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「中先代の乱」

「中先代の乱(なかせんだいのらん)」とは、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児・北条時行(中先代)が、諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱であり、建武2年(1335年)7月の挙兵~8月19日の鎌倉撤退までをいう。

・北条時行は、「先代」(北条氏)と「後代」(足利氏)の間にあって、20日程、一時的ではあるが、鎌倉を支配したことから「中先代」「廿日先代(はつかせんだい)」と呼ばれている。

 鎌倉幕府滅亡後、「建武の新政」により、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子・成良親王を長とし、足利尊氏の弟・足利直義が執権として補佐する「鎌倉将軍府」が設置されたが、建武政権は武家の支持を得られず、信濃国に潜伏していた北条時行は、御内人であった諏訪頼重らに擁立されて挙兵した。

 建武政権は、反乱軍5万は、木曽路を通って尾張国を通って京都を襲うと考えていたが、反乱軍(北条時行軍)は、7月18日に上野国、7月22日に武蔵国へ入り、鎌倉に向けて進軍し、
・女影原(埼玉県日高市)で鎌倉将軍府の軍を撃破
・小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で今川範満軍を撃破
・武蔵府中(東京都府中市)で下野国守護・小山秀朝の軍を撃破
・井手の沢(東京都町田市)で足利直義軍を撃破
と連戦連勝!
 鎌倉将軍府は、連戦連敗により、7月23日、足利直義は、鎌倉に幽閉していた後醍醐天皇の皇子・護良親王を殺害し、足利尊氏の子・足利義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を逃れた。
 7月24日、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)にて、鎌倉将軍府側は最後の抵抗を試みるが、佐竹義直らが戦死し、7月25日、北条時行は鎌倉を奪還し、鎌倉幕府の復興を目指した。

 更に北条時行軍は、逃げる足利直義を駿河国手越原(静岡県静岡市)で撃破した。足利直義は、8月2日、三河国矢作(愛知県岡崎市)で待機し、成良親王を返還した。

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