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「終わる」ことより「続ける」ことの方が難しい 

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「終わる」と「続く」です(本記事は2020年8月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 糸偏(いとへん)の漢字が好きです。「綿」「絹」「綾」「紅」……などと思い浮かべてみれば、柔らかな印象の字が目立つ印象が。古来、糸やら布やらを扱う仕事に携わったのは女性が多かったせいか、糸偏の漢字は、女性の名前に使用されることもしばしばあります。

 どことなく人生を感じさせるものが多いのも、糸偏の漢字の特徴でしょう。誰かと「絆」を「結」ぶこともあれば、やがて関係が「絶」えたり「終」わったりもする。一本の細い糸に、人は人生を仮託(かたく)してきたのです。

 とはいえ子供の頃を思い返せば、自分の人生において何かが終わることなど、考えたこともなかった気がします。子供が「終」の字を意識するとしたら、せいぜい終業式の時くらいだったのではないか。

 終業式やら卒業式といった「終わり」の行事は、あらかじめ予定が決まっていたのであり、スケジュール帳に書き込むことができるものでした。小学校を卒業すれば中学校へ進学するなど、何かが終わる時点で次の展開が見えてもいたこともあり、似たような生活がこの先も続いていくのだろうなぁと、と漫然と信じることもできたのです。

 日々学校に通い、家に戻ればいつも同じ顔ぶれの家族がいる。……という生活は、時に退屈にも感じられました。いつになったら幕が開いて新たなステージが始まるのか、と夢見たこともありましたっけ。 

 しかし大人になるにつれ、私達はあらかじめスケジュール帳に書き込んでおくことなどできない、予期せぬ「終わり」に直面するようになります。恋愛に目覚めれば、やがて別れという「終わり」がやってくる。家族の顔ぶれも不変ではなく、誰かが他界することもある。人と人との関係のみならず、全てはいつか終わるのだ、と知ることによって、我々は大人になっていくのです。

 その時に気づいたのは、実は「終わる」ことよりも「続ける」ことの方が難しい、という事実でした。全てはいつか終わる、という前提の中で、人間関係であれ仕事であれそして人生であれ、なるべく長くそして幸せに続けるために、人は必死で努力をしています。当たり前のように続いているものでも、努力をやめたらすぐに終わってしまうケースが、いかに多いことか。

 「終わり」が先延ばしにできるようにと努力する我々ですが、しかしここ数十年で、日本人の「人生の終わり」に対する意識の持ち方は、激変しています。昔は、自分の死について口にすることすら縁起が悪いと思われていましたが、今は「周囲に迷惑をかけたくない」と、積極的に終活に励む人が増えてきました。また、昔は深刻な病気の告知なども本人にはされなかったけれど、今は普通に行われるように。すなわち昔と比べて今の人は、「終わり」を自覚的に捉えるようになってきたのです。

 自覚をすれば終わりが怖くなくなるのかといったら、そういうわけではないのでしょう。が、自身の人生の終わりについて考えることによって、「終わり」の先に続いていく何かのことが、見えてくるのかも。

 糸はやがて終わるけれど、何かと「結」んだり「縫」い合わせたりすることによって、また別の形をとって続いていく。……といったことも思わせてくれる、糸偏の漢字。それは終わりの先に見える可能性について、教えてくれているようなのでした。

【築地本願寺新報 2020年8月号より転載】

酒井順子
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経て、エッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『無恥の恥』(文藝春秋)『うまれることば、しぬことば』(集英社)など。

【上記記事は、築地本願寺新報に掲載された記事を転載しています。本誌の記事はウェブにてご覧いただけます】

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