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Re: 【短編小説】死因 みみ

 薄暗い部屋には何も無かった。
 その部屋の真ん中にいた黒い猫は言った。
「決まっているからね」
 おれは訊いた。
「どうしても駄目なのか」
 黒い猫は何も言わずに振り向いて消えた。

 ちゃり、という軽い金属音で厭な夢から目を覚ました。
 そこには見慣れない天井があった。
 だがおれにドラマやゲームの様な錯乱は無い。
 とても冷静に現状を把握している。
 つまりおれは入院していて、ここは狭くて硬いベッドの上だ。
 周囲をめぐる薄いカーテンがそれを裏付けている。
 やれやれ、自宅に帰ったら天蓋を付けてみるのも悪趣味で良いかも知れない。


 病院の空調は暑くもなく寒くもない不愉快な温度に設定されている。
 滲み出るような汗が流れた気がして、耳の後ろを掻こうとして手をやった。
 するとそこに耳が無い事に気づく。
 さっきの金属音はそれか。
 舌打ちをすると病室に薄く響いた。
 カーテンを隔てた隣で眠る老人の苦しそうな鼾がそれをかき消した。


 どうやら耳が遊びに出たようだ。
 確かに昨夜は早めに眠ってしまった。
 いつものように怪談話だのお笑いだのを聴きながら眠ることをしなかったから、耳も暇を持て余したのだろうか。
 放っておけば帰ってくるのだろう。
 しかし看護師に踏みつけられたり車椅子やストレッチャーに轢かれたりしたら面倒だ。
 ここは探しに行く方が良いかも知れない。
 

 おれはサイドチェストに置かれたぬるい水を飲んで立ち上がり、点滴台を引きずって病室を出た。
 廊下は寝りかえっている。
 当たり前だ。
 夜中に賑わっていてたまるか。
 静かな廊下に踏み出すと、足元でスリッパがギュと鳴った。
 点滴台を引いて歩く。
 ひと気のないナースステーションを通り過ぎて、更に廊下を奥に進む。
 遠くで鳴っている救急車のサイレンに多少の親近感を憶えるが、これはおれが聴いているのか耳が聞いているのかと思うと少し不安になる。
 まさかとは思うが、おれの耳は外に出てはいないだろう。


 ちゃり、と耳に付けたピアスが鳴ったのが聞こえた。
 振り向くと黒い猫の様なものがおれの耳を咥えている。
 猫に見える。
 だがその手足が多い。
 それにその目は、人の目に似ていた。
「あぁ、ここまでか」
 おれは夢を思い出して笑うと、猫のようなものは頷いて、廊下の奥にある窓まで走って消えた。
 そいつが咥えていたおれの耳につけたピアスが鳴っている。
 ちりん、ちゃりん。
 おれは点滴台を押して廊下を戻った。
 夜中だと言うのに忙しそうなナースステーションをやり過ごす。
 自分の病室に戻り、適当な裏紙に遺書を認めた。
 ふと、看護士の仕事を増やすことに罪悪感を覚えたが全てはあの耳のせいだ。

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