言葉にすれば嘘になる? それとも、言葉は真実を目指す?

こんな大雑把な問いを立てて、どうする? まともな議論などできるわけないじゃないか。そんな感想を持つあなたは教養のある人ですね。なるほど、世界中に言語の数はざっと7000弱らしい。もちろん言語が違えば、この世界神羅万象の切り分け方も、認知の仕方も違う。もちろんすべての言語に習熟している人なんて、世界中にひとりもいない。にもかかわらず、言語に関心を持つ人はみんな、言語一般(!)についてあてずっぽうで考える。「群盲、象を撫でる」というむかしのことわざそのものではあって。つまり、言語一般について考えることは人智を越えています。


もっとも、むかしもいまも世の中には乱暴に考える人がいるもので、ならば世界中の人が同じ言語を使えば、みんなわかりあえるじゃないか、と主張する。そこでかつて世界共通語エスペラントが提唱されたもの。(かれらは言語のグローバリストと言えましょう。)もちろんかれらの夢は座礁した。(仕方のないことでしょう、だって、そもそも人がみんなエスペラントに希望を見出すような、そんな頭でっかちであるわけがありません。)しかし、エスペラントに替わって、いまでは英語が事実上の世界言語になっています。


英語がまたどくとくの癖があって。在日日本人であり母語日本語のぼくにとって、英語は実に奇怪な言語であって。たとえば、How are you? と訊ねられたところで、「おまえ、いまどうなん?」って意味でしょ。しかし、そんなことを訊ねられたって、精神的、容姿偏差値的、食欲的、血液検査‐尿検査的、人間関係的、社会評価的、評価経済的、銀行預金残高的・・・あらゆる観点に鑑みれば、そうかんたんに答えられるわけがない。いいえ、もちろんぼくだってこの会話のルールをわかってはいて、I'm fine, thank you. How are you? って返せばいいんでしょ。なるほど、これが同調の原理ではあるのだけれど、しかし、同時にここには言語ゲームのいんちき性もまた潜んでいて。


ここでわかることは、言葉というものはあくまでも人間関係(社交)に必要な便宜的な道具であって、そもそもヒトの認知は言語に先だって、五感が担っている。しかし、五感がたいそうゆたかであるのに対して、他方、言語はいかにも貧しい。したがって、料理、音楽、美術、映画、演劇、スポーツ、ファッション、はたまた恋愛、ひいては性行為の実感について語ることの難しさはここにあります。


他方、言葉には言葉のはたらきがあり、文章にはめざす方向もまたあって。文章は、最初に主題を提示して、その主題が矛盾なくなめらかに展開し、ある結論にたどり着くことを目指す。逆に言えば、もしもその文章が読者にとってなにが主題だかわからなく、展開が矛盾に満ち、わけのわからない書き手の自称結論に達するならば、そんな文章は読者に相手にされません。


なお、ここで興味深いことは、あくまでもこれは作文作法の話題であって、そこで書かれている話題の真実性はまったく問題にされていません。きょくたんなはなし、その文章の主題がたとえ大嘘であったとしても、しかしその書き手の作文能力が高く、文章が魅力に富んでいるならば、読者はついつい読んでしまい、その話題の真実性、ひいては著者の実在性さえもを疑うことを忘れてしまう。


もっとも、まともな出版社には倫理があって、フィクション/ノンフィクションを峻別する。しかしながら、言語表現それじたいには、そもそもその境目はない。とうぜん、世の中には真実っぽい嘘もあれば、嘘のような真実もまたある。ただし、ぼくら読者にそれを峻別する術は、ない。


さて、いったいぼくはこのエッセイにどんなオチをつければいいかしらん? ぼくとしてはこう考える。まず最初に言葉の応酬は社交に欠かせないものであって、人は社交を楽しめばいい。また、人はホラ話が大好きで、ホラ話をおもしろがって楽しめばいい。しかし、では、真実はどこにある? 仮に真実があるとして、では、それをどのように語ればいい? そもそも自分が真実だと感じていることが正しいという保証はどこにある? これらの事柄について真剣に悩むことができる人こそが、真の小説家と言えるでしょう。小説とは、嘘話を語りながらしかし人生の小真実を探求する試みである。言語という矛盾に満ちたものを使わずには生きてゆいけないわれわれにとって、究極の試みがここにあります。そんなわけで、みなさん、小説を読みましょう。


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