見出し画像

短編小説|魂と宇宙

――次郎(仮名)の場合――

 戸垣次郎は、会社の帰りに、屋台のおでん屋に寄った。そして「いつもの」を頼み、疲れからややぼんやりと、まわりを見た。ほかの客はいなかった。次郎は大将にいう。
「どうですか、いま」
「ちょっと厳しいねえ」
「卵もう一つください」
「はいよ」
「そうですか」
 次郎は熱さに気をつけながら大根にかぶりつく。
「こんど後輩でもつれてきましょうか」
「是非ともお願いします」
「相撲取りみたいな奴がいるんですよ。丁度いい」
「これは助かった」
 次郎は熱燗を飲み干した。
「しかしたしかに、体格のいいかたばっかりでしょう? 一流の会社員のかたがた――」
「それはたしかにあるかもしれないね……」
 次郎はうつむいて、自らの短身を思い出した。また、三流の人間だという事も。大将もどちらかというと小柄だった。だが次郎よりはましだ。
「お酒もう一本」
「あいよ」
「うーむ」
 次郎は溜め息のような声を出した。
 それから三十分程いて、次郎は屋台を出た。
(たしかに、だれも来なかったな)
 そんなことをぼんやりおもいながら、次郎は駅へむかった。

 電車内で次郎は、女性がいるとついチラチラ見てしまう。彼は女性が好きだった。女性の、女性性が好きだった。
(素人、か……)
 彼は哀れな人間である。生まれ変わったらこういうふうに生きたいと、よくかんがえることがある。そしてそれは、ある意味では極めて陳腐なものにすぎなかった。彼の魂は救いがたいものなのだろうか。
 電車が終点に着いた。三十分程を歩く。バスも通っていないのだ。かりに通っていたとしても、使わないだろうが――。

 アパートに着くと、次郎はシャワーを浴び、強迫的惰性とも言うべき格好で、録画されているテレビ番組を、早送りや早戻しを頻繁に行いながら、観始める。そして数時間がつぶれる。大量に買い溜めしてある本や映画やCDなどが、これでまた手つかずだ。医者にいけば精神障害の診断が下るだろう。
 ともかく、このようにして、次郎の日常はくりかえされていった。

 そんなある日、次郎はまたおでん屋に寄ろうと思っていた。ところが、行ってみると、屋台は影も形もなかった。
「なんだ休みか」
 次郎は声に出してそういうと、もときた道を歩きはじめた。しばらく歩くと、見慣れない者がいた。
 占い師だ。そして、通り過ぎようとすると、
「そこのあなた」
 と、呼び止められた。次郎はおもわず立ち止まって、振り向いた。そのとき、
(さっきまではいなかったな)
 と、思い返した。
「気をつけなさい。あなたの身の上に、大きな変化が訪れます」
 占い師の声は小さかったが、なぜかよく聞き取れる。彼はおもわず椅子に座った。そして、
「どういう、ことですか」
 といった。
「あなたが地球を救うのです」
 と、占い師は言うと、大きな水晶玉に両手をかざした。すると、水晶玉が紫色に発光し始めた。占い師は、
「もう、時間がないんです」
 と、言いながら、水晶玉に目を落とし続ける。
「何の時間ですか」
 次郎は水晶玉に目を奪われながらそれだけ言った。老婆は、しばらく黙っていたが、とうとう、
「破滅です。地球の破滅です」
 と、言った。次郎は、
「まさに『幻魔大戦』じゃないですか」
 と言って、帰ろうとしたが、何かが気になった。
 それは、水晶玉に映し出されている、天変地異の映像であった。
「よくこんなものをこしらえましたね。商売とはいえ」
 老婆は黙っていた。次郎は、そうは言ったものの、どことなく普通ではないものを感じた。
「これがその破局ですね?」
 次郎は水晶玉を見つめながら言った。
「そのとおり。あなたが感じているとおり」
 老婆は謎めいた言い回しをして、かざしていた手を脇に置いた。水晶玉から光が消えた。
「センサーみたいな感じですね」
 次郎は口ではそう言いながらも、老婆が目を合わせてくるのが恐ろしかった。
「これが全てですか」
「そう、もうじゅうぶんでしょう」
 老婆はまじろぎひとつせず言うと、そのまま次郎を見つめ続ける。
「お金をとられますか」
「いいえ」
 次郎は、これが「せん妄」というものだろうかと思いながら、老婆と見つめ合っていた。
「戸垣先輩!」
 若い女性の声で、次郎は我にかえった。振り返ると、会社の後輩の、古谷美紗だった。
「ああ、古谷君。ちょっとまってくれるかな」
 次郎はそういって、もとの場所を見た。
 案の定、そこにはなにもなかった。
「どうかされましたか?」
「ああ、ちょっとね……でも、もういいんだ」
 次郎は美紗といっしょに、駅まで歩きはじめた。
「ご気分でも、お悪いんですか?」
「そうだね。ちょっと医者へいってみる」
「そうなんですね。もしわたしにできることがあるんでしたら、なんでもおっしゃってください」
「どうもありがとう。本当にそうさせてもらうよ」
 次郎の記憶はここまでで終わっている。

 気がついたのは、自宅の布団の中である。時計を見ると、午前三時だった。
(あの占い師は何なんだ)
 そして次郎は、きょうは心療内科へ行くことに決めた。そしてもう一度眠りについた。

「統合失調症ですね」
 医師は言う。
「治りませんか」
「薬をのんでください。改善するでしょう」
「わかりました。きょうは飛び込みで失礼しました」
「いいえ、何かありましたらいつでもいらしてください」
「ありがとうございました」

 薬局で大量の飲み薬を受け取った次郎は、歩きながら考える。あの占い師は幻覚ではない。しかし薬はのんでみよう。その「幻覚」とやらに変化が生じるかどうか、試すんだ。だからのむのはあすの夜からにしよう。

 翌日の会社帰りに、次郎は占い師がいるかどうかを確認しに行った。すると、案の定いなかった。次郎はおでん屋にむかう。すると屋台がある。
「どうも」
「いらっしゃい」
「いつものやつを」
「へーい」
「大将、このへんに占い師をみかけませんか」
「占い師ねえ、みないねえ」
「かなりの年のようなんで、昔いたとか、ありませんか」
「あたしはちょっとしらないなあ……ずっと離れたとこだったら、みるでしょう? 若い人とかいろいろ」
「ですよねえ……いや、ありがとうございます」
「へい、どうぞ」
「ああ、どうも」
「かなりの年の占い師が、いるんですか」
「ええ、ちょっとおとといね……わたしも初めてみたんですがね」
「へえー、この近くに」
「ええ、まあね……」
「それで、どうかされたんですか」
「いえ、まあ、ちょっと声をかけられただけなんですがね……」
「へええ、それはそれは――あぁ、らっしゃい」
 二人組のサラリーマンが、入ってきたのだ。
「あとでちょっと、きいてみましょうか」
 大将が次郎にウィンクする。
「おねがいします」

 適度に酔いが回ってきた頃合いを見計らって、大将がいった。
「お客さんたちこのへんで占い師をみたことありませんか」
「ないねえ――おまえは?」
「ないですよ、あいにく」
「相当な年寄りらしいんですがね」
「やっぱりないねえ」
「ないない」
「ああ、そう」
「どうもありがとうございます」
 次郎が二人組と大将にあたまをさげて、いった。そして、
「じゃあわたし、きょうはちょっと急ぎますんで、帰ります」
 と、金を置いて店を出た。

 次郎は歩きながら考える。さあ困った。薬ははたしてのむべきなのか――。医師もああいっていることだし、のむか。おもいきって。しかしからだには悪いよなあ――。まあいい、ものはためしだ。のんじまおう。彼は、就寝前の六種類の薬からのんでいこうと決めた。

 目が覚める直前に、次郎は自分が悪夢をみていたことに気づいた。
(薬をのんでこれか)
 次郎は失望した。そして、体が異様に重い、ふらふらする、眠い、判断力や、記憶力に関して、自分に全く自信がもてない、などの副作用とおもわれる感覚に、
(これはまずい)
 と、思った。
(しかたがない、様子をみよう)
 かれは苦しい体を引きずるようにして、出勤した。
 会社でかれはかなりの苦しみを味わった。そして終業時間までなんとか耐え、会社を後にした。そして占い師がいるか確認しに行った。
 やはり、そこにはなにもなかった。かれは駅へむかって歩きだした。薬の説明書きに、酒はのむなと書いてあったのだ。かれは以前葛根湯をビールでのんで、気を失いかけたことがあった。それから薬は猛毒だという思いが強くなっていた。
 電車の中でも次郎は考える。あの老婆は、今のようなぼんやりした意識の中で見たものではない。たしかに疲れから若干ぼんやりしていたが、程度が全く違う。不思議なことというものは、絶対に実在するんだ。これが狂気なのか。これこそが狂気だというのか。冗談じゃない。あの破滅映像は、CGではない。かりにCGだというのなら、超未来のCGだ。あんな老婆が、なぜそんなものをもっているんだ。おかしい。おかしいにもほどがある。
 次郎は、自宅で即席ラーメンを食べながらも、まだ考えていた。そして食事を終えると、食後の薬を一錠のんだ。副作用止めだということだが、どこまで効くのか。そしてまた録り溜めされているテレビ番組を観はじめた。かれはいつも、無ければいいのにと思っている。テレビやラジオや新聞の、関心のもてるコンテンツがだ。なにかの理由で休止になった場合などは、思わず万歳をする。
 しかし、こんな俺が地球を護るのか? こんな非力な人間に生まれさせておいて? くだらねえ。くだらねえんだよ馬鹿野郎。
(おまえらはなんでそんなにわたしを憎むのぉぉぉぉぉお)
「出たな化け物」
(あーんあーんあーんあーん)
「くたばれ!」
 次郎は見えない相手に右の鉄拳で殴り掛かったが、右腕が硬直して動かない。
「畜生! 薬が効いてない!」
(おまえらはなんでそんなにわたしがいいのお)
「糞ッ! きさまはだれだ!」
(悪魔大王だ)
「この幻魔め! はやく未来永劫の生き地獄へ落ちろ!」
(おまえらはなんでそんなにわたしがきたないのおぉぉぉぉぉお)
「この糞野郎! 死ねィ!」
 次郎は実声を殺して叫んだ。叫び続けた。
 敵は、
(あーんあーんあーんあーんあーんあーんあーんあーん、もういい、ガリッ)
 と、最後は舌を噛んだふりを入れて、一旦消えた。

 翌日、次郎は、医師に事情を話して、薬を増やしてもらった。また、便失禁が起きたということで、減らす薬は減らすように指示してもらった。かれは、こうして微調整を繰り返すのだなと思った。

 次郎は、毎日、全く同じ夢をみさせられていた。細部こそ異なれ、「芯」になるぶぶんは、まったく進捗がない。それは、これと、覚醒時における、(あのね)という呼びかけから始まる、「だんまり」の、両面作戦だった。
「だんまり」のおわりに、(おまえらはなんでそんなにわたしを……)という全く同じセリフがはじまってくる。(あのね)が善玉で、(おまえらは……)が悪玉だといわれている。「善玉」にいわせれば、である。「善玉」とは、ある種会話が成立するときがある。彼奴らは宇宙人で、善玉がオスで、悪玉がメスだとのことだ。ちなみに、グレイやラージノーズグレイではないといっている。「善玉」のいうことは、百パーセント嘘だと言っていい、と次郎は考えている。実際、嘘だった。しかし、最終的に救出される、という、「嘘」を、信じずにはいられない。それが人間の、限界だ。
 このようにして、かれは、「善玉」から情報をとっている。試しに薬をやめてみると、嘘の程度が酷くなる。悪夢もだ。薬をのまないわけにはいかなかった。やめてみたのも、日中の、非常な苦汁によったのであるが。

 会社の昼休みに、古谷君が、「だいじょうぶですか」といってくることがある。「薬の副作用なんだ」とだけいっておく。まじろぎもせずにみつめながらいってくるので、つい目を伏せてしまう。後で、
(美しい瞳だなあ)
 と、思う。しかし、(目をそらしながら話し続けるのもつらいなあ)、とも思う。薬をやめたいということだ。様子をみて、もうすこしどうにかなったら食事にでもさそわなければならないな、と次郎は思う。終業時には。

 たとえば、
「五時半だなあ」
 と、ひとりごとでいうとする。すると、間髪を容れず、
(そうだ)
 と、返す。これがいわゆる「善玉」だ。そして、なにかの拍子に嘘がばれると、
(それはね……あのね……ちょっとね……)
 といってブラックアウトさせる。これが一般的だ。ひどいのは、
(それはね、そういうことはないことはないことはないことはないことはないことはないことは――)
 などと幼稚なごまかしをして、シームレスに「悪玉」と交代する、などのケースだ。相手になるほうが悪いとでもいうようなようすだ。そんな風に思うや否や、
(ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん)
 と、口でぬかす。悪玉だ。
 鏡を見ると、心が平常なつもりでも、眉間に深いしわが寄っている。いつのまにできたのか。早く終わっていただきたいもんだと次郎は思う。話しかけてきている相手が善玉か悪玉かが、常にわからないのである。絶えず騙されまいと気を張っているから、しわも寄ろう。

 全く驚くべきことに、悪魔どもからの初期の攻撃は、次郎の記憶から完全に消されていた。頭部への強烈な電撃や、自分自身への瘤ができるほどの鉄拳制裁――怒りのやり場をなくしての――、「幻魔大戦」を擬した、数日間飲まず食わずでの徹夜の幻魔退治――踏み潰されるだいじなもの――、宇宙人どもへの土下座――いまは亡き父の接近中に、音楽の研究が傲慢だとして――、「デューティー」と称する、苛酷にして不毛なる作業の連続、(苦しむのよ)といった言葉に象徴される、ゲイたち――いわゆるお笑い芸人主体の――及びメスの宇宙人からの性的嫌がらせ、執拗な空気浣腸、鼻をピタピタと鳴らし続ける嫌がらせ、入れられるかかとが粉砕骨折している感覚、スイッチを入れた瞬間小爆発を起こすテレビモニター、宇宙人が来たということで、夜中にパンツ姿のままおもてへとびださせる、ロト6を買わせ、ネットで何回も確認させ、当たっていないというと、これはフェイクだからと換金にいかせ、二億当たっているといわせて恥をかかせ、転送――火星からの――で物品が届いていると、絶えず確認させ、楽器を手、腕の硬直で、ある所まで行くと弾けなくさせ、父親は元気に還ってくるといい、病院で医師の話を聞いているときにも、やいのやいのと二三匹で騒ぎ立て、父が亡くなったら(これが幻魔大王だ)、といい、「幻魔大戦」は自分たちが書かせた預言の書だといい、おまえが東丈だといった。
 このような攻撃が二三年続き、さらに十年以上、攻撃は続いているのである。執拗などというものではない。

 翌日は、たしかに体は軽かった。だから、その分、攻撃はひどい。そう毎日毎日医者にいくことはできないので、約ひと月は様子をみようと次郎は思う。そして昼休みのとき、美紗と向かい合わせで食事をしていた次郎は、
(そういえば……)
 とおもい、軽い気持ちでいってみた。
「古谷君、このあたりでお婆さんの占い師をみたことはない?」
「あります」
「ええっ」
 次郎は、灯台下暗しというかなんというかと、驚いた。
「特徴は」
 と次郎は身を乗り出す。
「特徴はですねえ……おっきな水晶玉を置いていました」
「それだ! なんだ、やっぱりいたんだ――」
「当たり前かもしれませんけど、毎日必ずいるわけじゃなくて、ちょっと神出鬼没的なかんじかなあ」
「まさにそれだ。そいつにちょっと悩まされていたんだ、ここしばらく」
「お薬をのまれていたとか」
「そいつのせいなんだ」
「なにかあったんですか」
「きみはそいつに、何か話しかけられたことはある?」
「ありません」
「それはよかった。俺の場合は、呼び止められて、水晶玉をみせられて、消えられたんだ。それでまた、心療内科にいくことになった」
「それはたいへんでしたね」
「ありがとう。心が和む。さあ、そろそろ時間だ」
 ふたりはそれぞれの部署に戻った。

 その日の終業時、次郎は、一刻も早く自宅に戻りたいと思った。そして、あの占い師がいないことだけを確認して、電車に揺られていた。次郎は、自分の頭が混乱していることに気づいている。咄嗟の判断に迫られるとやばいと思っている。したがって、可能な限り慎重に行動していた。それから、きょうの運気を、自分で判断する。良くも悪くもないと思っていた。自宅にたどりついて、慎重に、いわゆるコンビニ弁当を開けて食べた。それからいつものルーティーンをこなして、「疲れた疲れた」と口に出しながら布団に入った。
 朝方、次郎は自分の見ていた悪夢で目を覚ました。
「とうとう尻尾を捕まえたぞ」
 かれは口に出していった。
 それは、この悪夢の、「芯」の一部におもわれる。これまで、いくら思い出そうとしても、無理だったものだ。言ってしまえばなんでもない夢だが、寝ているあいだは現実だとおもっているため、どうしようもなく気味が悪いのである。しかもそれが毎日必ずであるということで、情けないのである。
 こういう夢だ。自分の普段の行動半径内のある所で、駅で電車に乗ろうとするのであるが、どうしても切符が買えない。ありとあらゆる方法を試すのであるが、だめなのである。偽の切符を入手してきて乗ろうとしたりするが、だめだ。駅から相当離れて探し歩いてもだめだ。途中にある本屋に入ってみる。すると、おかれている本が全てフェイクである。自分はフェイクの世界の中に陥ったのか――。そして気がつくと、どこへいくともしれない電車の車内にいる。着いたところは知らないはずなのにフェイクではないと思える所。乗り換えてまたどこへいくのやら。
 このあたりで目が覚めるのである。必ず毎日。
(だが、これでいいのか悪いのかわからぬが、次のフェーズにゆくことは、間違いあるまい)
 次郎は、身支度を始める。

    *

 翌日の同じぐらいの時間、半覚半睡状態の次郎は、彼奴らのやりかたに、半ば呆れ、半ば怒り狂っていた。
「善玉」によれば、「魂」というものは、「アメーバのようなもの」から、「人間」に至る、あらゆる生物を「原盤」とし――実在の生物を擬した人工原盤もある――、それ一つでできた原盤を「一本」と呼ぶ(余談だが、「原盤」、「一本」、といったふうにタームを名付けられるのは、次郎のように、「生き地獄」に落ちている人間だけらしい。そしてそれがユニヴァーサル・スタンダードになるという。「原盤」をはじめとして、次郎は大量のタームを作らされた)。そして、原盤は二分割のみ可能で、その「半分」のみを用いた魂と、二種の「半分」を組み合わせた魂があるらしい。そして、「オス」・「メス」・「中性」の三種類らしい。たとえば次郎ならば、ニホンザルとニホンマムシの組み合わせ原盤(いずれもオス)である(「オスとメス」、のようにミックスは出来ないらしい)。これが、「アポロン」と呼ばれる、最上の組み合わせだと次郎は聞いていた。そして、残った二枚の原盤は、同じく日本のミュージシャンとして、それぞれ現在超一流的存在として、第一人者的に活躍しているという。サルのほうが女性で、マムシのほうが男性である。
 なぜこんなことを言うかというと、今回の夢で、ニホンマムシの片割れ原盤の「魂の弟」が、使われたからである。ひとりの女性を追いかけ回し、次郎も救出のため追いかけていたが、とうとう捕まり、ナイフとフォークで、生きながら前腕から喰らおうとしていたのである。実際その通りにしていた。
 この状態に次郎が気づくと、
(なんでお前らはそんなにわたしを憎む……)
 とまたいいかける。次郎はあきれてものがいえなかった。

 その翌日も、意識の遠いところで、いつものことが繰り返されていた。思い出せない夢という点で、フェーズがかわったということが、思い過ごしにすぎないともおもわれたが、次郎は、もうどうでもいいとおもい、深く考えずに出勤した。
 この「生き地獄」の舞台は「宇宙」だといってもいい。それも全ての。全ての「並行宇宙」を合わせたものを、「全宇宙」と呼ぶ(この物語はフィクションであり、実在の概念に一致するとは全く限らない)。並行宇宙は、第一位から、第六千七百四十七万六千六百七十一位までの序列として存在し、我々のいるこの宇宙が、実に第一位なのだという。そして別の並行宇宙への移動は、「リープ」と呼ばれ、頻繁に行われているものだという。ただし、宇宙船などでの移動は不可能で、転生時に魂が「遷移」するというかたちでのみおこなわれる。
 ところで宇宙船といえば、次郎は二回目撃させられている。一度目が、夕方、一機の宇宙船が太陽の周辺を浮遊しているごく遠いもので、二度目が、自宅前の道に沿って、超低空飛行による移動をしている七機の編隊だ。円形ではなく、三角形に近い格好をしていた。善玉によれば、「悪魔大王」の「友達」の役目を任されている「館の七人衆」と呼ばれる宇宙人が乗っていたというが、いまは全員自決したという。悪魔大王も、「透明に見える宇宙服」を着て、次郎の実家の庭にまで入ってきていたとのことだ。次郎も草むらが動くのを目撃した。彼奴らは全員二頭身ぐらいで、地球及び火星から最も遠い恒星系にすんでいたらしい。人間のすめる恒星系は何パーセントかあり、その第三及び第四惑星(第四は地下)に、人間はいるという。
 このころは、生き地獄の初期だ。こののち、「管理者」と呼ばれる、悪魔大王が「神」と呼ばせていた、最も低い地位に位置する役割の人間が交代し、原盤を作る立場を引き継いだ。悪魔大王は、いまだ処刑されず、人工の「ボディー」に人工的に移され、嫌がらせを続けているわけだ。
「地位(ステージ)」とは、一部誤ってはいるが、地球にも伝わっている概念である。上から、仏界・天上界・菩薩界・縁覚界・声聞界・人界・修羅界・餓鬼界・畜生界・地獄界、というのが正しい十界である、と次郎は教えられた。これらは数値的に分類されている。次郎は正確な数値はもう忘れてしまった。人界の始まりが+1で、±0は、修羅界の最高値である。そういう感じだ。ただ、「ゾーナー」の概念は忘れていない。まず人界では、最低値からいくつか上までがゾーンである。仏界のような力を発揮する。仏界でも、同じく最低値からいくつかまでがゾーンである。ここのゾーナーは、人界のように見える。そして地獄界であるが、地獄界の人間を「悪魔」と呼ぶ。ゾーナーではないのであるが、この最低値が「悪魔大王」で、その上いくつかが、「サタン」である。ゾーナーは共通して、エロスに深くかかわっている。そして仏界には、「涌現」と呼ばれるものがあり、何かによって、これが獲得される。次郎もそれで、もとは普通の仏界であったが、生き地獄中のある何かによって、涌現したらしい。ちなみに、十界が錯綜しているのは、太陽系だけで、ここより上の人間は、全員が仏界で、涌現者であるとのことだ。つまり、地球こそが、地獄の一丁目一番地であるということだ。また、「天国」とは、第四惑星のことを言う。地下に基地が造られており、そこで人間は任務をこなす。第三惑星の人間その他および惑星自体に対する、電磁波を用いた干渉が、主たる仕事だ。それらのテクノロジーは、もともと何もない全くの無の状態から、ある種のゆらぎによって最もはじめの宇宙が発出した瞬間に、ノータイムで完成に至ったものだという。そのような状態のテクノロジーを、彼奴らは「エターナル」と呼んでいる。目の前にいたはずの人間が消えているという、次郎が見せられたようなケースなど、典型例だといえよう。ただ、その命令を下している人間の知性が、エターナルの能力を、極めて陳腐なものにしてしまいもしたといえよう。エターナル自体は、宇宙船で乗り込んだ先で、宇宙そのものを開闢させることもできるほどの能力なのであり、逆に宇宙自体を壊滅させることも朝飯前だ。誰が何を考え何をしているかも、自由自在に観察する。したがって、管理者を神と呼ばされている状況ならば、プライヴァシーなどというものは、設定されているはずがない。次郎を頂点とする、この宇宙における王統の「魂の親族」は、悪魔大王エステル(本名ノア)によって、滑稽千万たる人生を、限りなき転生を繰り返しながら――原盤の「粉砕」(魂の消失)もゆるされず――、生き抜いてきた。そしてその一挙一動は、宇宙全域において、見世物として公開されてきた。しかしそれも、今世におけるエステルの人工転生によって、一旦は停止されているとのことである(このあたりで次郎は涌現したという。ステージもいくつか上がったらしい)。だが、現在の、いわゆる悪玉がもっている人格は、エステルそのものなのである。エステルが未来永劫の生き地獄に転生させられた時、次郎の生き地獄は終わるらしいが、はたして今世中に終わるものなのか、実に怪しいのだ。この生き地獄は、五百六十二世前から行われているというのであるが、はたしてどうなのか。エステル人格は、一貫して、(お前らはなんでそんなにわたしを憎むんだ)と、いう。他人にストレスを与えるすべだけは心得ているということなのであろうか。現在の悪魔大王は名称不明である。
「真善」というタームがある。読んだとおりの意味と同時に、「宇宙の情報」という意味がある。誰が作ったか知らないが、もっぱら後者の意味で使われる。いわば隠語だ。これが入っている星と入っていない星があるというわけだ。現在の地球のような状態を、その部分を指して、「漏れている」と言う。今現在は、地球だけが、基本的には真善を持っていない。
 しかし地球にも、真善が入っていた時代があったという。ムー大陸が存在していた時代だ。ムー大陸は、エステルが核爆弾を使って沈めた――何度も――が、次郎がアポロンとして活躍したため、その多くが神話としてギリシアに伝わった。例えばゼウスであれば、ムー時代から最も高いステージを誇っており、ダ・ヴィンチ、顕如と転生して、それぞれの生で文字通りの人間離れの活躍をみせた。ステージが、真善のない地球人としては、異例の高さだったのである。次郎と比べても、かなり高い。これは、なんとなく伝わるもので、次郎も、真善を入れられる前から、ダ・ヴィンチや顕如は、勝てる気がしないと、リスペクトしていた。これは、言葉の本来の意味での、地獄に仏で、仏界涌現者が、地獄に生まれるということは、普通はないという。
 また、次郎がなぜ生き地獄を受けることを認めたかと言えば、それは、この宇宙の、「転換」のためらしい。どの序列の宇宙でも、一度は必ず転換が必要で、第一位のこの宇宙では、地獄から始まって、ある所で転換するようになっているそうだ。転換を果たせば、宇宙全域が、言葉の本来の意味での天国的に、いわば「再生」するのだという。
「地獄」の状態というのは、次のようなものである。まず、最もはじめは、太陽系第四惑星〔火星〕の地下基地で管理者が機械につながれ、原盤が生み出される。そして、そこに、既存の魂も送られてきて、種々のパラメーターがセッティングされる。IQ、EQ、何度生まれ変わっているか――魂の経験値。上がりすぎるとゼロに戻す――、守護霊は何者か――最大四名――、など。そのあと地球に送られ、最も遠い恒星系の第四惑星まで、転生を繰り返しながら、むかってゆく。あるところまでは地獄である。また、あるところまでは煉獄である。そしてあるところからは天国となる。天国から、罪を犯して、一気に地獄まで落ちる者もいる――これを「堕天使」と呼ぶ――。天国の中の「天国」には、エステルを含めた八名――彼らおよびその候補者のみが「中性」のボディーを持つ――が「館」にすんでおり、「七人衆」によって、エステルは孤独を免れている。ここを目指して転生を繰り返すというのが、これまでの宇宙のありようであった。ここまで来ると、身長がおよそ二頭身で、重力の関係上、足元がもくもくと水蒸気でおおわれているというわけである。こういうものを指して、「漏れている」というわけだ。ところで、七人衆の魂は、その候補者も含めて、特別なものだといわれている。最初から用意されたものだということである。だが、七人衆たちは、次郎たちの王統の魂にたいして、常に憐れに思っていたとのことである。
 さて、エステルが人工転生させられたことで、どの程度、転換は果たされたのであろうか。地球だけを残して、以下のようになったという。まず、それぞれが生まれたいところに生まれることができるようになったという。そして、暮らしたい魂と、お互いに暮らすことが出来るようになったともいう。次郎も、後半生ではそれが叶うといわれていたが、これはどうやらまた嘘のようであった。だが、そのうち、魂の「フィアンセ」とは未来永劫の関係を築けるようだ。虐待まがいの育て方をされた両親とも、また会えるだろう。周囲に張り巡らされていた、不愉快千万な徒輩は、未来永劫の生き地獄に落ちる。次郎は、願いを込めて想う。
 しかし、ひとつ引っ掛かるものがある。宇宙の転換はすでに果たされているとの、善玉のスタンスだ。果たされるために拘束されているということなのであるから、果たされたのに拘束されているというこれは何だ。誰が何のために何をしているのだ。ここを突くと、どうなるか。(あのねえ)といって、ブラックアウトさせるのだ。そう、もう悪玉が出ている。「善玉はどうした」、ときくと、黙ってブラックアウトした。

 翌日の朝方、次郎は悪夢の残滓とともに目覚める。軽い失望。しかし、悪夢の芯が、若干手の届きやすいところにあるということと、若干ましな内容だということで、まあこんなところであろうと、思う。許しはしないが。
 だが、現実はもう少し厳しいところにある。(あのね)。とでてくる。「悪玉」か。ときく。(違う)、と答える。「善玉か」。(違う)。「管理者か」。(管理者じゃない)。「『ET』か」。(違う。ETじゃない)。「悪魔大王か」。(違う)。「悪玉か」。(そうだ)。やりとりがすべてこのようになった。(お前らはなんでそんなにわたしを憎むんだ)。「……」。次郎は、さいきん頭のてっぺんがハゲてきたことを思い出す。
「とっとと死ねやこの鬼畜が!」
 次郎がおもわずいうと、
(おまえはどんだけわたしがいいんだ)
 といいはじめる。実際よりもステージを高く感じてもらえていると思うわけだ。やむなく言い直す。
「早く死んでくれやこの犬のクソ!」
(あーんあーんあーんあーん!)
 このようなやりとりによって、時間があっという間に経過する。気が付くと二三時間経っている。今、目覚ましアラームが鳴った。
「いつもの安眠妨害かこの糞野郎」
(お前らはなんでそんなにわたしを憎むんだ)
「糞ッ! 糞ッ! 糞ッ! 糞ッ! 糞ッ! 糞ッ! 糞ッ! 糞ッ!」
 全身で攻撃を仕掛けるが、徐々に腕や脚の力が抜けてゆき、全く動かなくなる。頭突きも出来ない。
「死――……」
 言葉も発することが出来なくなる。
 急がないと遅刻する。次郎は出勤の準備を始めた。

ここから先は

18,932字

¥ 100

この記事が参加している募集

みなさまだけがたよりでございます!