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『徳川実紀』にみる徳川家康の死



元和2年(1615年) 1月21日、山西へ鷹狩。鯛の天ぷらを食べて発病。
          1月25日、駿府城へ戻る。
          4月17日、死去。久能山に葬られる。
元和3年(1616年) 日光に改葬される。神号「東照大権現」。


 


1.卷四十一 (元和二年正月に始り三月に終る)

 

 元和二年丙辰正月元日。卯刻より黑木書院に出給ふ。御直垂なり。御太刀、御刀は、近臣是を役す。若君(時に十三歲)、長袴を召る。同じく出まし御左の座に着給ふ。國松君(時に十一歲)、太刀目錄もて出座し、歲首の賀、聞えあげ給ひ。酒井雅樂頭忠世、披露す。國松君は、閾の內に入て、御右の方に着せらる。其の時、井上主計頭正就、御盃持出、水野監物忠元、吸物を持出、捨土器は主計頭正就もち出る。御所の御酌は、正就。御加は、監物忠元役し、若君へ御盃進らせらる。若君、召上られ、御加ありて、もとの御座へ復し給へば、雅樂頭忠世、其御盃をとりて、三方に載て、御前に奉る。其とき、若君、御中座ありて、謝し給ひ、まかんで給はんとする時、御手づから御肴進られ、拜受し給へば、御所、御加ありて、其御盃を國松君につかはさる。國松君、御加ありて、その御盃を持ながら、御次へまかでらるゝ時、土井大炊頭利勝、その御盃をとりて三方にのせ、御酌の役へわたす。御所、其御盃とらせ給ふ時、國松君、中座して謝し給へば、時服纏頭せらる。國松君、復座の時、御加ありて、御銚子を納め、吸物を徹し、若君も國松君も次第にまかで給ふ。次に、御所、白木書院に出ます。尾張宰相義直卿、太刀目錄捧げ拜せらる。大炊頭利勝、披露す。次に、遠江宰相賴宣卿、拜せらる。次に、水戶少將賴房朝臣、次に、越前宰相忠直卿、次に、加賀少將利常、松平武藏守利隆、拜謁し、御盃は正就、御引渡は忠元、御捨土器は森川出羽守重俊、役し、三家の輩、次第に御盃つかはされ、時服纒頭せらる。宰相忠直卿以下御加はなし。時服、各纏頭ありて、もとの座へ歸る時、忠元、正就役し、御雜煎奉る。着座の輩へも、雜煎給はり、又、御盃を三家各給はり、忠直卿、利常、利隆は、巡盃にて御銚子を納め、次に、兎の吸物を奉り、着座の人々へも賜ふ。又、御盃給ふ事、始のごとく、はてゝこの輩退く。次に、侍從以上普第衆、太刀目錄もて拜賀す。松平伊豫守忠昌、松平出羽守直政、松平甲斐守忠良、松平隱岐守定勝、酒井雅樂頭忠世、土井大炊頭利勝、安藤對馬守重信、永井信濃守尙政、靑山大藏少輔幸成以下、各太刀目錄持出て、拜謁す。御盃幷時服かづけらる。次に、大廣間に出まし、忠世御、障子を開く。御次に、普第大小名、諸番頭、近習、外樣三千石以上の徒、法印、法眼の醫官、太刀目錄前に置て拜賀し、布衣以上の諸有司、寄合衆、書院番、大番、扈從人等、一同に拜謁し、忠世、披露す。次に、上段につかせ給ふ正就、忠元、御盃、御引渡、持出、御加あり。松平和泉守家乘、松平主殿頭忠利、松平伊豆守信吉を始、諸大夫の輩、法印、法眼の醫官等まで、御流れ給はり、時服かづけらる。次に、布衣以上諸有司、番士、同朋等までも御流給はり、次に、板緣にて幸若觀世等も御流を拜戴し、後奥に入らせ給ふとき、大廊下にて、高家、幷、諸國由緖の輩、久志本左京亮常衡拜し、白木書院次にて小姓組の番士拜し、其緣にて後藤本阿彌、吳服所、官工商。狩野一統の畵工等、捧物して拜し、阿部備中守正次、披露し、次に、同所溜にて伏見勘七郞長景、拜し、黑木書院の勝手にて御膳奉行右筆等拜し、終て、白木書院の緣にて、正就、忠元、重俊の三人へ時服を賜ふ。次に、大廣間の三間にて、在封の輩名代の使者老臣に謁し、太刀目錄を献ず。正次、重俊、忠元、內藤若狹守淸次、松平越中守定綱、新庄越前守直貞、高力左近大夫忠房等の奏者番是を請とる。今年はじめて拜賀のともがら、烏帽子、直垂、狩衣、大紋を着し、其以下、素襖着しまうのぼる。この夕、雅樂頭忠世、大炊頭利勝を御前にめされ、「江城、駿府、年中諸節の禮儀いまだ全く備らず。よて、昨年より會議して定らるゝ所の儀、今日より始め行はるれば、當家歷世の永式となすべき」よし面命せらる。駿府に於ては、江城よりの御使某、新年を賀し奉る。其外、出仕の輩あり。(今年よりして江城にをいて諸禮儀行はれ、駿府は全く畧禮を用ひ給ふと見えたり。)松平五郞左衛門忠次、從五位下に叙し、式部大輔にあらたむ。松平三郞次郞康盛も、叙爵して、右京亮に改む。〔『駿府記』『元寬日記』『東武實錄』『武德編年集成』『家忠日記』『寬永系圖』『坂上池院日記』〕
○二日。大広間に出ます。御太刀、御刀の役、昨日の如し。松平宮內少輔忠雄、淺野但馬守長晟、松平長門守秀就、細川越中守忠興、森右近大夫忠政、松平阿波守至鎭、立花左近將監宗茂、宗對馬守義成、鍋島信濃守勝茂、太刀目錄もて拜す。井上主計頭正就、御引渡、持出て、水野監物忠元、御捨土器もちいで、各次第に御盃給はる。忠元、御酌、正就、御加の役すときに、時服纏頭せらる。次に、佐竹右京大夫義宣、伊達遠江守秀宗、黑田筑前寺長政、京極若狹守忠高、太刀目錄もて拜し、御盃下され、時服かづけらる。(少將は臺、侍從は廣蓋。)次に、喜連川左馬頭賴氏、太刀目錄持出て拜し、酒井雅樂頭忠世披露す。時服は、御次にて下さる。次に、障子開て、諸大夫の輩、太刀目錄前に置て拜し、御流下され、時服給はる。次に、畠山下總守義眞、前田大和守利孝、時服かづけられ、其以下の徒、みな、御盃賜はる。大広間より入らせ給ふとき、大廊下にて、無官の醫員、連歌師等ものささげて拜し、次に白木書院にて代官大工棟梁、落緣にて諸工人、拜す。奥へいらせ給て後在封の輩の使者、老臣に謁し、太刀目錄を献ず。舞々猿樂は、兼て、大広間の落緣に侍て、おがみ奉る。(『元寬日記』、この儀を三日とす。誤れり。今は『東武實錄』『元和年錄』に從ふ。)去年は「大坂の再乱」により、謠曲始の式を停廢ありしが、この春は舊に復し行はる。よて、酉刻、長袴めして、大広間に出給ふ。近臣、御刀の役す。尾張宰相義直卿、遠江宰相賴宣卿、水戶少將賴房朝臣、拜、謁せらる。御次には、左松平安房守信吉、松平甲斐守忠良。牧野駿河守忠成、右小笠原右近大夫忠眞、松平丹波守康長、松平外記忠實、設樂甚三郞貞代、着座す。その時、初献の御盃、御引渡、御捨土器、御前に奉り、三家、幷、着座の輩へも引渡、供す。時に御盃御、加ありて、宰相義直卿へ賜ふ。義直卿、其御盃とりて退らるゝ時、酒井雅樂頭忠世、其御盃をとり、御酌の役にさづく。其御盃をとらせ給ひ、召上られて、宰相賴宣卿に賜ふ。其御盃もて、又、少將賴房朝臣へ給ふ。その儀、皆、上に同じ。次に御酌の役かはりて、賴房朝臣の前なる御盃をとり、御次伺候の輩へ、南より始て、千鳥がけに御酒を酌す。次に、二献の御盃、御吸物を奉り。三家、幷、着座の人々にも供す。義直卿はじめ賴宣卿、賴房朝臣、次に、着座の輩に御酒給ふさま、初献のごとし。次に、三献。蕗の臺星の物持出て、御盃とらせ給ひ、御加の時、酒井雅樂頭忠世、出て、「謠曲始むべき」よし令し、觀世左近、「四海波靜にて」と謠ひて御加あり。其御盃を義直卿に賜ふ。其御盃酬給ふ間に。老松の囃子あり。次に、賴宣卿賴房朝臣へ御盃給はり、御肴つかはされて後、御通りになり、蕗の臺を徹す。次に、三家、幷、國松君より進らせらるゝ臺、持いづる。雅樂頭忠世、披露し、御座の左右に置。四献は、義直卿より献ぜらるゝ臺の盃にて、めしあげられ、義直卿に給ひ、二銚子にて、御通りになる。五献に賴宣卿より献ぜられし臺の盃にて賴宣卿にたまひ、六献に賴房朝臣よりの臺の盃にて賴房朝臣に給ふ。此時、また二銚子にて、御通りになる。忠世、諸大名より献ずる臺を、西板緣にならべ置て披露す。七献に、中段に供せし臺の御盃にて、越前宰相忠直卿へ給ひ、八献に、松平出羽守直政、九献に、立花左近將監宗茂、十献に、井伊掃部頭直孝を召て御盃下さる。此間に高砂の囃子はてゝ、御通りの銚子を納む。時に、忠世廣庇に出座し、猿樂等に時服、纏頭す。次に、松竹の臺いでゝ、また御銚子進り、御加の時、「弓矢の立合」を舞ふ。この舞終るころ、御加ありて、御銚子を納む。時に忠世、御前に參り、御肩衣を給はりて、觀世左近に纏頭す。この時、「各肩衣、脫べき」よしを忠世つたへて、三家をはじめ、陪宴の輩、各肩衣を脫て猿樂大夫に纏頭し。猿樂にも諸大名献ぜし臺にて御酒給ひ、折紙を下されて衆皆歟抃して退出す。〔『元寬日記』『東武實錄』〕
○三日。白木書院に出まし、國持の長子、無爵の徒、各太刀目錄もて拜賀し、次に、無爵の大名、廊下溜にて拜謁し、其後、座に諸大名の證人、幷、井伊兵部少輔直好、松平式部大輔忠次、奥平九八郞等の家臣等、拜し、次の板緣にて、江戶、上京、下京、大坂、奈良、堺、伏見、大津、淀過書、銀座。朱座の徒、拜し奉り奥へ入らせ給ふ。この日、京に新正の賀物進らせ給ふ。禁裏へ銀百枚、蠟燭千挺、仙洞へ銀五十枚、蠟燭五百挺、女院に銀五十枚、女御にも同じ。長橋の局に銀廿枚、兩傳奏へ金十兩づゝつかはさる。〔『元寬日記』『東武實錄』〕
○五日。長袴召て、白木書院に出まし。叡山の諸僧、淺草寺、知樂院、山王權現の社司日吉大膳、别當最教院等はじめ、僧徒社人等、拜し奉る。又、駿府にては、大御所は、近郊へならせられ、鷹狩し給ふ。〔『元寬日記』『本光国師日記』〕
○六日。御直垂にて、白木書院に出給ふ。增上寺存應、傳通院、新田大光院、誓願寺、大願寺、大養寺始め、出家社人拜謁し、德川滿德寺、千人頭等も同じ。はてゝ禪僧の法問聞召る。此日、小出勘七郞重章、死して、其子・加兵衛重宗つぐ。〔『元寬日記』『本光国師日記』『家譜』〕
○七日。「七種の御祝」あり。この故事、兼て、諸儒、陰陽の徒、諸僧等に會議せしめ、京都へも御尋問ありといへども、諸說紛々として、一定せざるをもて、古來流例のまゝ「七種の粥」を供せらる。京、鎌倉五山、幷、「僧錄司の座班等、すべて足利將軍家の故例を用ひらるゝ」よし令せらる。「月次朔望の儀」は、舊例のまゝたるべしとなり。〔『元寬日記』〕
○九日。小姓・川口左門正武、去年の戰功により、新に五百石たまふ。〔『萬世家譜』『寬政重修譜』〕
○十日。土井大炊頭利勝、駿府へまかり、けふ歸り、謁す。大澤兵部大輔基宥、暇給はり、京へ御使す。〔『本光国師日記』〕
○十一日。伊豆國泉頭の地に、大御所、「莬裘を御經營あらんため、十五日、駿府を出まさん」の御あらましなりしが、「泉頭は、地景もしかるべからず」とて、此儀、停廢あるよし仰まいらせらる。また、船主・彌七郞に交趾渡海の御朱印二通、唐商は、うへ東京渡海の御朱印、三官へ、交趾渡海の御朱印を下さる。又、久貝忠左衛門正俊m目付となる。〔『本光国師日記』『御朱印帳』『家譜』〕
○十二日。大御所、田中に鷹狩し給ふ。〔『榮松錄』〕
○十四日。內藤主稅助信廣、叙爵して東市正と稱す。〔『家譜』〕
○十五日。月次出仕、例の如し。
○十九日。松平宮內少輔忠雄、從四位下に叙し、侍從に任ず。(備考系圖、廿三日とす。)藤堂和泉守高虎が子・大助高次、從五位下に叙し、大學助と稱し、加藤左馬助嘉明が二男・民部明利も叙爵して、民部少輔とあらたむ。駿府にては、群書治要活板の事仰出され、儒役・林道春信勝、幷に、金地院崇傳より、其の旨を京職・板倉伊賀守勝重につたへしめらる。この日、振姬君を淺野但馬守長晟がもとへ入輿せしめ給ふ。〔『家忠日記』『東武實錄』『寬永系圖』『本光国師日記』〕
○廿一日。駿府にては、大御所、田中へ放鷹し給ふ。宰相賴宣卿、少將賴房朝臣も陪從せらる。しかるに、俄に御心地例ならず、なやみ給へばとて、醫官片山與安宗哲御藥を奉る。落合小平治道次は、御狩塲より、この事、告奉るため、四十五里の行程を、十二時が間に、江城に參着し、面謁し奉る。よつて、その速なるを褒せられ、金時服をかづけ給ふ。〔『本光国師日記』『家忠日記』〕
○廿二日。駿府にては、「大御所、田中の御旅館にて、御違例なり」と聞て、在府の輩、みな、田中に馳參す。「昨夜、御藥のしるしわたらせ給へば、廿四日には駿府へ還御あるべし」と仰いださる。駿府老臣より急脚もて、この事を江城へ告奉る。〔『本光国師日記』〕
○廿三日。江城より、靑山伯耆守忠俊をいそぎ駿府へつかはされ、御けしきうかゞはせ給ふ。この頃、上野介忠輝朝臣は、駿河の八幡に旅宿ありて、駿府の女房、達生母、阿茶の局等により、身の罪を、樣樣陳謝せられしかども、大御所、更に聞召入られず。〔『元和年錄』『元和日記』〕
○廿四日。駿府にては、「大御所、御惱いさゝか御こゝろよくならせ給ふ」とて、府城に還御あり。〔『家忠日記』〕
○廿五日。江城より、安藤對馬守重信を駿府に御使して、御病躰をとはせ給ふ。此日、松平甲斐守忠良は、下總國關宿より、美濃國大垣城にうつり、一万石加へ、五万石になさる。「これ、大坂戰功の賞」とぞ聞えし。〔『本光国師日記』『藩翰譜』『元寬日記』〕
○廿九日。土井大炊頭利勝を駿府につかはされ、御けしきをとはせたまふ。このほど、安藤對馬守重信をして御看侍の爲つかはされしが、猶、御心もとなく思召、御みづから參らせ給ふべき旨仰進らせられしに、しからば、御對面もあらまほしきむね仰つかはされ、「對馬守重信、いそぎ江戶へ歸るべし」と命ぜられ、いとま給ふ。この日、水野善兵衛宗勝、死ければ。其の子・藤太郞勝次、家をつがしめらる。〔『本光国師日記』『家譜』〕
○三十日。京都にても、主上、上皇、大御所の御不例、聞召驚き給ひ、傳奏衆より急脚もて、とはせ給ふ。このほど、醫官・半井驢菴成信、片山與安宗哲等、日夜近侍し、御藥を奉る。〔『本光国師日記』〕
◎この月代官・淺井八右衛門忠政の子・次右衛門忠保、初見す。織田長十郞高重は、駿府へ歲首の拜賀に參りしに、大御所、御覽じ、「今日、群參の中に窠の紋の士は、誰にや」と問せ給ひしかば、「織田長十郞高重」と聞え上しに、直に叙爵命ぜられ、美作守と改めしとぞ。〔『家譜』〕

○二月朔日。辰刻、江城を御出輿ありて、駿府におもむかせ給ふ。大御所、御不例によりてなり。大御所には、日ごとに御脉例ならず、ましますよし諸醫聞え上る。〔『本光国師日記』『家譜』〕
○二日。昨夜中、御道をいそがせ給ふ。けふ、駿府にならせたまひ、御對面ありければ、大御所、御氣色なゝめならず。けふ、目付・阿部四郞五郞正之、使番・朝比奈源六泰勝、肥後國目付、はてゝ駿府まで昨夜着しかば、今夜、幸に駿城にのぼり拜謁し、九州の事を聞え上奉る。〔『家忠日記』『東武實錄』〕
○三日。けふは御脉平常に復し給ふ旨、諸醫聞え上ければ、公達御方々はいふまでもなし、上下なべて喜躍する事、大かたならず。また、御所の御沙汰として、都鄙に名を得たる醫者を、俄に駿府に召あつめ、御治療を議せしめられ、また、天下の諸寺、諸山の名僧、高僧、神祇官、陰陽寮に御祈禱を命ぜらる。〔『本光国師日記』『元寬日記』〕
○四日。大御所、御病牀に藤堂和泉守高虎、金地院崇傳等を召て、御物語あり。納豆汁にて饗膳を給ふ。「御氣色、平常にかはらせ給はず」とて、衆人、皆、悅事限りなし。又、夜に入りて、京より急脚參り、主上、御氣色を御心もとなく叡慮をなやまし給ふ旨、傳奏衆よりきこえ進らす。攝家宮門跡月卿雲客とりどり使奉り、御氣色うかゞはる。〔『本光国師日記』〕
○五日。このほど、御所は、駿府の西城を御座となされ、大御所、御氣色をはからはせ給ひ、時々、本城へならせられ御看侍ありて、又、西城へかへらせらる。〔『本光国師日記』〕
○六日。大御所、さきに命ぜられたる群書治要、けふ、御病間に、金地院崇傳を召て、いよいよ活板の事、仰出され、「挍正のために、五山の僧、一山より二人づゝ召寄べし」と面命し給ふ。崇傳、書簡もて、兩御所うるはしくわたらせ給ふよし、江城留守の老臣・本多佐渡守正信へ傳ふ。〔『本光国師日記』〕
○七日。八幡豐藏坊、御祈禱符籙を駿府へ献ず。〔『本光国師日記』〕
○九日。近衞右大臣信尋公急脚をもて、大御所、御けしき伺はる。多賀不動院より、御祈の札を献ず。〔『本光国師日記』〕
○十日。南都大乘院門跡信尊、御祈の符籙進らす。鎌倉鶴岡よりも同じ。〔『本光国師日記』〕
○十一日。叡山より御祈禱札を献ず。〔『本光国師日記』〕
○十四日。愛宕山威德院福壽院より札を奉る。松平伊豫守忠昌がもとに寄寓する宇都宮三郞左衛門朝末、病に臥し、召ども起事を得ず。金百兩、米千俵を賜はる。〔『本光国師日記』『武德編年集成』〕
○十五日。庭田中納言重定卿、急脚もて、八宮(後陽成院皇子。大御所御猶子)、殊更、御心もとなく思召旨を聞え上る。〔『本光国師日記』〕
○十六日。飛鳥井中將雅宣、急脚もて、「父・大納言雅庸卿、去年十二月廿二日卒去」のよし聞えあぐ。〔『本光国師日記』〕
○十九日。廣橋大納言兼勝卿、西三條大納言實條卿、駿府へ參向あり。〔『本光国師日記』。『御鎭座記』「十七日」とす。〕
○廿一日。生駒左近將監正俊、大坂城修理のため、大角石栗石を献ぜしによて、御判書を賜ふ。〔『家譜』〕
○廿二日。大御所、御けしき、甚煩はらしく見え給ふ。松平陸奥守政宗、駿府へまかり、日々まうのぼり、御けしき伺ふ。〔『本光国師日記』『貞享書上』〕
○廿三日。勅使・廣橋大納言兼勝卿、西三條大納言實條卿、まうのぼり、奥にて、大御所、御對面あり。直に西城にいでゝ、御所にも對面せさせ給ふ。〔『本光国師日記』〕
○廿五日。生駒左近將監正俊、從四位下にのぼせらる。松平外記忠實を駿府に召て、「此節、中山道より潜行して上洛し、伏見城三年勤番すべし」と仰付らる。〔『武家補任』『貞享書上』〕
○廿八日。勅使の兩卿、外殿へまうのぼらるゝといへども、御對面の儀なし。〔『本光国師日記』〕
○廿九日。尾張宰相義直卿、遠江宰相賴宣卿、少將賴房朝臣、幷に、越前宰相忠直卿等、日々、御所にしたがひ、御看侍に候せらる。松平陸奥守政宗、福島左衛門大夫正則、黑田筑前守長政等は、日をへだてゝまうのぼり、御氣色うかゞひ奉る。〔『本光国師日記』〕

是月、筒井次郞助政信、二百石、加恩ありて、千二百石になさる。〔『家譜』〕
○三月二日。松平式部大輔忠次、暇給はり、駿府より江戶に赴く。〔『家譜』〕
○三日。京職・板倉伊賀守勝重より注進せしは、「主上、大御所の御病躰を御心もとなく思召、大內に於て、その御祈りとて、三寳院門跡・義演延命の護摩一七日修行せられ、廿七日、結願により、竹屋左少弁光長、勅使として、卷數を二條の城に進らせたまふ。この外、加茂、春日、伊勢、八幡をはじめ、諸社より御祈禱の卷數も、京職のもとに納めたり」とぞ。
 今日、野田左衛門大夫弘朝を召て、采邑五十石給ふ。こは故、「古河の足利氏の遺臣なり」とぞ。〔『本光国師日記』『家譜』〕
○四日。佐久間備前守安次が子・民部少輔勝宗、卒す。時に廿八歲。上林德順勝永が子・又次郞勝盛家をつぐ。〔『家譜』〕
○五日。醫官・片山與安宗哲、御藥の事により、御けしきにたがひて信州諏訪高島へ謫せらる。この頃は、半井驢庵成信友竹等、日々診脈せしめらる。〔『本光国師日記』〕
 世に傳ふる所、この日、大御所、御けしき、こと更重く見えさせ給ひしかば、阿茶の局、御側にありしが、御けしきをうかゞひ、上總介忠輝朝臣の御事、御かうじゆるさせ給ひ、御對面もあれかしと、しきりになげかれしを聞召、少將が容貌氣質、ものゝ用に立べき者と思ひつるに、去年、大坂にて、以の外。軍事に怠り、敵の旗をも見ず。其の上、將軍の家人を途中に於て私に誅し、其の事聞え上ず。「我、世にあるほどさへ、かくのごとく無禮ふるまふおこの者、我なからん後は、いかなることなし出さんもしるべからず」と、御淚ぐませ給ひしかば、局も詞なくて退き、其のよし、文かきて朝臣のもとへ送らる。朝臣も、ことに驚き、此の際に及び、かく御勘氣かうぶらせ給ふことを深く歎給ひしかど、御免の沙汰もなし。この後、終に伊勢國朝熊にうつらせられしも、「御遺言なりし」とぞ聞えける。〔『斷家譜』『藩翰譜』『元寬日記』〕
 この日、小島源左衛門正重、死て、其の四子・源左衛門正利家をつぐ。〔『斷家譜』〕
○七日。女御より大乳人、女御より、帥の局、駿府へ參向す。大御所、御氣色うかゞはんためなり。日下部五郞八宗好、宇治採茶使にさゝれ暇給ふ。〔『本光国師日記』〕
○八日。御手洗越前正吉、死して、其の子・彥右衛門正久、家つがしめらる。〔『斷家譜』〕
○十日。直江山城守兼續へ、「律令、群書治要挍正の事により、藏書を進覽すべき」旨、金地院崇傳より傳ふ。〔『本光国師日記』〕
○十二日。伊丹彌右衛門義虎、死して、子・彌五右衛門勝忠、家をつぐ。〔『家譜』〕
○十四日。妙法院門跡常胤法親王、使もて、御所の卷數捧らる。〔『本光国師日記』〕
○十五日。大森半七郞好長に、二百石、久松惣太郞定德に、三百石加恩せらる。去年、大坂の戰功によりてなり。〔『寬永系圖』『家譜』)
○十六日。一乘院門跡尊勢、御祈の卷數參らす。〔『本光国師日記』〕
○十七日。大御所、太政大臣御昇進の事、先にも大內よりうちうち其旨もらし聞え給ひ。京職よりも聞え上けれど、かたく御辭讓のみわたらせ給ひしが、こたびは、御老病不起の御症なるべきよし、主上も、院も、こと更叡慮をわづらはし給ひ、「さらば、此の際におよび、せめて今一しほ長上極官宣下ありて、年頃の大勳にむくはせ給はん」との叡慮にて、今度、兩傳奏をさし下され、あながちに其の叡慮を仰遣らせ給ひしかば、「さのみいなみ給ふもかへりて恐あれば、詔のまゝに受ひかせ給はん」との御事なりしかば、兩傳奏より急脚もて、京へ其のよし奏聞をとげ、「宣命使以下、片時も早く、駿府へ參向すべき」旨をつたふ。〔『本光国師日記』〕
○十八日。西大寺、藥師寺、菩提山寺、相國寺より使もて卷數を献ず。松平下野守忠鄕の藩臣・蒲生源左衛門が子・源三郞、其の弟・源兵衛、幷、蒲生忠左衛門と同藩・町野長門守幸和と確執の事おこり、藩中、雙方引分れ、訴論やまざるよし、大御所、聞召、忠鄕、御外孫の事なれば、こと更、御心をなやまされ、御病中といへども、双方を城中に召、决せられしに、幸和、終に非據に决しければ、源三郞、源兵衛、忠左衛門等は采地を增加せられ、幸和は遠謫せられ、又、先に忠鄕の家を立退し蒲生三郞兵衛、外池信濃は、召返さしめらる。この日、保田甚兵衛宗雪、大御所に初見し、仰によりて父・甚兵衛則宗が家をつぐ。〔『本光国師日記』『元寬日記』『寬永系圖』〕
○十九日。大御所、御病躰、大に御快。今朝は、御粥もけしきばかり召上られ、御行歩もすこやかに渡らせ給ふとて、上下悅びあへり。〔『本光国師日記』〕
○廿日。僧・淸韓、御諊問の事ありて、京より召れ、町奉行・彥坂九兵衛光正して獄に下さしむ。〔『本光国師日記』〕
○廿一日松平右衛門大夫正綱に加恩七百八十石たまひ。三千七百八十石餘になさる。〔『』『』『』『』『』『』『』『』〕(家譜。)
○廿三日。細川內記忠利、駿府に參着す。〔『本光国師日記』〕
○廿五日。相國宣下の口宣、駿府に參着す。〔『本光国師日記』〕
○廿六日。竹腰山城守正信に召れし御風折烏帽子を給ふ。「こたびの大禮に用ゆべきが爲」とぞ聞えし。〔『本光国師日記』〕
○廿七日。勅使は、臨濟寺の新館にやどられしかば、つとめて、本多上野介正純、草津邊に迎へて、あとよりしたがひ、使をはせて「勅使出門」を駿府に告しむ。勅使は、廣橋大納言兼勝卿、西三條大納言實條卿。行列は、中原師易、秦行兼。左右に先行して警蹕を唱ふ。次に、宣命使・舟橋淸少納言秀相、板輿にのり、布衣侍二人、白丁三人從ふ。次に、大內記某、主鈴某、騎馬。各布衣侍、二人。白丁三人、從ふ。次に、烏丸大納言光廣卿、廣橋中納言總光卿、網代の轅輿にのり、小隨身、三人、布衣侍、三人、白丁、四人。次に、四辻中納言秀繼卿、河野宰相實顯卿、同じく輿にのり、小隨身、二人、布衣侍、二人、白丁、四人從ふ。次に、柳原右大辨業光、烏丸右中辨光賢、板輿に乘り、小隨身、一人、布衣侍、一人、白丁m一人從ふ。次に、壬生官務孝亮、押小路大外記師生、出納某、各騎馬にて、白丁、三人具す。次に、唐櫃。次に、少外記師勝。騎馬にて、白丁、三人具す。次に、岡部內膳正長盛、騎馬にて後捍す。素襖着の侍、四人從ふ。次に、侍筒二百挺、騎士左右に分れて警衞す。御所には玄關に勅使を迎給ふ。勅使、常の御座所にて御對面。上段に勅使着座あれば、大御所、御病牀をもて下段にうつし給ふ。戶田式部少輔某(或は民部に作る。『重修譜』に見えず)、酒井河內守重忠、御官服を持出て御枕邊に置て退く。御座の御右に御所着給ひ、其の他、着座の公卿は御次につかる。尾張遠江の兩卿、水戶の朝臣、越前宰相忠直卿、むかひて座につかる。大外記師生、便宜の所にありて、「唯許」と唱ふる事二音。次に、少納言秀相、宣命をよむ。(こと更の叡慮あるをもて黃紙を用ひらる。)次に、左右の伶人、樂を奏す。次に、少納言秀相、微音にて侍臣をめす。宰相忠直卿、膝行してすゝみ、宣命を拜受して御座に捧げて、又、持退て案上に置く。次に、勅使、また少納言秀相をして、案に就て宣命高らかによましむ。一句讀卒ることに樂を奏す。はてゝ勅使宣命使、本座に復して後、「勸盃の儀」ありて、公卿、諸官人、みな退出す。〔『御鎭座記』『本光国師日記』〕
○廿八日。在駿の諸大名、みな府城に出仕す。在府の公卿、諸大名、御暇給はるべき旨、大御所より御所へ仰進らせらる。〔『舜舊記』『本光国師日記』〕
○廿九日。駿城に於て勅使を饗せらる。大御所、御病中といへども、御衣冠をめして出仕、諸大名の拜賀をうけ給ふ。勅使饗應の席には、御所緋、御直垂にて上段に出まし、東面の座につかせ給ふ。兩傳奏、直垂にて、次の座に南面してつかる。尾張宰相義直卿、遠江宰相賴宣卿、水戶少將賴房朝臣、共に水干着し、北面してつかる。細川內記忠利、井伊掃部頭直孝、御酌の役に候し、諸大夫の輩、配膳の役し、御膳、七五三御盃、惣金。「御三献の式」あり。初献は、御所、召上られしを、宰相義直卿に賜はり、其の御盃を廣橋大納言兼勝卿に賜られ、其の次、宰相賴宣卿、其の次、西三條大納言實條卿、其の次、少將賴房朝臣に廻りて納む。二献は、御所の御盃を賴宣卿へ給ひ。其の御盃を大納言實條卿へめぐらし、次に、少將賴房朝臣、次に、大納言兼勝卿、次に、宰相義直卿にめぐらして納む。三献は、御所の御盃を賴房朝臣、次に、兼勝卿、次に、義直卿、次に、實條卿、次に、賴宣卿にて納む。この間に拍子あり。觀世これをつとむ。「高砂」「吳服」「善界」「三番」はてて、禁裏へ銀千枚、院へ三百枚、女院、女御、各二百枚進らせられ、こたび宣下の上卿・日野大納言資勝卿、金十枚、職事・廣橋頭弁實勝、金五枚、押小路大外記師生、金二枚、兩傳奏、金●十枚、小袖三十づゝ、御所より銀三百枚つかはされ、その餘の諸官人へ、銀三十枚づゝ、かづけらる。次に、數の御土器出て、烏丸大納言光廣卿、廣橋中納言總光卿、四辻中納言季繼卿、阿野宰相實顯卿、幷、諸大名へも御盃給ふ。この日、御前給仕は、內記忠利、掃部頭直孝、酒井下總守忠正、鳥居讃岐守忠賴。御相伴の配膳は、三好備中守長直、西尾丹後守忠永、佐々木民部少輔高和、一色淡路守某、一色七郞範勝、朽木兵部少輔宣綱、役す。範勝、諸大夫にあらずといへども、名家の子孫たるゆへに、素襖を着して諸大夫と共にその事をとる。「尤規摸たるべし」とて、大御所こと更に此の列に加へらる。この日、又、和歌、管絃を催さる。和歌題は「花契多春」。
大御所、御歌、
  治れる大和の國に咲匂ふ 幾万代のはなのはるかぜ
御所の御歌、
  万代の春に契りて梓弓 やまと島根に花を見る哉
烏丸大納言光廣卿、
  東路のひろき惠に契るかな 八百万代の春の初花
廣橋中納言總光卿、
  さき初る花さへけふは万代と 東の春の香に匂ふらん
四辻中納言季繼卿、
  契るぞよこま唐土も芦原も 花になりゆく万代の春
この外、猶、あまたあり。
 樂は「太平樂」「陵王」「營翁」「春鶯囀」「安摩」。〔『御鎭座記』『創業記』『武德大成記』『東武實錄』『本光国師日記』『寬永系圖』。『御鎭座記』、この饗宴、幷に、賜物等を「三月朔日」とするは誤なり。今『本光国師日記』『舜舊記』等により、今日にさだむ。〕
この月、伊達遠江守秀宗、駿府に參覲し、大御所、貞宗の御脇指、鹿毛の御馬をたまひ、太田攝津守資家に長光の御刀、國俊の脇差を下さる。鷹役・飯田甚三郞某、「常に心いれ、つかふまつる」を稱せられ、御前にめして金をたまふ。松平石見守重、綱所領駿河の久能より下野國烏山城にうつり、加恩ありて、二万八百石になさる。これ、去年、難波の戰功によりてなり。新庄越前守直定の二子・內匠直之助、初見す。此のほど、松平陸奥守政宗、日々まうのぼり、御けしきうかゞひ奉りしに、或日、御病牀御蒲團の上まで召れて、「いまよりのち、いよいよ將軍家の御事、賴み思召」むね仰事あり。御形見のためとて、淸拙の墨蹟を給ひしかば、政宗、感謝にたえず、落淚して御前をまかで兼しとなり。〔『東武實錄』『寬永系圖』『貞享書上』『武德編年集成』『寬政重修譜』〕

2.卷四十二 (元和二年四月に始り六月に終る)

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