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2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』

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『どうする家康』に思う

『どうする家康』に思う

総集編(12月29日)を見た。

第1章「始まりのとき」(午後1:05~2:14)
 駿府で平穏に過ごしていた松平元康が「桶狭間の戦い」を機に、乱世の荒波にのみ込まれていくまで。
第2章「試練のとき」(午後2:14~3:24)
 徳川家康&織田信長 VS 武田信玄の戦い。そして、徳川家康の正妻・瀬名&長男・信康を巡る悲劇。
第3章「躍動のとき」(午後3:29~4:39)
 織田信長が本能寺で討たれ

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徳川家康の「堪忍」の精神

徳川家康の「堪忍」の精神

──「ならぬ堪忍するが堪忍」

という有名な格言(意味は「もう堪忍できないというところを、じっと耐え忍ぶのが、真の堪忍というものである」)の出典は不明だが、初出は薛瑄(せっせん。1464年死亡。享年76)の『読書録』の

──忍所不能忍、容所不能容、惟識量過人者能之。
(忍ぶ能はざるところを忍び、容るる能はざるところを容るる。ただ識量、人に過ぐる者、これを能くす。)

『養草(やしなひぐさ)』の

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『どうする家康』の評価

『どうする家康』の評価

※私の評価は、明日(12月29日)の「総集編」視聴後に公開します。

「偉人研究.com」代表・真山知幸氏

「偉人研究.com」代表・真山知幸氏

■『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』

徳川家康の誕生日

徳川家康の誕生日

 さて、昨日はオーソドクス以外ではイエス・キリストの誕生日でしたが、今日は誰の誕生日でしょう?(タイトルにあるから、クイズにならないwww)。

 徳川家康は、天文11年12月26日(1543年1月31日。先発グレゴリオ暦だと1543年2月10日)に生まれました。寅の年、寅の日、寅の刻生まれですが、徳川家康自身は卯の年生まれとしています。これについては、
・説①:兎では弱弱しいので虎だと発表してい

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家康、神になる。

家康、神になる。


1.徳川家康の意向○元和2年4月2日。金地院崇伝、南光坊大僧正天海、並びに、本多正純を、徳川家康は、御病床(の枕元)に呼び、「大漸(たい‐ぜん。病気 が次第に重くなること。ここでは「病死」)の後は、(遺体を)久能山(静岡県静岡市駿河区根古屋の久能山東照宮奥社神廟)に納め、法会(葬式)は江戸の三縁山広度院増上寺(東京都港区芝公園四丁目)にて執行し、位牌は三河国(愛知県東部地方)の成道山松安院大樹寺

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徳川家康の和歌と辞世と遺訓

徳川家康の和歌と辞世と遺訓


1.徳川家康の辞世
『徳川実記』によれば、徳川家康の辞世には2首ある。

辞世①
嬉やと二度(ふたたび)醒めて一眠り 浮世の夢は暁の空

 死期が近づいている。「明日の朝は目覚めないかも」と毎晩思いながら床についている。そして朝が来て、「今日も目覚めた。まだ生きている。嬉しい」と思い、安心して、「もう一眠り」と二度寝する。この世の夢は、美しい暁(夜明け、明け方)の空みたいである。【今日もまた朝を

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徳川家康は5度死ぬ。

徳川家康は5度死ぬ。

 徳川家康には「生存説」はないが、「死亡説(影武者説)」はあり、それが全て正しければ5回死んだことになる。

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『徳川実紀』にみる徳川家康の死

『徳川実紀』にみる徳川家康の死

元和2年(1615年) 1月21日、山西へ鷹狩。鯛の天ぷらを食べて発病。
          1月25日、駿府城へ戻る。
          4月17日、死去。久能山に葬られる。
元和3年(1616年) 日光に改葬される。神号「東照大権現」。

 

1.卷四十一 (元和二年正月に始り三月に終る) 

 元和二年丙辰正月元日。卯刻より黑木書院に出給ふ。御直垂なり。御太刀、御刀は、近臣是を役す。若君

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茶々生存説

茶々生存説

 豊臣秀頼、茶々、大野治長は、千姫を徳川に返し、本丸を出て蔵に潜んでいた。千姫が必死に助命嘆願するも受け入れられず、3人は自害したとも、井伊隊に銃殺されたとも。

 以上が通説であるが、生存説も2説ある。

1.茶々九州生存説
 茶々、豊臣秀頼、国松、真田信繁(幸村)は九州に逃れたという。

2.茶々関東生存説
 大坂城落城の折、秋元隊の陣中に豪華な着物を身にまとい、狂人のふりをした女性が飛び込ん

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豊臣秀頼生存説

豊臣秀頼生存説

 通説では、「大坂夏の陣」に於いて、大野治長、茶々、豊臣秀頼、国松(「国松丸」とも)、奈阿姫は、大坂城山里丸の干飯蔵に隠れ(ドラマでは本丸の千畳敷に集まり)、千姫の助命嘆願が受け入れられるのを待ったが、第2代将軍・徳川家忠が救命を拒否したので、国松と奈阿姫を逃がし、干飯蔵に火を放って自害したとする。まるで本能寺の織田信長のような死に方である。(織田信長同様、遺体は発見されていない。正確には、複数の

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豊臣秀頼の長男・国松生存説

豊臣秀頼の長男・国松生存説


1.豊臣秀頼の家族
通説では、
・豊臣秀頼と正室・千姫との子はいない。
・側室との子は、男女各1。息子・国松は斬首。(未婚であるから子はいない。)娘は(正室・千姫(徳川家康の孫)が「私が生んだ。あなたの曾孫です」と主張したので助命され)、翌年(元和2年)、出家させられて天秀法泰(天秀尼)と名乗った。(史実では、大坂城の落城後に千姫の養女になっている。尼であるから子はいない。)
以上から、豊臣家は

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豊臣秀頼の次男・求厭

豊臣秀頼の次男・求厭

・豊臣秀頼と正室・千姫との子はいない。
・側室との子は、男女各1名。息子・国松は斬首。(国松は若く、未婚であるから子はいない。)娘は(正室・千姫(徳川家康の孫)が「私が生んだ。あなたの曾孫です」と主張した(史実では、大坂城の落城後に千姫の養女になった)ので助命されたとされ)、翌年(元和2年)、出家させられて天秀法泰(天秀尼)と名乗った。尼であるから子はいない。)

以上から、豊臣家は絶えたというの

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『徳川実紀』にみる「大坂城の落城」

『徳川実紀』にみる「大坂城の落城」

 慶長20年(1615年)、徳川家康は、豊臣秀頼に対し、
・大坂城を明け渡し、大和国か伊勢国あたりに国替えするか
・牢人達を全て召し放つか
を迫った。
 4月5日、大野治長の使者が来て、国替えを拒否。
 牢人達を全て召し放つのは不可能ということで、出陣。
 徳川家康は18日に二条城。徳川秀忠は21日に伏見城に入った。
 5月6日、後藤又兵衛基次、木村重成、討死。(道明寺合戦)
 5月7日、真田信繁

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