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「読書感想文」街とその不確かな壁

⚠ネタバレを含みます。

村上春樹、6年ぶり待望の長編、と前評判が盛り上がり、発売日当日の仕事帰り、つい、書店へ立ち寄った。

黒く重々しく分厚い本。
『その不確かな壁』に、この黒く重い表紙の中に、入っていく心構えをしながら。

読みはじめれば、そう、村上春樹の世界だ。
もう潜在意識に問いかけてくる。
私の脳の、ぐーっと奥の方、海馬の奥あたり。彼はいつも、そこに語りかけてくる。

ターコイズブルーの文字、図書館、影、薪ストーブ、1本の煙草と1杯のウィスキー、そしてイエローサブマリンのパーカー。

私は確かに、彼が十七歳のころに出会った「きみ」の髪の香りを知っている。あの甘やかな時間を。

そして、壁の街の図書館からの帰り道、二人で歩く静けさも。時計の針などいらない。

あの溜まりすら、覗き込んだことがあるし、冷たいあの壁に手を触れたこともある。

薪ストーブのある半地下の正方形の部屋の、親密な暖かさと、そこから出る時の諦めのような心細さも。

齧られた耳の痛さこそ分からないが、その噛み跡を見たことがある。

そうなのだ、私は『あの街』を知っている。その街での私は、実際の私ではない、わけではないのだ。ある意味では私そのもの、そしてある意味では、私の分身。

かつて、友達に
「柊?どうしたの?いるのにいない」
と言われたことがある。その友達は昔から、私の言葉以上のものを読み取る人だ。

「いるのにいない」私は、影と離れ離れだったのかもしれない。あの街に、本体を置き去りにしてきていたのかもしれない。そんなことは、私自身、見分けがつかないのだけれど。眠れない日々が続くと同時に、常に眠っている日々だった。ハルシオンとリスミーを繰り返し飲むような日々。

壁は腎臓のように変化し、色彩はコントラストを欠き、人はやけに生暖かく親密だった。私の潜在意識の中に、霧のかかった記憶が、確かにあるのだ。

読み終えるやいなや、本を、わざと音をたてて「パタン」と閉じる。
そうしなければ、うっかりとまたあの街へ行ってしまいそうな気がしたからだ。
海馬の奥の方から、深い眠りがやってくる。それは脊椎ともつながるほど深く。
滾々と眠る。

私は、「きみ」の香りも、あの街も、正方形の部屋も、知っていた。あるいは、そこに繋がる『私の街』が不確かに存在していた。

目が覚めて。
夢なのか現実なのか、あの記憶は、実際に起こったことなのか、本の中のことなのか、かつての古い夢なのか、そのどれもが尤もらしく、また譫言のようでもあった。

あの街に
もう一度行きたいかと言われたら、

いや、きっと、

今の私にはその資格がない。



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