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黒い紫陽花|掌編小説(#シロクマ文芸部)

紫陽花アジサイを見に行こうよ。週末、晴れるみたいだし」

 彼氏からのメールに、すぐに返信する気になれなかった。

 ――なんで紫陽花なの?

 心の中で呟く。見るものなんて、他にいくらでもあるのに。

 田舎から東京に引っ越してきて一番良かったのは、紫陽花を見なくて済むことだった。あの日以来、紫陽花は見ていない。いや、見ないようにしている。

 中学2年の時、学校から帰ると、家の前には近所の人達がたくさんいて、その中心にお母さんがいた。変だと思いながらも、平静を装って「こんにちは」と挨拶すると、誰ひとりとして挨拶を返してくれない。それどころか、誰も私と目を合わせようとしなかった。

 ――何なの?

 不思議なのを通り越して、不愉快さを覚えた私は、対抗するつもりでみんなを睨みつける。睨みつけた時に、庭先の紫陽花が目に入った。

 ――え?

 紫陽花は真っ黒に染まっていた。朝、家を出る時には、確かに紫だったのに。

 ――まさか、いたずら?

 黒い紫陽花に手を伸ばすと、母が静かに「中に入ってなさい」と言った。

「え……でも」
「いいから入ってなさい!」

 見たこともないくらいに顔を歪めた母に恐怖を感じ、私は弾かれたように家の中に逃げ込んだ。
 それからすぐにお父さんが帰ってきて、なぜか我が家はバタバタと荷物をまとめ、引っ越しの準備をすることになった。

 ――引っ越す理由も、行き先も聞かされないまま。

 一通り荷物をまとめ終えると、お父さんが私の荷物を見て顔をしかめた。

「荷物が多するぞ。必要最低限にしなさい」
「これが必要最低限だけど」
「こんなもの置いて行きなさい。引っ越してからまた買えばいいだろう?」
「何なのよ!」

 私の大声に驚いたのか、お父さんは動きを止める。

「なんで引っ越すのよ! ちゃんと説明してよ! それと、あの黒い紫陽花も!」

 お父さんはもごもごと口を動かすだけで、何も言わない。

「やめなさい。お父さん、困ってるでしょう?」

 わざとらしく穏やかな口調のお母さんを一瞥して、私はどすどすと大きな足音を立てて部屋に戻った。ベッドに寝そべり、親友のともちゃんにメールを送る。いつもならすぐに返信してくれるともちゃんだったが、いくら待っても返信はない。何度電話しても、何通メールを送っても、ともちゃんから返信が来ることはなかった。

 ――なんで……。

 私は携帯電話を壁に投げつけた。

 翌朝は土砂降りだった。雨の予報なんて出てないのに。
 引っ越し屋さんとお父さんが話をしている間、私は車の後部座席から庭先の紫陽花を見ていた。大量の雨粒が張り付いた窓からはよく見えなかったが、やっぱり紫陽花は黒いままだった。

 車の中で、お母さんは少しイラついた声でお父さんに「ねぇ、大丈夫よね? 大丈夫よね?」と何度も言い、それに対してお父さんは「ああ」と気持ちが入っていない返事をするだけで、他に一切言葉を発しない。

 長い赤信号の時、傘をさしてこちらを見ている少女に気付いた。

 私は窓を開け、「ともちゃん!」と叫んだ。

「ダメよ!」

 お母さんの怒鳴り声と同時に、車が急発進した。

「ともちゃん! ともちゃん!」

 窓から顔を出し、親友の名前を叫びながら手を振る。
 ともちゃんは、ただ黙ってこちらを見ていた。

 それからの人生は意外にも順調で、今は婚約者もいる。

 去年、お母さんから「ともちゃん、亡くなったらしいわよ」と聞いた時は、少しだけ胸がぎゅっとなったけど、「へぇ、そうなんだ」という言葉しか出なかった。

 余計なことは考えない。自分が幸せになることを考えよう。
 あの日以来、そうやって毎日を生きてきた。

「どうしたの? ぼんやりして。あ、もしかして、マリッジブルーってやつ?」
「そうかもね」

 婚約者に、私は精一杯の作り笑いを見せる。

「ねぇねぇ! あっちに珍しい紫陽花が咲いてるよ!」

 婚約者が興奮して私の手を引く。

「初めて見たなぁ。黒い紫陽花なんて」

 パシャパシャと写真を撮る婚約者を眺めながら、私は思った。

 ――次は、私の番なのね。

(了)


小牧幸助さんの「シロクマ文芸部」に参加しています。

絶望的にnoteの更新が止まっています…。
創作大賞2024の応募も始まっており、一番小説を書かなければいけない時期なのに…。


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