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「橋本砦」の調査報告

※タイトルを「調査報告」としましたが、まだ詳細な調査はしていません。
※サポート希望です。
※この高額な記事を多くの方に購入していただいて、調査費用とします。

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 東海道53次・新居宿と白須賀宿を結ぶ旧東海道(浜名街道)の「高師山公民館」バス停に「紅葉寺跡→」という標識がある。

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 矢印の方向(北)を見ると、奥に石段が見える。

1.紅葉寺

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 その石段の案内板(上の写真)を読む。

■紅葉寺跡(現地案内板)
 この寺は紅葉山本学寺といい、室町幕府六代将軍足利義教が永享4年(1432)に富士遊覧のときに立ち寄って紅葉を観賞したので、紅葉寺といわれている。
 建久元年(1190)の源頼朝上洛のおり、橋本に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘がのちに出家して妙相と名のり、 高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺といわれている。

この紹介文を読んだ時に気になったのは、
①なぜ寺を建てたのか?(自分の家(長者屋敷)か自分の菩提寺に供養塔をたてれば、自分の家の仏壇に位牌を置けば済む話では?)
②菩提を弔う寺のご本尊がなぜ毘沙門天なのか?(阿弥陀如来ではないのか?)
の2点であった。今はワタシ的には解決しているものの、裏付け調査をまだしていないので調査後に記事にしたいと思う。
 あと「橋本の長者の娘・妙相」とあるが、「橋本の女長者・妙相」と紹介することが多いと思う。

 石段を登りきると「紅葉寺跡」であるが、

 ──狭い・・・

とはいえ、門の跡、礎石を見ると、茅葺きの粗末な庵ではなく、足利将軍が立ち寄る程、瓦葺きの立派な建物であったことが想像される。
 正式名称は、紅葉山本学寺というが、将軍・足利義教が立ち寄って紅葉を愛でて以降、「紅葉寺(もみじでら)」と呼ばれている。

 ──そんなに紅葉が綺麗なのか? 見てみたいぞ!

実は、

 ──綺麗ではない。

葉が色づいて、「いよいよだ」と期待していると、強い海風で吹き飛ばされ、葉が赤くなることはないという。

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 以前は地蔵堂があったというが、今のお地蔵様は雨ざらしである。(「地蔵堂」って、普通は「六地蔵」じゃないの? 3体足りない。)

 歌碑がある。
  久知乃己留老木能花毛朝可世乃左曽不間尓/\散楚可奈之支

  朽ち残る 老木の花も 朝風の
       誘ふ間に間に 散るぞ悲しき

そもそも本寺・蔵法寺の寛端和尚の元歌は、
  朽ち残る老木の花も朝風の 荒(すさ)ぶ間に間に散るぞ悲しき
だという。鎌倉時代に植えられたという桜の老木──朽ちてはいるが、毎年、春になれば花を咲かせる。しかし、その花は、朝風(海風)に誘われる度に散るのか、荒ぶる朝風が吹く度に散るのか、とにかく、咲いてもすぐに散ってしまうのが悲しい。
 本歌は、水戸黄門こと徳川光圀の
  朽ち残る老木の梅もこの宿に 春に再び会ふぞ嬉しき
であろう。

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 紅葉寺は、将軍たちの供養のために建てた寺である。したがって檀家は存在しないが、墓はある。13基のお卵塔(無縫塔)は歴代住職の墓、4基の宝篋印塔は歴代将軍の供養塔、一石五輪は高師山の山中に点在していた「橋本合戦」での戦死者の墓と思われる。
 並の人なら源頼朝の供養塔を建てるだけであろうが、橋本長者は大金持ちなので霊廟並の紅葉寺を建てたことであろう。今は墓所の雑草を取る人すらいない。今度、調査に行ったら取ってあげよう。(調査は冬に行くので、枯れていると思うが。)

2.橋本砦

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 「橋本砦」とは、「中先代の乱」の「橋本合戦」の前に高師山の南斜面に築かれた連郭式砦です。「中先代の乱」ですらマイナー(?)なのですから、「橋本合戦」「橋本砦」は超マイナーで、城マニアですら来ないようで、荒れ放題です。

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