Re: 【短編小説】果汁グミを噛んではいけない
やたら長いディゾルブで、なかなか終わろうとしない夜道を歩く。
数時間もすれば根性なしの太陽はあっさり諦めて引っ込んでしまう。
やれやれと白いため息を吐くと、その中から現れたかの様に母子とすれ違った。
母親に手を引かれた幼女は、なにか必死に喋って笑った拍子に口から飴を落として泣き出した。
俺はそれを見て昔の事を思い出した。
その日、果汁グミを噛んで食べた従兄弟が叔父に殴られていた。
まだ牛乳を噛んで飲むのが良しとされていた時代だ。別に不思議では無かったし、グミを噛んで食べないと言うハウスルールがあるのもおかしくはない。
別に親戚の俺たちと遊んでいる時くらいは良いじゃないか、グミはキャンディじゃあないぜ、などと思ったがルールというのはそう言う事から破綻するのだと叔父は言う。
なら仕方ない。
噛まれたグミみたいに顔面を変形させたまま泣いている従兄弟を適当に慰めた。
その叔父は20年後に破産する事になる。
叔父が経営する金券屋は粉飾決算に次ぐ粉飾決算で、ついに行き詰まった。
以前、地銀勤めの同級生に
「粉飾決算ってそんな長期間バレないもんなの?」
と訊いてみた事がある。
彼は
「中小のそれなんてつぶさに見てらんないから基本的にはわかんないよ」と言って首を振った。
天網恢々なんとやらと言うが、どんなルールにも穴があり抜け落ちるケースがある。
従兄弟のケースで言えばグミを飲み込むのは良かったのだろうか?
でもたぶん、一日に何個までと決まっていたのだろう。
なんとも貧乏くさいルールに思えたが、いま考えるとあれは節約の一環だったのかも知れない。
しかし叔父の金券会社は長年の粉飾決算で得た融資を元に裕福な生活をしていたのだ。
一家は海外旅行を楽しんだり、従兄弟たちは学習塾に通って医大に行ったりしている。
医大に入れたのは優秀だからであって、粉飾決算は関係が無いけれど。
その網から抜け落ちたのは、グミだった。
そして叔父が破産したからって、海外旅行の思い出だとか医者になった資格が剥奪される訳では無い。
一家の中で父親と言う存在、その尊厳が揺らぐだけに過ぎない。
従兄弟たちとは疎遠になってしまったので、いまの彼の立場は分からない。
彼らが見ている景色とはどんなものなのかも分からない。
叔父は破産した後、形振り構わずに下品な生き方をしている。
そう言う生き方もあると思うが、限度と言うものがある。実際に俺の父親に対する借金返済も滞っているし、祖母(つまり叔父の実母)にも迷惑をかけている。
一度無くした品格と言うものは、取り返せないのか取り戻す気が無くなるのか。
溶けたグミは、元の形に戻らない。
そう言えば父親も、穀潰しのような生活をしていた俺に向かって、
「この先、どうやって生きていくつもりか知らないが」
と言うと少し諦めた顔をして
「銀行騙して生きるか、宗教やって教祖になるかすれば生きられる」と極端な事を言ってたのを思い出す。
俺が曖昧な顔をして笑うと父親は真顔になり
「自衛隊でも良いぞ」
と言った。
そのボンクラな俺の製造元である父親も、電車通勤したくなさから就職した設計事務所を辞めて独立したものの、その事務所が事後に大手になったりする辺りからして、俺の運と言うのはタカが知れている。
銀行ひとつ騙せないだろう。
言わんや人を騙くら化して人をや。
サラリーマンじゃなかったからと言って、または俺の父親が経営する事務所が粉飾決算をしなかったからと言って、俺たちは別に貧しく無かった。
俺たちの家庭は標準偏差に収まる範囲の中にあっただろう。
どこの家族にもあるような幸福な瞬間やウンザリする時間があり、だがそれは従兄弟ファミリーだって同じことだ。
だからそれがどうしたと言う訳では無いが、少なくとも俺たちの家はグミを噛む事が許されていた。
それが幸福なのかは分からない。
俺たちは従兄弟ファミリーの様に頻繁な海外旅行をしなかった。
俺も妹も医大に行く事はなかった。
俺と妹の父親は粉飾決算で破産する事はなかった。
父親の目は叔父の様に荒んだ目にならなかった事を良しとするべきなのか、俺や妹は叔父一家と同じように粉飾決算で受けた融資を元に血や肉を育むのを望むべきか?
俺は幼女が吐き落とした飴に煙草を押しつけて、立ち昇る甘い香りを嗅ぎながら見た短い夢から覚めて立ち上がると、ゆっくりとガードレールを越えて手を叩いた。
それがウンザリする瞬間なのかは分からない。
だが、疲れているのは確かだ。