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読書感想文的なもの① 〈いつか資源ゴミになる・改 木曜何某〉

自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴である。17音より短い作品は短律、長い作品は長律とも言う。定型の意識を保ったまま作られる字あまり・字足らずや句またがり、破調の句などと区別される。また自由律俳句はあくまで定型から自由になろうとすることによって成立する俳句であり、したがって単なる一行詩がそのまま自由律俳句となるわけではない。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/自由律俳句

要するに「俳句を書くやで」という想いを持って作ったものは自由律俳句になるってことでおおむね間違ってないと思う。

有名どころでいうと尾崎放哉の

咳をしても一人

荻原井泉水「大空」

が挙げられるかな。たしか教科書にも載ってたし。たぶん。

何はともあれそんな自由律俳句とやらの句集を読んでみて、本書で何個か印象に残った俳句を一部紹介する。

悲という字、蝶みたいだ飛んでいけ

化粧室で通じない

我流の蝶々結びのまま死んだ

待合室の匂いで患者になる

木曜何某「いつか資源ゴミになる」

単なる“あるある”と“自由律俳句”の境界線は難しいけれど確かに存在はしていて、それでも決して数学や化学のように概念化は出来ないところが美しいんだろうな。

あと、二句目と四句目を読んだときに僕は「あ〜わかるわかる、せやねんせやねん」となったんだけれどこれを読んでくれている人はどうだろう?

こういった“普通に過ごしていると見過ごしてしまう日常や感情”に気付かせてくれることも、俳句や短歌の魅力の一つだと思う。

この文章を書いている途中で、実際の歌人がどのようにして俳句を作っているのかについてのインタビュー記事を読んだことを思い出したので探してみた。

どのような瞬間に自由律俳句が生まれるのか? ――そんな質問をすると、「たとえばこの暑い時期に、ダウンジャケット着てる人がいるとする。それって、先取りして“もう”着てるのか、寒い時期から“まだ”着てるのか、気になりますよね。そういう違和感を形にしたくなった瞬間かもしれません」とせきしろさん。ネタ探しこそしないものの、「創作のスイッチは常に入れている状態」と話してくれました。

https://pdmagazine.jp/background/jiyuritsu/

これは8月の記事だから、たしかにその時期にダウンジャケットを着ている人がいたら気にはなるだろうけれど、気になり方が面白くない?(笑)
きっと普通の人なら、「暑くないんかな〜」とか「ヤバ人じゃん〜」とかで思考が完結するところを、
『それって、先取りして“もう”着てるのか、寒い時期から“まだ”着てるのか、気になりますよね。』って。
いやならんて。気付きの角度と瞬発力すごいな。
感動の種類としては霜降り明星の粗品のツッコミ聞いたときに近いかも。
これとか。

書き方チャコペンか

いやすごすぎか。

彼らが“プロ”足り得ている理由は、きっとここなんだろうなあ、と。


日常にアンテナを張り巡らせることで、モノの見え方や喜怒哀楽の質が変わってくる。
勉強でも同じことが言えるんだけれど、僕はこれを“セカイの解像度が上がる”という言い方をしてる。

たとえばこれを読んでくれた人はきっとこれから体調が悪くて病院に行ったときの待合室で、「ああそうそう、この匂いで病気になっちゃったなって思うんだよね」とクスッとできるかもしれないし、あるいはそこでまた新しい日常の気付きとの出会いがあるかもしれない。

そのときにあなたのセカイの解像度は、ほんのすこし上がっている。


いや〜〜〜俳句も短歌も粗品もおもしれーな〜〜〜〜



お腹減って文字打つのも飽きてきたしこの辺で終わろっかな。ちゃーん。

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