

 人間、常に「これ」と言うものを選び続けるのは難しいものです。しかし選ばれる側からしたら、「あなたが好き」「これがいい」という言葉で、選ばれたい。もちろん、「あなたが嫌い」「これがダメ」という言い方も可能な強い助詞である「が」ではあるけれど、それは人に一筋の道筋を示す“希望の助詞”なのだと私は思います。
 
酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『日本エッセイ小史』(講談社)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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