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最近の「橋本宿」関連記事のまとめ

■概要
・古の「橋本宿 うたた寝紀行」
https://note.com/sz2020/n/nff0e53ce673c

■橋本宿
・謡跡巡り「白拍子との恋」
https://note.com/sz2020/n/nbbac162d4ce3
・浜名湖南端の変遷
https://note.com/sz2020/n/n4fe2c4a0a336
・【史料集】中世紀行文に見る橋本宿
https://note.com/sz2020/n/n20fe4a99d17d
・阿仏尼『うたたね』
https://note.com/sz2020/n/n29e6a6043613

■猪鼻坂
・『更級日記』の「猪鼻坂」
https://note.com/sz2020/n/nfd2747cd6259
・【まとめ】「猪鼻坂」の調査報告
https://note.com/sz2020/n/n83acaf501add

■紅葉寺
・応賀寺と紅葉寺 -『妙相夢想造立記』を巡って-
https://note.com/sz2020/n/n035866335367
・物部真福と真福寺
https://note.com/sz2020/n/necc2e5b4eb0e

■橋本砦
・「中先代の乱」
https://note.com/sz2020/n/n75c18e152e0e
・「中先代の乱」の「橋本合戦」
https://note.com/sz2020/n/n13464f2a9713
・遠江国橋本宿の橋本砦
https://note.com/sz2020/n/nbb1e384652de
・【まとめ】「橋本砦」の調査報告
https://note.com/sz2020/n/naca67ccfd356

■解説

■概要

 東海道53次・新居宿(静岡県湖西市新居町)をご存の方は多いと思う。浜名湖の太平洋への流出口「今切」の西の宿で、東の舞坂宿(静岡県浜松市西区舞阪町)へは船で渡った。
 鎌倉時代、今切はなく、鎌倉街道は、浜名湖の太平洋への流出口「浜名川」を浜名橋で渡った。橋の西が橋本、橋の東が日ヶ崎である。橋本宿は、「駅伝」の語源となった奈良官道「猪鼻駅」から発展した宿場町だという。

・古の「橋本宿 うたた寝紀行」:橋本宿(江戸時代の新居宿の南側一帯)を散歩した時の写真紀行である。橋本がどんな場所であるか把握できるようにした。

■橋本宿
・謡跡巡り「白拍子との恋」
・浜名湖南端の変遷
・【史料集】中世紀行文に見る橋本宿
・阿仏尼『うたたね』

 コロナ禍で、旅に出られないとなると、なおさら旅に出たくなるが、中世では、まだ街道も宿場町も発達していなかった。盗賊もいただろう。「早く家に帰りたい」とホームシックになったと思われる。寂しかったろう。
 源頼朝にしろ、源義経にしろ、宿泊所は、江戸時代の大名のように「本陣」ではなく、「長者屋敷」や「寺院」であった。源頼朝と橋本長者の娘・妙相、源義経と矢作長者の娘・浄瑠璃姫のラブロマンスが伝えられている。

■猪鼻坂
・『更級日記』の「猪鼻坂」
・【まとめ】「猪鼻坂」の調査報告

 鎌倉街道には「猪鼻坂」と呼ばれる坂道があった。『更級日記』に、「浜名の橋に着いたり。(中略)それより上は、猪鼻といふ坂の、えもいはず侘しきを上りぬれば、三河の国の高師の浜といふ」とある。「それより上は」の「それ」は浜名橋であり、「上」は「京都方面」である。
 「猪鼻坂」については、
猪鼻坂①:地元住民が「猪鼻坂」と呼んでいる坂
猪鼻坂②:高師山と愛宕山の間の坂(紀行文の描写とピッタリの坂)
猪鼻坂③:地元住民が「カチ坂」と呼んでいる坂(明応以後の新しい坂)
の3説があり、実際に行ってみた。また、「カチ坂」の語源には諸説あるが、どれも納得できるものではないので、自分なりに考えてみた。

■紅葉寺
・妙相の願文『妙相夢想造立記』
・応賀寺と紅葉寺 -『妙相夢想造立記』を巡って-
・物部真福と真福寺

 紅葉寺については、現地案内板には、「妙相が源頼朝の供養にと毘沙門天を祀った寺」とあるが、源頼朝の没年は1199年で、江戸時代に毘沙門天の胎内から出てきた『妙相夢想造立記』によれば、妙相が夢想により、毘沙門天像を造立したのは1270年で、71年も離れている。
 また、「夢想」には、聖徳太子や真福寺が登場する。「丁未の乱」の史実(物部守屋の敗因)を考えてみた。

■橋本砦
・「中先代の乱」
・「中先代の乱」の「橋本合戦」
・遠江国橋本宿の橋本砦
・【まとめ】「橋本砦」の調査報告

 橋本では何度も合戦が行われたと言うが、記録に残っているのは「中先代の乱」の「橋本合戦」のみである。『梅松論』に「遠江の橋本を要害に搆て相支る」とある。この「橋本砦」は3段の連郭式で、東西に切岸、東に堀(西は谷)、尾根には堀切が残っているという。

 「猪鼻坂」と「橋本砦」については、誰も興味がなく、調査する気がないようで、ネットで検索しても私の記事しかヒットしない。

 ──興味がある私が行くしかない?

 上記の記事は有料記事になっている。売上金が貯まったら、調査に行きたいと思う。
 「猪鼻坂」は、「えもいはず侘しき」山の中の道で、細くて、暗くて、恐ろしく、食用キノコ採りの人しか通らないと言うが、残っていて、しかも、キノコの時期には歩けそうなのがありがたい。
 「橋本砦」は草木が生えて分かりづらく、特に北の「猪鼻坂」へ下る道は竹藪になって、枯れ葉で見分けがつかないという。
 もちろん、私が行く前に、行く人がいて、その人が記事を書いてくれたら、行かずに済むので(記事を読むだけでいいので)ラッキー!

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