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物部真福と真福寺

1.丁未の乱


 「丁未(ていび)の乱」は「物部守屋の変」とも呼ばれている。「用明天皇2年(587年)7月、仏教の礼拝を巡って大連・物部守屋(神道派)と対立した大臣・蘇我馬子(仏教派)が河内国渋川郡(大阪府東大阪市衣摺)の物部守屋の館を攻め、物部守屋を討った戦い」であり、この敗戦により、物部氏は衰退したという。(一説に、物部守屋は傍流であり、嫡流ではないので、さほどの影響はなかったという。)
 物部氏族は饒速日(ニギハヤヒ)が北九州から「日本」(後に東征した「倭」と合併して「大和」)に連れてきた武闘集団であり、物部守屋の館からは矢が雨のように降ってきて、蘇我馬子に勝ち目はなかった。この時、聖徳太子は白膠木(ヌルデ)を切り取り、素早く四天王の像を刻んで頭の上に置き、「勝たせてくれれば寺を建てる」と誓うと、毘沙門天(四天王の多聞天)が現れて矢を渡し、形勢が逆転した。迹見赤檮が矢を射ると、物部守屋に命中し、大将を射られた物部守屋の軍は敗北して逃げ散った。

■『日本書紀』(巻21)
乃、斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髮、而発誓言「今若使我勝敵。必当奉為護世四王、起立寺塔」。
乃(すなわ)ち、白膠木を斮(き)り取りて、疾(と)く四天皇像を作り、頂髮(たきふさ)に置き、誓言を発す。「今、若(も)し我をして敵に勝たしめば、必ずまさに護世四王(ごせしおう)の為に寺塔(てら)を起立(た)てむ」と。

 聖徳太子は、約束通り、四天王寺を建て、3体の毘沙門天像を刻んだ。現在、1体は毘沙門天信仰の発祥地・鞍馬山、1体は信貴山、1体は多聞山妙福寺にあるという。

【異説①】 物部守屋は生きており、諏訪に逃げて守矢氏の祖となったというが、史実は、諏訪に逃げたのは物部守屋の子・物部武麿で、現地の豪族の娘と結婚して守矢氏の祖となったという。

【異説②】 物部守屋の次男・物部真福は、「丁未の乱」の後、四国を経て、物部氏の本拠地・北九州に隠れ住み、その後、出家して全国行脚の途中、「物部王国」と称される三河国で「日本のルルドの泉」と称される万病(特に眼病)に効く泉を発見すると、聖徳太子に資金援助を頼み、真福寺と守護社・村積神社を建てたというが、史実は、物部真福は、三河国造・知波夜命の子孫であり、「物部真福は北九州から三河国に来た」というのは、「丁未の乱」の後、捕らえられた物部守屋の子・物部片野田(片野目)が筑前国鞍手、物部辰狐が肥前国松浦に流罪にされたこととの混同だという。

 ──「毘沙門天が聖徳太子に矢を渡す」ってありえなくない?

 科学的にはありえない。
 史実のヒントは真福寺にある。物部守屋の次男・物部真福は、「毘沙門天の生まれ変わり」と言われ、真福寺の毘沙門天開山堂に祀られているのである。とすると、「丁未の乱」の史実は、「父・物部守屋(排仏派)と対立した次男・物部真福(崇仏派)が、聖徳太子(崇仏派)と裏取引をし、父・物部守屋の館から矢を盗み出し、聖徳太子に渡したので形勢が逆転した」であり、物部真福には四天王寺の住職が約束されたのであろうが、それでは裏取引がバレバレなので、北九州でほとぼりをさました後、物部王国の三河国に寺を建ててもらい、金ももらって長者として悠々自適に暮らしたのであろう。(一説に、物部真福は捕らえられ、他の兄弟同様、北九州に流罪になったが、「(崇仏派に加わって)出家する」という条件で許され、諸国行脚して三河国に流れ着いたたという。)
 真福寺は、「物部真福が建てた寺」ではなく、「聖徳太子が建てた寺」(開基:聖徳太子/開山:物部真福)であって、三河国で唯一、聖徳太子が建てた46ヶ寺に入っている。(正確には『私註抄』記載の48ヶ寺に入っており、46ヶ寺には入っていない。)

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