見出し画像

『更級日記』の「猪鼻坂」

■『更級日記』

 遠江にかかる。小夜の中山など越えけむほども覚えず。いみじく苦しければ、天中といふ川のつらに仮屋造り設けたりければ、そこにて日頃過ぐる程にぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、川風険しく吹き上げつつ、堪へ難く覚えけり。その渡りして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、下りし時は黒木を渡したりし、此の度は、跡だに見えねば舟にて渡る。入江に渡りし橋なり。外の海は、いといみじく悪しく浪高くて、入江の徒らなる洲どもに、こと物もなく松原の茂れる中より、波の寄せ返るも、色々の玉のやうに見え、まことに松の末より波は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはず侘しきを上りぬれば、三河の国高師の浜といふ。八橋は名のみして、橋のかたもなく、何の見所も無し。二村の山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木の下に庵を造りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかかりたるを、人々拾ひなどす。宮路の山といふ所超ゆるほど、十月晦なるに、紅葉散らで盛なり。
 嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山 まだもみぢ葉の散らで残れる
三河と尾張となる志香須賀の渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし。

 『更級日記』は、菅原孝標の次女が書いた「日記」だと言うが、実は「回想録」であり、13歳の寛仁4年(1020年)から52歳の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。

 上の遠江&三河の道中記は、冒頭に近い部分で、13歳の寛仁4年(1020年)9月に父の赴任地である上総国の国府から京の都へ上る(帰る)時の話である。

 40年前のことを何も見ないで書いたのか、デタラメである。正しくは、

駿遠国境(大井川)→小夜の中山天中川→浜名橋→猪鼻坂高師浜→三遠国境(境川)→志香須賀の渡り宮路山→八橋→尾三国境(境川)→二村山

であるので、『更級日記』をそのまま訳すとデタラメになるのであるが、一応、訳しておく。

 (大井川を越えて)遠江国に入った。小夜の中山などを越えたのも(病気にかかっていたので)覚えていない。大変苦しかったので、天中川(天竜川)の辺りに仮屋を建ててもらい、そこで何日かの間過ごしたところ、次第に回復してきた。冬も深まったので、川風が激しく吹き上げ、寒さに堪え難かった思い出がある。天中川を渡って浜名橋に着いた。浜名橋は、(数年前に上総国へ下った時は)「黒木」(辞書的には「樹皮のついたままの丸木」であるが、ここでは「表面を焼いて炭化させるという防虫処理をした木」)の橋であったが、今回は跡さえ残っておらず、舟で(浜名川を)渡った。浜名橋は、入江(「入り江」ではなく、「河口」であり、「帯の湊」と呼ばれていた)に渡した橋である。外海(遠州灘、太平洋)は、大変荒く、波は高く、入り江の何も無い洲に、ただ松原だけが事も無く茂っている中、波が寄せては返すのも、様々な玉のように見えて、(『古今和歌集』に「君をおきてあだし心をわがもたば 末の松山波もこえなむ」とあるように)本当に波が松の木の先端を越えてしまうように見えて、たいそう趣深かった。浜名橋跡の上手は、猪鼻坂で、何とも言えず侘しい坂を上れば、三河国の高師浜である。八橋は名が残るだけで、橋の跡も無く、何の見所もない。二村山の山中に泊まっている夜、大きな柿の木の下に庵を建てたところ、一晩中、庵の上に落ちてきた柿を人々が拾っていた。そういえば、少し戻るが、宮路山を越える時、十月末日であるのに、まだ紅葉が散らず、盛りであった。
・嵐は吹いて来なかったようだ。紅葉が散らないで残っている。
 そう、そう、面白い名があった。三河国と尾張国(ではなく遠江国)の国境(正確には「志香須賀の渡り」がある豊川の東の境川が国境)である「志香須賀(しかすが)の渡り」である。(「しか、すが」は「そうではあるが、しかしながら」という意味であり、『中務集』に「行けばあり行かねば苦ししかすがの渡りに来てぞ思ひわづろふ」とあるように、「渡り」であるにも関わらず)「渡るべきか、渡らざるべきか」と思い煩われる名であることが面白い。

以上です。

それにしても、まだ宿場町が形成されていなかったのでしょうか?
・天中川の辺りに仮屋を建てて
・二村山の大きな柿の木の下に庵を建てて
って、今で言うなら「テントを張って寝た(キャンプした)」って感じでしょうか? 今の『ゆるキャン△』のようなレジャーとは違いますが;

◆参考サイト:『更級日記紀行』
https://sarasina.jp/

■明応大地震前の橋本宿(後の新居宿)

(1)橋本宿の絵図

画像3

画像6

 橋本宿(猪鼻駅)の絵図はたくさんあります。「たくさん」と言っても、原画は1枚で、他は写しのようですが。
 『万葉集』の「安礼の崎」を新居の崎「卯の鼻」だとしたのは江戸時代の国学者なので、橋本宿(猪鼻駅)の絵図は、江戸時代に、明応大地震以前の様子を想像して描かれた絵図でしょう。(それとも昔の絵図を江戸時代に写し、「安礼の崎」「角杙」と書き込んだのか?) 
 
・「猪白毘古」(猪鼻湖と猿田比古の混同?)は「猪鼻古」(猪鼻湖神社)の間違いでしょう。「麿」を「麻呂」、「鹽買坂」を「鹽見坂」とするような、縦書き特有のミスです。なお、式内小社・猪鼻湖神社は、猿田彦命を祀る神社です。

・「角杙」は「式内大社・角避比古神社」でしょう。(「角避比古神」はスサノオ尊の異名とされますが、角杙神&活杙神でしょう。とはいえ、『延喜式』では2座ではなく、1座になっています。)浜名川の水門(砂洲)の神を祀る「角避比古神社」は高師山にありましたが、明応大地震の山崩れで倒壊し、今切湊に「湊神社」として再建されました。絵師はそれを知らず、今切湊の湊神社がある位置に「角杙」と書き込んだようです。

(2)橋本宿の神々

画像5

 建御名方命&八坂刀売命は諏訪神です。諏訪神は、角避比古神を祀る高師山(徒歩坂を登った山)の隣の高師山(諏訪山)に祀られていたそうですが、どちらも明応大地震の山崩れで倒壊しました。後に諏訪神は諏訪上下社、角避比古神は湊神社に祀らました。
 「彌和山」は「やわやま」ではなく、「みわやま」(三輪神=大物主命)では?

ここから先は

1,385字 / 4画像

¥ 100

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。