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豊臣秀頼の長男・国松生存説


1.豊臣秀頼の家族


通説では、
・豊臣秀頼と正室・千姫との子はいない。
・側室との子は、男女各1。息子・国松は斬首。(未婚であるから子はいない。)娘は(正室・千姫(徳川家康の孫)が「私が生んだ。あなたの曾孫です」と主張したので助命され)、翌年(元和2年)、出家させられて天秀法泰(天秀尼)と名乗った。(史実では、大坂城の落城後に千姫の養女になっている。尼であるから子はいない。)
以上から、豊臣家は絶えたというのであるが・・・。


父:豊臣秀吉(1537 - 1598)
母:茶々(1569 - 1615)

正室:千姫(1597 - 1666) 徳川秀忠の娘。天樹院。
側室:伊茶、和期の方。  渡辺五兵衛助直の娘。
側室:甲斐姫、小石の方。 成田五兵衛助直の娘。

長男:国松(後の豊臣秀勝)(1608 - 1615)。母は和期の方。
次男(自称):求厭(1609- 1688)。生母不明。
長女:奈阿姫。出家して天秀尼(1609 - 1645)。母は小石の方。

※学説では、豊臣秀頼の子は、国松と奈阿姫の2人である。

2.国松(豊臣秀勝)


 豊臣秀頼の長男を豊臣国松という。『大坂陣山口休庵咄』によれば、生後すぐに若狭京極家(豊臣秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先)に預けられた後、乳母の兄である若狭国の砥石屋弥左衛門の養子となった。これは、豊臣秀頼の正室である千姫を憚ったものとみられている。

 慶長19年(1614年)、「大坂冬の陣」が起こると、常高院と共に(「京極殿御道具」と墨書した立て札を立てた長持の中に隠れて)無事大坂城に入城し、生まれて初めて父・豊臣秀頼と面会した。(長男・国松の存在は、父・豊臣秀頼ですら、この時まで国松の存在を知らなかったという。もちろん、徳川家康も知らなかった。)

 翌・慶長20年(1615年)、「大坂夏の陣」が勃発すると、落城の日の5月8日、豊臣国松は、父・豊臣秀頼と盃を交わし、乳母と田中六郎左衛門(乳母の夫)に連れられて大坂城から脱出した。その日、大坂城では、父・豊臣秀頼、茶々らが自害した。

急度申遺族、秀頼様御子様御一人は十、御一人は七ツに御成候。行方不知候に付、諸国御尋之事に候。

【意訳】緊急事態である。豊臣秀頼には2人の子がいることが判明した。1人は10歳、1人は7歳である。大坂城から抜け出し、消息不明である。直ちに全国を探し回って確保せよ。)

※徳川方は、子供の存在を初めて知って慌てた。情報も誤りである。長男・国松は10歳ではなく8歳、次男・求厭と長女・奈阿は7歳である。

慶長20年(1615年)5月15日付細川忠興書状

 徳川方の必死の捜索により、豊臣国松は、5月21日に潜伏先の伏見で捕らえられ、5月23日、市中引き回しの上、六条河原にて斬首された。享年8。(田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れたが、自ら殉死を志願して同時に処刑された。乳母は助命され。出家した。)戒名は「漏世院雲山智西大童子」。墓所は誓願寺であったが、明治44年(1911年)に阿弥陀ヶ峯の豊国廟に移された。


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