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「中先代の乱」の「橋本合戦」

1.「橋本合戦」の概要


 1335年(建武2年)の「逃げ上手の若君」こと北条時行の「中先代の乱」──足利尊氏は、8月2日、後醍醐天皇の勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は後付で足利尊氏に「征東将軍」の号を与えました。

 足利尊氏は、矢作宿で待機していた弟・足利直義と合流し、8月9日、「橋本合戦」となりました。橋本宿のどこで合戦が行われたかは不明ですが、『梅松論』には次のようにあります。

「先代方の勢、遠江の橋本を要害に搆て相支る間、先陳の軍士・阿保丹後守、入海を渡して合戦を致し、敵を追ちらして其身疵を蒙る間、御感の余に其賞として家督安保左衛門入道道潭が跡を拝領せしむ。是をみる輩、命を捨ん事を忘れてぞいさみ戦ふ。当所の合戦を初として(後略)」
(【大意】北条時行軍が、遠江国橋本(現・静岡県湖西市)を要害(砦)を搆えて待機すると、足利尊氏軍の先陣の武将・安保光泰が、入り海を渡って「橋本合戦」となり、安保光泰は、その身に疵(きず)を蒙(こうむ)るも、敵(北条時行軍)を追い散らした。この戦いぶりに感動した足利尊氏は、安保光泰に勲功地として(嫡男が北条時行側についた)安保5代経泰の遺領(本領と承久勲功地からなる安保宗家の旧領)を安保光泰に与えて安保宗家を継がせた(第6代宗主とした)ので、これを聞いた足利尊氏軍の武将たちは、我も、我もと命を惜しまず戦った。そして、この「橋本合戦」を皮切りとして(後略))

《安保氏系図》
安保左衛門尉経泰(道沢)─子(北条方。「中先代の乱」で8/19に自害)
            ─丹後守光泰(光阿)┬信濃守泰規(聖賀)…
                        ├二郎左衛門尉直実
                        ├彦四郎行泰
                        └彦五郎光経
光泰:左衛門入道道沢(道潭、道堪)跡知行し、丹家(武蔵七党の丹党。家紋は○に丹)棟梁たり。
参考文献:北畠顕家卿奉賛会編『安保文書』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138633

 『梅松論』には、「建武2年、橋本合戦で活躍したので傍流・安保光泰に嫡流(宗家)の領地を与えて安保宗家を継がせた(ので、みんな俄然やる気を出した)」とありますが、史実は、「建武2年、中先代の乱で、嫡流(第5代宗主)・安保経泰の嫡男は、北条軍に加勢し、足利軍に破れて自害したので、翌建武3年、橋本合戦で活躍した傍流・安保光泰に嫡流(宗家)の領地を与えて宗家を継がせ、第6代宗主とした」です。

・先代方の勢、遠江の橋本を要害に搆て相支る。
・入海を渡して合戦を致し
というのはよく分からない。
「要害」は紅葉寺裏の遺構、「入海」は浜名川と考えたいのですが、足利軍は西の矢作宿から東へ攻めてきています。そして、入海(浜名川)の西が橋本、東が日ヶ﨑ですから、「入海(浜名川)を越えて」ですと、「橋本を越えて、日ヶ﨑に渡り、橋本の砦を攻めて」となってしまいます。「入海」は浜名川ではなく、橋本の手前の豊川(志香須賀の渡り)なのでしょうね。

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