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なぜ仕事が辛く感じるのか?ジョナサン・マレシック氏が説くその理由とは

私たちの人生と切っても切り離せない”仕事”。

そして個人差はあるものの、多かれ少なかれ、仕事は辛い。

書店に行けば、仕事やキャリア、人間関係、スキルアップやマインド、自己啓発の類の書籍が高々と積まれ、Youtubeには意識高い系と呼ばれる人たちがビジネスをテーマにした動画を山ほどアップしている。

それらを目にするだけで、多くの人が日々仕事や自身のキャリアで悩み、切磋琢磨しながら生きているんだと感じてやまない。

一方、書店やネットの世界だけでなく、自分の心と頭の中も仕事関連の悩みや思考でいっぱいであることにも気付くかもしれない。

ただ、一度冷静に考えてみる。

仕事やキャリアとは人生においてそこまで重要なことなのだろうか。

今回はジョナサン・マレシックという元大学教授で現作家の言葉を引用し、なぜ仕事が辛いのか、少しでも心が軽くなる処方箋はあるのかを書いていきたいと思います。

なぜ仕事が辛く感じるのか?

結論から書けば以下である。

私たちは仕事に大きな意味を持たせすぎているので、仕事の理想と現実に大きな乖離が産まれている

ジョナサン・マレシック

またマレシックはこのように続ける。

仕事は、生きる目的でも人に尊厳を与えるものでも人格を作るものでもない。

仕事はカネ稼ぎの手段に過ぎない。

ジョナサン・マレシック

例えば、私たちが普段使っている「有能」と「無能」という言葉の使われ方。

仕事が出来る=有能
仕事ができない=無能

これに違和感を覚えることは少ないと思われる。しかし、下記はどうだろう。

ボーリングが出来る=有能
ボーリングが出来ない=無能

これには非常に違和感、というか”これじゃない感”を覚えるのではないだろうか。

その理由は我々が無意識に人間の価値を仕事が出来るかどうかで判断している側面が非常に大きいからである。

資本主義社会に生きる我々はいつの間にか【仕事=人間の価値】というように思い込まされている。

そして仕事中心の世の中となることで、我々は仕事以外の生き甲斐を見失い、自分の人生を見失っている可能性があるのではないだろうか、とマレシックは訴えているように見える。

マレシックは続けてこのように言っている。

仕事はカネ稼ぎの手段でしかない。それなのに我々は仕事が人生で最も大切だと思いこまされている。だからあまりにもプレッシャーが大きくなり、どんどん仕事がつらくなってしまう

ジョナサン・マレシック


マレシックの経歴と思考経緯

マレシックは大学生の頃、とある大学教授と出会う。

そしてその教授は毎週金曜日、自宅を開放し、生徒に宇宙や神学の講義を行っていた。

また教授はたまに学生寮を訪れ、教授が学生時代に話題だった映画を見せ、夜遅くまで生徒たちと喧々諤々の議論をしたりもしていた。

学生だったマレシックはそんな教授の姿に憧れ、自分も大学教授を志すようになる。

教授になるために何年間も必死に努力し、見事、大学教授となったマレシック。

夢だった大学教授となったマレシックは「生徒たちに正しい知識を授けながら面白い講義を展開しよう」と日夜講義の準備に勤しんでいた。

時には、憧れだった教授がやっていたように、学生たちにマレシックが学生の頃話題だった映画を見せ議論したりと、あの時自分が夢見た仕事生活を送っていた。

仕事の条件面に関して、給与水準も高く、校内でも評価され、終身在職権を授かるなど、華々しいキャリアを築いていた。

しかしある時、マレシックは考えるようになる。

「こんな仕事もうやりたくない」と。

憧れの仕事に就き、評価もされていた中でマレシックに何があったのか。

実は、実際の仕事風景とは、生徒たちはマレシックの講義に特段興味はなく、「(単位を得るために)仕方ないからここにいる」という態度の学生がほとんどだった。

マレシックの本心では、「学生が講義に興味津々で自分と共有する時間に深い満足感を感じあっている状態」を仕事に求めていたのだろう。

このあたりからマレシックは自分自身に悩むようになる。

”自分よりも過酷な環境で働いている人も沢山いて、自分は端から見れば恵まれた環境で働いているのに、どうしてこんなにも自分の仕事に不満を持つようになってしまったのか”

”自分自身がたどり着いた場所は、学生の頃に憧れた良い人生とは正反対の場所だ”

と。

結局、マレシックは悩みに悩み、とうとう大学教授を辞めてしまう。

ここから、マレシックは

【憧れていた職に就き、端から見れば恵まれた環境で働いているのに、どうしてこんなにも自分の仕事に不満を持つようになってしまったのか】

ということを本気で調べるようになります。

と、新橋あたりの居酒屋にもたくさんいそうなサラリーマン談義風だが、なぜかマレシックの経歴と心境変化にドラマを感じずにはいられない。

“理想の仕事”と“現実の仕事”

人は、自分たちで考える“理想の仕事”と“現実の仕事”にとてつもないギャップを感じていて、そのギャップにより徐々に仕事が辛くなっていくとマレシックは言います。

また、そのギャップは簡単には埋まらないとも。

これは筆者自身も何となくわかるような気がする。

例えば、広告代理店と聞けば、華やかな仕事のイメージと高い給与水準データが今でも多くの若手を惹きつけてやまない。

芸能人!CMドーン!億単位のプロジェクト!大きな会議室でのプレゼン!高年収!なんかカッコいい!モテる!

ちょっと古いが、こんな感じではないだろうか。

が、しかし。

実際にこの仕事をしてみると、めちゃくちゃ地味だし、日々データと数字との闘いだし、社内社外の意味不明な理不尽を飲み込み、自分でも頭が沸いていると思えるような異常な気遣いを半ば頭の沸いた利害関係者にしながらも、結局は時の運に左右される仕事である。

リアルを知っている人からすれば、どの業界のだいたいの仕事とはそんなものであろう。

マレシックの労働観

マレシックは内省の果てに、このような言葉を残している。

労働者は仕事で努力をしても無駄だと感じてしまう。それは、仕事の成果を目にすることができないからだ

ジョナサン・マレシック

私たちは、仕事の成果をどこまで解像度高く目に出来ているだろう。

例えば、”マーケティング”という仕事の成果をある側面から切り取ってみると、消費者に“不必要なものを買わせること”と表現できるかもしれない。

また家電量販店の店員は、客としてはネットで買ったほうが安いことも、不要なオプションであることも知っていながら客を言いくるめて売りこむ仕事、とも表現できなくもない。

確かにこんな風に感じながら日々仕事をしていたら、「自分は何をやっているんだろう」「虚しい」と考えてしまっても無理はない。
※マーケも販売も尊い仕事です

一方、給料の為だと考えて仕事に打ち込んだところで、ビジネスオーナーではなく労働者である以上、努力を重ねた末に成果が上がれば上がるだけ報酬も上がるということは青天井型インセンティブシステムを採用するプル〇ンシャル生命の営業職のような仕事を除きほとんど存在しない。

ただ、マレシックは「仕事はお金のため」と考えたほうが、仕事がそこまで辛くならずに済む、まだマシだ、と言う。

仕事にお金以外のものを求めるようになってしまった

現実問題として、生きていくのにはある程度のお金が必要なのと、人生は短いようで長いので、私たちは仕事に多くの可処分時間を割いているという事実がある。

多くの可処分時間を割く中で、私たちは仕事に「やりがい」「楽しさ」「成長」「人生の充実」などお金以外の多くのものを求めるようになってしまった。

それを「仕事に大きな理想を求めるようになった」とマレシックは表現したのだ。

例えば、ネット上で楽しそうな企画を動画にしてお金を稼いでいる他人をみて、自分も楽しく仕事がしたいと仕事に楽しさを求めるようになる。

そうなると、楽しくない仕事がどんどん辛くなる。

または、傍から見て労働市場で重宝されそうなスキルを身に付けているように見える仕事をしている他人を見て、自分もこれから重宝されるようなスキルを仕事を通じて身に付けたいと思うと、市場で重宝されるスキルが付かないであろう仕事をしていると不安になるし、どんどん辛くなる。

自分ごとに置き換えても基本的には同感だ。

社会を正当化する高貴なウソ

このように、本来の仕事(労働)のリターンに直接紐づかないお金以外のことを仕事に求めることで、人は仕事が辛くなるという現象をマレシックは次のように表現した。

働けば幸せになれる、働くことで人として成長できる、そんなものすべてまやかしだ。それは哲学者プラトンのいう“社会を正当化する高貴な嘘”に過ぎない

ジョナサン・マレシック

ここまで書いてきて、筆者自身も「確かにな」と思える部分が多いように感じずにはいられない。

カール・マルクスが資本主義社会の実態を分析し書した資本論に通じている部分もありそうだ。

資本家が資本の拡大を行うためには、突き詰めると労働者からの搾取しかないという内容があるが、この“搾取”を効率的かつ恒常的に行うために、労働にお金以外の価値があるような幻想を労働者は資本家や社会から知らず知らずのうちに長い時間をかけてに埋め込まれてきたのかもしれない。

マレシックは以下のようにも表現している。

私たちは仕事が人生の中心だと洗脳されている。しかし、仕事とは人間が本当にやりたいことをやるための手段であるにすぎない。

ジョナサン・マレシック

悪魔は私たちの価値観をひっくり返す。悪魔は私たちが生きるために働くのではなく、働くために生きるように仕向けるのだ

ジョナサン・マレシック

私たちは仕事がすべてだと思うせいで、自分のアイデンティティや良い人生を送る能力を失ってしまっている、いや失わされてしまっている

ジョナサン・マレシック

非常に本質を突いている表現ではないだろうか。


心が軽くなるかもしれない処方箋

ここまで、ジョナサン・マレシックワールドを綴ってきたが、我々はマレシックから何を学べるのだろうか。

筆者の個人的な感想になるが、人間は「仕事の前に、自分の人生に夢中になったほうがいい」という気がしている。

自分にとって本当に大切なモノとは何か

(その時々で)夢中になれるものとは何か

どんな人生を誰と歩みたいのか

これらの問いに向き合って、自分にしか出せない答えを見つけ、近づく、という一連のプロセスが人生なのではないだろうか。

マレシックもこのように言っている。

もちろん、仕事が人生の中心の人がいてもいいだろう。しかし殆どの人はそうではないはずだ、そうではない人は仕事以外の人生の中心を見つけなければならない。

ジョナサン・マレシック

もしまだ、自分にとって人生の中心が見つかっていない人は、それを見つけに行くプロセスを人生の中心に添えてもいいかもしれない。


つづく

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