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「きっちり」な理系と「あいまい」な文系が混じりあうから、世界は豊かになっていく

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「理系」と「文系」です(本記事は2024年7月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

  昭和時代に、女子校に通っていた私。時代のせいもあってか、今で言う〝リケジョ〟は、今以上に少数派でした。

「あの子、数学科を目指しているらしいよ」
 といった話を聞くと、何か珍しい生き物を見るような気がしたものです。

 私はといえば、言うまでもありませんが、子供の頃から理科にも数学にも興味を持つことができませんでした。そのまま「文」の道を進んで今に至ったのであり、今となっては九九の暗唱すら、時にあやしいというていたらくです。

 文系人生を歩んでいると、理系の人と接する機会は多くありません。家族も皆、文系だったので、理系人がどのような性質かすらよく知らないのですが、理系の研究者とお見合いをした友人は、
「理系の男性、おすすめよ。女性の少ない環境で生きてきたせいか、すれてないし。何でもすぐに答えを出すのも、文系世界の男性に慣れた身からすると、とっても新鮮」
 と、結婚当初に言っていましたっけ。

 その話を聞いて私は、「なるほど」と思ったことでした。理系の人々というのは、「理」すなわち「ことわり」の道を歩んでいるということで、何事においても、理論や道理に従って一つの解を導き出す傾向が強いのかも。

 対して文系の人々は、何事にも「解」があるとは思っていないところがあります。解を導き出さず、あいまいなままに終わらせることもしばしばなのです。

 理系と文系の違いというのは、あいまいさに対する許容度の違いなのかもなぁ、とその時に私は思いました。私にしても、文章を書いている時に、「……かもしれません」とか、「……と言えなくもないのです」といったあいまい表現をしょっちゅう使用しています。「断定できるほど確信を持っているわけでもないし」ということでぼかしたくなるのですが、そのような文章は、理系の人からしたらイラつくものなのかもしれません(……と、ここでも「かもしれません」)。

 あいまいさに対する姿勢は、どちらが良いというものでもないのでしょう。理系の分野においてあいまいさを許容していたら、世の中が大混乱します。0か1かをきっちりと判断するからこそ、機械は動き、薬品は効果を発揮するのです。

 対して文系の世界であいまいさを排除し、0か1かという判断が常に下されていたら、世の中からうるおいが失われます。「なんとなく」とか「そんな気がする」といった振れ幅に、我々はほっとするのです。

 世の中は、理系と文系の感覚が混ざり合うことによって、回っているのでしょう。「きっちり」が世を進め、「あいまい」が世を包む、と言いましょうか。

 しかし世の中には、理系と文系、両方の感覚を持っている人もいるものです。理系の研究者であると同時に有名な歌人でもある、といった人を見れば、理系と文系の能力は共存可能。そして私のような者の中にも、ごく微量ではあれ、理系感覚が存在しているに違いない。

 受験生達は、自分が理系なのか文系なのか、判断しなくてはなりません。しかし理系の道に進んでも文系ジャンルに片足を残してもいいし、逆にしても同様。両者がうまい具合に混じり合ってこそ、世界は豊かになっていくのでしょう。
 
酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『枕草子(上・下)』(河出文庫)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。