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22.9.12 許す強さはあなたを味方する

こんばんは、多部栄次です。
ぼちぼち日記やっていきましょう。

「これだけは許せないものはありますか?」
「あなたの嫌いなものは何ですか?」

こういった質問を小中高の時代によく聞かれたような気がします。存在しない記憶だったら、まぁそれはそういうことにしておきましょう。

ともあれ、これやられたら自分は怒るってものがあると思います。
僕もこれだけされたら許さないってのがあったんですが、公言してたんですよね。そのときに母に、

「自分で許せないものや嫌なものを決めない方がいいよ」

そう諭されたのを覚えています。一度や二度ではなかったですね。
もちろん生理的に、反射的に嫌なものは誰しもありますし、カッとなるものはあるでしょう。あってもいいんです。

でも、自分はこれは嫌というものを周囲に言いますと、それを許容できる自分になるのに時間を要することになります。人にこう言ったから、これのことを嫌いな自分でいなければならないと無意識的に自分をセーブするようになるからです。

自分の負の感情を言語化するのは、怒りや不快感を鎮めたりするのに役に立ちます。しかし、感情を人に言うとなればまた違ってきます。
ただこれ定義が広いので、一概に言えないんですよね。嫌なものは嫌と言わなきゃダメだとか、じゃあこういうケースはどうなんですかとか。要は嫌なものを許容するという言葉は万能ではないんです。

ただ、些細なことでも嫌いだと定めてしまうと、今後ずっと、それを許す時が来ることはほぼないのではないかと僕は考えます。トラウマ等の重い出来事はまたデリケートになるので、それは恐縮ながら割愛させていただきますが、小さなこと(たとえそれが自分にとって大きなことでも)に対してはもう一度、見つめ直してもいいのではないでしょうか。

例えば僕の場合は…なんでしょう、されて嫌なことは悪口とか暴力とか万人が嫌だと思えることなので、それについてはまず引きずらず、負の気持ちを置いて、視点を変え、憎まず、距離を取るようにするようにして…この話はちょっと単純ではないのでまた別の記事に書こうと思います。

それはそうと怒ることはほぼないのであんまりたとえが思いつかないですが、んーなんだろ、から揚げにレモンかけられることとか、本のページを折り曲げることとかですかね(人によっては絶対に許せないことでしょうが)。もちろんこれ以上の大きい話も該当すると思います。
あとはこの人が嫌いとかも、一視点のみでの判断かもしれません。

不快だという感情に反応しない。相手も悪気があるわけじゃないと許す。他意があったとしても、とりあえず許す。場合によるでしょうが、憎み、怒るだけ自分が苦しくなりますし、誰の為にもなりません。そう僕は思います(世間知らずなだけかもしれませんが)。

自分にとって許せないことが、他者にとっては何とも思わないように、その人にとって許せないことが自分にとって「え、そんなことで?」と思うように、その視点を俯瞰してみれるようにしていきたいですね。そうすれば、許せることも増えていくのではないでしょうか。

それではおやすみなさい。明日も良い一日を。

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