「できない」を認めた先にあるもの
おはようございます。またもや5時に目覚めました。
(そして次の日にも書き加えてすごい文章量になりました)
この前書いた記事について、さらに気づきがあったから、続きを書いてみようと思います。
やっぱり色々考えてみたが、ひとりだと限界がある
これを書いたのが10月のあたま。
そして今は11月。あれ、時間経つの早すぎません…?
「できない」を認める勇気について、色々思うことがあった。
自分が持っている謎のプライドは、「自分で全部やらないといけない」という価値観から来ていると思う。
社会人あるあるのひとつ、「分からなかったらなんでも聞いてね」を信用しないやつです。
いや、自分で考えて分からんから、聞いてんのに…なんで?っていう。
それで頭を抱えて一人で考えていたら、「なんで聞かんの?」って…(いや、そのさじ加減が分からんからこうなってんのよ…)
まじで、これを上手くやれる人は全員天才に見えるね。ほんとにもう。笑
気づけば休職期間も過ぎ、退職になり、フリーな身になったけど。
まぁーーー、分からんことが多い。
お金やら、体調のことやら、事務的な話とか、色々と。何回も言うけど、分からんものは分からんのです。
なんか思い返してみれば、なんで全部自分で出来ると思ってたんだろう?って感じだわ。
一人だとマジでなーーんもできん。限界しかない。
もう、真面目だし、自分でめっちゃ準備するのはいいとして、それでも潔く聞くのは大事よな。
おかしな話で、営業電話っていうの?法人っていうのか、コールセンターで話するときも遠慮して、分からないことを聞かないで遠慮しちゃうときあるし…
営業受けるときも、あんまりがっついていかないタイプなんだよな。
だからいざ自分が営業する側になって、「いやめっちゃ聞いてくるやん、毎日電話してくるんかーい」って感じたときに、違和感はあった。
そんな人もいるんだなぁと。
クレーム入れてくる人の気持ちなんて全く分からなかったし。(今もあんまり分からん)
怒るのめんどいし、疲れるし、よく目の前で暴言吐けるよな〜って見てた。
少しずれたけど…
別に些細なことでも聞けばいいじゃんってなった。最近になってようやく。
実際やってみると意外にハードルは低いもので、すんなり教えてくれるもんだよ。
発信でもいいし、直接言ってもいいけど、今の自分なら直接言ったほうがいい気もする。
「これ分かる人教えて」って発信しても、あんまり効果なさそうだし…
頼られて嫌な気持ちになる、そんな人もあんまりいないような。(そもそもそんな人と深く繋がっているなら、それは変な話だと思う、仕事なら別だけど)
いや、ようやく知ったよね。一人の限界を。
周りには情報がありすぎて、(逆に)自分の中には少なすぎて、分からんことだらけよ。
全部受け入れなくてもいいから、聞くだけ聞いてみようという気持ちになった。
スルースキルないと、ただのイエスマンで振り回されて疲弊するけど、それができるならめっちゃいいよね。
今もその練習はしてる最中かな〜…
できない=悪い、できる=良いってわけでもない。
そんなことを最近は感じた。
いやーほんとに周りの人が優しすぎる…
感謝しかないですわ…
人生の大部分を占める「仕事」
仕事についての価値観も大きく変わった。
仕事は人生の大部分を占める、だから好きなことを、やりたいことをした方がいい。
理念に共感することが大事だ。
そういう人もいていいと思う。
自分は中小企業、大企業に少なからずいたから、それぞれの良さ、悪さは体感してる。
熱量持ってやる人もいるし、それなりの気持ちでやる人もいる。
仕事大好き人間もいれば、仕事とプライベートは完全に分けたい人だっている。多種多様だ。
自分は今まで、熱量持ってやっている人が良く見えて、そこまで熱量がない人は魅力的に見えてなかった。
「ありのままを受け入れましょう」というフレーズを見るたびに、ジャッジしてはいけないと思いながらも、実際にはそうしていたと思う。
自分の価値観を言い訳に使って、人間関係を悪くしていたときもあった。
なんというか、失礼なことをしていたと、今の自分は思う。(本当に幼くて申し訳ないことをした)
だいたい、そんな志のある人のほうが少ないのに、それを求めるのもおかしな話だなと。
(いや、口に出さないだけで持ってる人もいると思う。結局、自分の方が上だって優越感に浸りたいだけな気もするな…)
ジャッジ癖のある自分は(今もまだ治ってないけど)その場しのぎの人間関係がほとんどだった。
その人からもう何も得られない、面白くないって思った瞬間に、それまで仲良く見えた関係が急に終わる、そんなこともザラだった。
多分そもそも、そんな仲良くする気も、そうしたい気持ちもなかったのに、愛想よく振る舞ってた、ひどいやつだ…
縁を大切にしている人は、そんなジャッジなんてしない。
そんなね、自分のステータスとか特徴=周りの知り合い5人集めた平均とか、そんなことを考えるから変なことになるんだよな。
実際、自分の周りでそんなことは起こってない。
人間性は似てるとしても、ステータスが似ていた記憶はない。いろんな人がいるだろ?と。
経営者と関わる機会が多かったときは、その人たちが神様みたいにみえた。なんで…こんな自分のことを覚えてくれてるの?って。
なんで?
こんなやつと仲良くするメリットなんてないやんってね。お金もスキルもないのに。
もっと有能な人なんていくらでもいるでしょう…って
(ひねくれてますね〜…自分)
でも、同じことを自分はやっていたわけだ。
ちょっとルーズだったら、だらしなかったら、見たくなかった部分を見たら、すぐにあいつはダメだとか思って、勝手に偉そうにジャッジして、勝手に疎遠になってく。
しかも何がタチ悪いかって、自分もルーズなくせにそれを隠して(隠しきれてないのに)棚に上げてジャッジしちゃってるところなんだよ。
おれは悪くないってね。
完璧人間なんているわけないのに、そんなことをして生きてきた。
いや〜ほーーんとに貧しい生き方だ…
自分の周りはそんなことしてないのに、自分だけそんなことしてて。
だから周りの人が勝手に離れていって、自分は悲劇のヒロインです、って思うようになる。
まじでもったいないわ。
周りの人は手を差し伸べてくれてるのに。
もうそんなことはやめようと思った。
仕事に対しての価値観が大きく変わったって話をしてるけど、何が変わったのかと言ったら、
「どんな仕事を、どんな価値観でやっていても素晴らしい」ということだ。
別に大義なんて必須じゃない。
あったら素晴らしいとは思う。
家族のため、プライベートのため、なんでもいい。
やる気があろうが、なかろうが別にいい。
ちゃんと仕事としてやることやってるなら。
最近はそういう、なにか正しさ?のようなものが薄れていった気がする。
社会の問題に目を向ける前に、もっと大切にした方がいい人が周りにいるんじゃないか?と思った。
そこをおろそかにして、社会がどうだとか言ってもねぇ…
だってもう今の自分なら、目の前の人が幸せなら十分だもん。もはやその人が辛くても、キツくても、嬉しくても、なんでもいい。
年収が高い仕事のほうが価値があって、年収が低い仕事には価値がない。そんなこと言うなよってな。
(ああいう煽り散らすメディアに踊らされるほど、ヤワな人間じゃないけどな)
好きでやってる人いるんだから。
あえてそうしている人もいるかもしれないんだから。
仕事してる人、みんなかっこいいよ。
何もしてない自分からは、そう見えてる。
(というか休んでても、大丈夫です、なんとかなります)
周りの人はみていないようで、結構気にしてたりする(気がする)。
周りのことなんて気にするなって言われる割には、結構気にしてません…?笑
自分もそうで、結構周りの人のことは気にしてる。
言わない時もあるけど。
そんなこと覚えてたの?って言うけど、いやー覚えてるだろ笑
そんなことも多い。
いや〜みんな頑張っててマジで偉いぞ…(なんやその目線は)
マイナスになるときもあるし、前向きになれるときもある。
白黒つけようとせず、そのままの自分を受け入れられるといいよなって話。
それは自分から相手に向ける態度も同じ。
自分だけこんな目に遭って…とか、言うし思うけど、苦労のレベルなんて比較するもんじゃない。
自分にとって『たかがそんな悩み』と思うことでも、相手はすごく悩んでいることだってある。
それをジャッジするのは失礼だと思うな。
寛容に生きていきたいね。まだまだこれからです。
(周りの力を借りれば)できるようになる
もしそれでも大きなことを成したいと思ったなら、やっぱり多くの人の力は必要になる。
これからの自分はもっと周りの人の力を借りて生きていくことが必要になってくる、と思う。
他の人が困ったときに、その人を助けられるようにしておくのが、自分の仕事だ。
多くの人の力を借りてきたからこそ、その分何かでやっぱり返していきたい。
どんな分野でもいい。
社会の正解に囚われることなく、自分の心の声を大切にしていきたいと思う。
自分の周りの人は、頑張ってる人が多くて、ほんとに素敵な人が多い。
だからこそ抱え癖があるんだけど、ほんとに落ちてしまう前に、助け合えるようになることを願っている。
そういう人が落ちていって、帰らぬ人になってしまうことは絶対避けたい。
もっとね、些細なことでも話していいんだろうよ。
今の自分、くだらんことしか考えてないし。笑
(ここで書いてるのはなんか真面目になっちゃうけど!)
周りの人と助けあえば、色んなことはできるようになってくると思うよ。
みんな何かのプロだからね。
趣味、仕事に関わらず、何かしら強みを持ってるわけよ。
それを認め合って受け入れて、お互いに支えていけるといいよね。
自分の性に合っているもの
仕事をしていない今の状況を、友達や親しい人に話す機会が増えてきたんだけど、
なぜかやっぱり、自分の話をするより相手の話を聞くことが多くなる(マジでなんなんコレ)。
ふと子供の頃や学生のときを振り返ってみたとき、めっっっちゃ猫被って生きてたなーーーと思った。
今もまだ改善しようと努力しているところ。
スカした感じで振る舞っちゃうときもあり(もう恥ずかしすぎて思い出したくもない)何やってたんだろ…まじで。
「人に何か言うときはもっとはっきり言わないと」
そんな言葉を言われ、いざやってみたけど全然うまくいかんかった。
言葉が強くなるだけで暴言にしかならん。
なーーんか違うと思った。
それと、決まりきった質問ばっかりする会話がめっちゃ苦手なんだよね。
仕事だとどうしてもあるんだけど、この質問は絶対してねってやつ…(確認しないといけないから)
マジで無理。
それまで自然に話せてたのに急にできんくなる。
でも逆にラフな会話なら無限にできると思う。
質問攻めとか好きじゃないから、あんまり聞かない。
独り言みたいにオウム返しだけするときもあれば、ほぼ相槌で会話が成立するときもある。
というか、解決策求めてるときなんてほぼないんじゃないか?って思う。そっちより『気持ちわかってくれ』の方が強いような。
そういうのをさりげなく聞けるのは自分の強さだし、自分もそうしたい部分かな。
まぁ、(とくに)女性は話したい人だからね、男性諸君はとにかく話を聞くんだ。まじで。がんばろ。
何度も言うけど、自分は話を聞くのは好き。
逆に自分から話すことはあまりないから、誤解を生みやすい。
相手に直接言うと『話してくれて嬉しい』と、かなり喜んでもらえる。(自分はとてもびっくりしている)
とはいえ、その話には前提が多いから、こうやって書くことにしてるんだけど…
だいたい話してる内容、ここに書いてることが多いから。話すように書いてるし。
自分の中に複数の『居場所』を持つ
少し前から流行り始めた『居場所』について。
居場所と言っても、空間としての居場所と、感情の居場所の2つがある。
空間は、家とか職場とか、お気に入りの喫茶店とか、そういうの。
感情の居場所は、コミュニティ(人間関係)かな。
この2つ目の感情の居場所って、例えば仕事をしてるときの自分の感情とか、ゲームとかスポーツしているときの感情とか色々ある。
そこでしか体感できない感情ってあるんよね。
(『面白そう』と『面白い』は全く違う…みたいな)
自分には『居場所』がないと感じるのは、その2つのどちらかが欠けてるか、両方欠けてる場合なのかな…
一回働かない経験をすると、この両方の不足を感じるようになる。
感情はまだ動けるからいいんだけど、物質的な居場所、つまり職場が無くなったときのインパクトは大きい。
自分はなんのために生きてるんやろ…ってなる。
一貫性がある生き方は、言い換えると、オンオフが曖昧な生き方とも言えるよね。
居場所が少ないほど、失ったと感じたときのダメージが大きいと思う。
何十年も続けていたものができなくなったときとか。何年も付き合っていた人との別れとか、ね。
それを依存というのか?分からないけど、居場所は複数持っておいた方がいいなと最近は思うようになった。
前々から自分は、基本的に仕事とか成長することばっかり意識してて、そういう話しかしなかった。
それ以外は無駄とさえ思ってさえいたから、居場所は少なかったと思う。
今はあえて、それを増やしてみようと思って、色々動いている。
行ったことのないところに実際に行ってみたり、普段買わないような服を見てみたり。
普段シャワーしか浴びてなかったのを、入浴剤を入れて湯船に浸かるようにしてみたり。
スマホやPCを使えない喫茶店に行ってみたりもした。
友達と仕事以外の話もしてみた。
そしたら何故か恋愛の話が一番多かった(なぜ?笑)
話してみると意外な発見だらけ!めっちゃ面白いやん…
というか、そんな一面あったんだね…?ってなる。
いろんな感情を持てる場所を何個か持ってると気持ちが安定するような気がする。
固く言えばリスクの分散、やわーく言えば、さっきまで書いた感じのことだね。
やっぱいろんなことやると、全然知らないから気になるんよな。それで、あの人って知らなかったかな…?ってなって、聞いてみよう!ってなる。
そこから自然な会話ができるようになるんだよな…
コレめっちゃ楽しいから、これからも続けていこうと思う。
そーーんなこんなで、色々と長々と書いてみました。
結論なんてない、ただのひとりごとです。
また書きたいと思ったらやります。
満足したぁーーー…
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