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ことばにできない思春期を体感する 芥川賞作家・町屋良平『しき』


大阪の梅田蔦屋書店さんにいったときに書店員さんからおすすめしていただいた、町屋良平『しき』。
『1R1分34秒』で芥川賞を受賞した作家の作品です。

おむすびポイントとしては、言葉にならない彼ら思春期のモヤモヤした気持ち、からだと言葉がうまく遭っていない感じを描き出しているところが面白いなと思いました。

あらすじはこちら

特技ナシ、反抗期ナシ、フツーの高校二年生・星崎。「かれ」が夜の公園でひとり動画を流して練習する“テトロドキサイザ2号踊ってみた”。夢もなければ特技もない、クラスの人気も興味ない―そんなある日、河原で暮らす友人・つくもから子どもができたと打ち明けられて…。(作品紹介ページより)

主人公は高校生2年生の星崎。
ビールを飲み河原で生活している様子の「河原の友だち」、つくも。
香川から転校してきた同級生、草野。

この作品の語り手は「星崎本人」つまり、「僕、ないし私」ではありません。作品全体で星崎は「かれ」として、その他の登場人物は名字で呼ばれ、語られていきます。主人公視点ではない、語り手視点の小説なのですね。

この語り手が、高校生の言葉に出来ないもやもやを読み解いていく、という書き方が、おむすび的には読んでいて、とてもおもしろいところでした。

作品冒頭、星崎はダンスをはじめます。
youtubeでみた「踊ってみた」動画を「自分のものにしたいと思った」星崎は、毎夜公園で練習をするようになりますが、その理由はかれのなかでは言葉になっていません。その状態を、語り手は次のように解説します。

「かれじしんまだ気づくべくもないのだが、これはかれの性のめざめと密接に関係していて、かれは性欲を燃やす意図をもってキビキビ夜の公園でダンスを練習しているのだった。そうしなければモヤモヤと考えてしまうムダな肉体のムズムズが、かれにはあって、しかし踊ることでかれはそれを、先延ばしにしている状態だった。なんかしなきゃ、なんかしなきゃと心が訴えている矢先にみたものがそのダンス動画だったので、じぶんひとりで勉強しなければいけない肉体の暴走を食い止めるべく、自分のからだをムリな動きにあてはめたり、したころのないようなポーズを解剖してイメージしてみたりして、なんとかギリギリの夜を突破しているような、切迫感をかれ自身は自覚していない」

なんと丁寧な解説。この登場人物でさえも気づいていないことを、「こういっているけど、本当はこういうことで」とか「こういう気持ちがくすぶっていることをかれはまだ知らない」というように都度都度解説してくれる親切語り人が案内してくれる小説なのですね。

この作品、この語り手の存在がどうしても必要で、というのも、高校生たちの会話だけでは、言葉にできない事が多すぎるからです。たとえば、先述したように、自分がダンスに打ち込む理由がわからない星崎、をはじめとして、星崎とダンスを始めることになった草野は、「星崎、小遣いいくら?」と聞きます。これを語り手は、「徳島にいた頃はきけたのに、東京に来てからきけなくなったことのひとつ。きけない理由をなぜだか草野はわかっていない。」と語る。

高校生同士の会話のなかでは、

「フツー」

とか

「星崎と草野って最近仲いいよね」

としか会話されていない言葉のうらにある、かれらがまだ言葉にできていない、もっというとわかってもいない気持ちを解説する人がいて初めて浮かび上がってくるのですね。

もうひとつこの小説でおむすびが面白かったのは「からだ」と「ことば」の分離です。たとえば、

「これからはもっと、ことばを精密に思考して、からだを分解して、練習に細かい発明を施していかないと、上達しないのかもしれない。」

「かんぜんに春なんだな
とかれのからだのどこかは考えていた」

「ほんとうにつたえたいことをつたえたいとき、知っていることばの範疇では、表現できない」

というような体とことばのうまくつながらなさ、あるいはつながりを示すような記述が小説の中にたくさんでてきます。

著者がボクシングをしていることもあるのかなあ。体とことばの境界についてもちょっと考えました。

いまはもうわすれてしまった思春期のもやもやを読んで体感するような面白い作品です!おむすびも食べるばっかりでなくカラダ動かそう。


よかったらイイネ(稲)かコメ(米)ください。


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