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掌編小説「薔薇に包まれる」
都会には排気ガスが多いという。そんなの小学生の頃に習っていて、誰でも知ってる。
でもここに来るとしみじみ思う。空気がまろやかだな、と。
東京に毒されているつもりはないけれど、普段金魚みたいに呼吸する訳にはいかないから、何気なく息してる。
提供されたものを、右から左に受け取って。
でもここに来ると、東京の空気が刺々しいのだと分かる。
やわらかい、と思う。風がやわらかいのだ。
余白の多い空がなでるように風を送ってくる。
不純物のない空。不純物って何だ。
「キウイ剥いたから食べなさい」
礼子おばあが透明のガラス皿に入れられたキウイを運んできた。
礼子おばあは父方の祖母で、一人暮らしをしている。東京から電車で一時間の、静かな町で。
「うわ、酸っぱい」
「さっき買ったばかりだからね。あまり熟してないのよ」
礼子おばあは自分では食べずに、紅茶を飲んでいる。折れそうな持ち手の、アンティークのカップで。
見ているだけで冷や冷やするのに、礼子おばあは優雅に紅茶をすする。
一生真似できないな、と思う。
私が食器を選ぶ基準は、何といっても食洗機にかけられるかどうかだから。
「こっちはまだ寒いね」
「そんなに違う?私は滅多にここを出ないからねえ」
「違うよ。カーディガン持ってくれば良かった」
「寒い?何か羽織るもの持ってこようか?」
「いや、帰り。夜になるから」
キウイがフォークから逃げようとするのを捕まえて、口に放り込む。
硬くて良かった、と思う。
刺した瞬間ぐにゃりとするのは残酷すぎる。
食べるという行為の凶暴性が露わになって、躊躇してしまう。
「ちゃんと暮らしてるの?太貴君とは上手くいってる?」
「あんま会ってないかな。お互い忙しいし。太貴はずっと会社に泊まり込みだし」
「太貴君そんなに忙しいの?」
「まあね。映像クリエイターだから」
台所に行き、水道水を飲む。
口の中に貼り付いた甘ったるさが消えてゆき、粘膜がなだらかになる。
「クリエイター?横文字は信用できないわね」
「映像クリエイター。テレビ番組とかCMとか作ってるの。礼子おばあが見てる番組だって作ってるんだから。クリエイターなんて、今時普通よ」
「横文字を使うあなたがよ。まるで普通、っていう体で横文字を使うなんて、信用出来ないわ」
「じゃあ何て言えば良いのよ」
「そうねえ。作家とか、制作かしら」
「クリエイターで良いのよ。通じるんだから」
「ロマンが無いわねえ」
礼子おばあは苦笑すると、また紅茶を口に入れた。
ジャズシンガーだったくせに。
私は心の中で苦笑する。
礼子おばあは若い頃ジャズシンガーで、それこそ新宿とか銀座で歌っていたのだ。
英語だって流暢に操れる。
一度、道に迷った外国人を助けるのを見た事がある。音楽のように英語を話すのを。
ただ、その一度だけだった。私が見たのは。
礼子おばあは今を生きている。
東京から離れたこの場所で、今の自分を。
「もう帰るわ」
「あら、もう帰るの?あと一時間一緒にいられるじゃない」
振り子時計は5時を指していた。
外はまだ大分明るい。
「明日忙しいから、帰って洗濯とかしないと」
礼子おばあのカップはいつの間にか空になっていた。底に描かれた薔薇の花が露わになる。生活の美しさにハッとなる。
「そう。残念ねえ。身体に気をつけるのよ」
礼子おばあがストールをくれようとするのを断って、家を出た。
空が大きい。
鷹揚さに包まれて、また戻りそうになる。
振り向くと、礼子おばあがまだ家の前に居た。
「また来るからー」
千切れそうに手を振る。
薔薇の花を買おうか。
花屋に寄る算段をする。
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