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ワインと言葉。あるソムリエとあるワイン・バーの十カ月。飲食業界残酷物語。

飲食店を経営することはたいへんなこと、開店した店の半分は1年以内で閉店、延命した店のなかの半分は3年以内に潰れる。今後少しでも失敗する人が減るように、このエッセイを書くことにしました。家賃40万円ビルの屋上物件の恐怖、あるいは、ワインと言葉、というお話です。




かれは高校卒業後、ギタリストとしてスタジオミュージシャンになろうとミュージックスクールに通った。かれはジャズが、そしてそこから派生した当時フュージョンと呼ばれもした音楽が好きだった。マイルス・デイヴィスがかれのアイドルだった。(傍目には、かれにはミッシェル・ルグラン、はたまたデイヴ・ブルーベックあたりが似合うのだけれど。欲を言えば、ビル・フリゼールを好きになったとすればまったく別の現在があったろうともおもうけれど。)いずれにせよ、結局かれはミュージシャンになる夢を諦めた。なぜって、かれは学友たちの演奏の巧さに恐れをなしたのだった。それでもかれは学校に4年通った、他にやりたいことがなかったから。



学校を卒業してかれはCDとDVDのレンタルショップで働いた。あっというまに数年が過ぎ、かれはこれではいけない、と、イタリアンレストランの給仕として働くようになった。やがてかれはワインに夢中になった。かぐわしい香り、年ごとに違う趣、かつまた保存状態によって、その美が夢のように大きくなりもすれば、逆に死んでしまいもする。また状態の良いすばらしいワインであっても、1ケースのなかに1本くらい、だめなものが混じっていることもある。ワインは生きている。そしてワインとともに過ぎ去ったある年がよみがえる。なんて華やかで、精妙で、予断を許さない世界だろう。かれはとくに優美な香りのブルゴーニュワインに魅了された。



かれはおもった、ぼくはこの世界を自分のものにしたい。そしてかれはフレンチレストランに職場を変えた。なぜって、かれにとってワインはフランスワインこそが王道で、そしてフランスワインは世界でいちばんおいしい料理、フランス料理とともにあるものだから。



飲食の仕事は労使双方、安定性を欠いているもので、かれもまたいくつもレストランを替えた。いつのまにかかれは、温和で上品な物腰の、すっきり痩せて紳士的な、サーヴィスマンになっていた。
電話の受け答えひとつとっても、挨拶の仕方ひとつとっても、いかにも丁寧で物腰柔らかな上品なサーヴィスマンだった。朝かかってくる予約電話を料理人が受けると対応が粗っぽいので、サーヴィスマンの自分が朝早めに出勤して、ていねいな電話対応を心掛けるようにする、そんな仕事熱心さもあった。



かれはもう四十歳になっていたけれど、あいかわらず独身で、好青年の面影が残っていた。良く躾られた男の子がそのまま中年になったような趣があった。女に手を出してめんどくさいおもいをするくらいならば、部屋でひとりワインを飲みながらジャズを聴いていたいというタイプだった。



ある日かれのもとに、かつて働いたレストランの経営者兼ソムリエさんから電話がかかる。
「ワインバーを経営してみない?」
どうやらそのソムリエさんたちがセカンドレストランとして経営していた屋上階の軽食系フレンチレストランが閉店したそうで、そこで、せっかくだから後継者としてどうだろう、というお誘いだった。ソムリエさんにとっては店を畳んだわけだから、大家に現状回復代金200万円を払わなくてはならず、そんなカネを払うくらいならば、ひきつづきソムリエさんが仲介するかたちで、実質経営は誰かに引き継がせてはどうだろう、と考えたようだった。かれは熟考の末そのお誘いに乗った。家賃は月40万円だった。



いったい誰が40万円の家賃でワインバーを経営してゆけるだろう? 自分の店を持つならば、それこそ吉祥寺のハモニカ横丁のような靴箱みたいに手狭な店からスタートすればいいものを。しかも、家賃40万円のその店は路面店ならばまだしも、麻布十番のビルの9階(屋上)である。おまけに、ほとんどゼロからの出発で、まだ誰ひとり店の存在を知らないのだ。そもそもかれは経営者の経験がまったくない。(ロックバンドに喩えるならば、キャパ100人のライブハウスで満杯を重ねた経験もないままに、キャパ800人のホールでライヴをやるようなもの。)経費を考えれば、最低でも月百万円は稼がなくてはならない。ほとんどこのお誘いは悪魔的なものながら、ただし、そのソムリエさんは、たいへん優秀で個性的なリストを持つ、しかも「ワインを貸し出してくれて、売れたぶんだけ代金を払えば良い、富山の薬売り方式のワイン業者」さんを紹介してもくれた。
(ただし、この方式は売値もまた決められていて利幅も薄い。仕入れ値5000円のワインを9000円で売るというような仕組みである。もしも自分で身銭を切って仕入れていたならば、仕入れ値5000円のワインは15000円で売る。(もっとも、ぼく自身にとっては、この仕組ゆえに飲食店でワインを飲むのが億劫になる。)とはいえ、値つけの巧い飲食店は、価格帯に応じて利幅に弾力性をもたせ、けっして一律に仕入れ値三倍の値つけにはしないものだけれど。さらには、そのソムリエさんは、たいへん個性的な魅力あふれるブルゴーニュワインのインポーターもかれに紹介した。そのうえ、けっして冷凍ものとはおもえない最高のパンを扱う業者をかれに教えてもすれば、かつまたかれが共同経営するレストランで、ともにはたらくシェフの料理、たとえば「牛頬肉の赤ワイン煮」を提供することを約束してくれもした。ただし、かれはそっと言い添えた、「店を辞めるときは、
200万円必要だから、それは残しておいてね。」取りようによってはかれのスタートはたいへん恵まれていたとも言えないこともないけれど、しかし取りようによってはそれは破滅への誘惑でもあった。



かれは内装を整えた。(これがまかれにとって一言では言えないほど重労働だった)。そしてかれは2019年10月1日にこのワインバーをオープンした。夜営業のみのダイニングは暗めの照明で、かれの大好きな気品あふれるフレンチワインと、おいしい軽食を用意した。店内からは輝く東京タワーが見えた。チャーリー・パーカーがオーケストラを率いて、自由奔放にサクソフォンを吹きまくり、その演奏が麻布の夜景に溶けていった。かれは自分の店を持てたことが得意だった。


一流のソムリエでさえも仕事にあぶれ、
スーパーマーケットのワイン売り場担当をやっていたりするもの、それに比べてぼくはどうだい? かっこいいだろ!
かれはコドモのようにうれしがった。
それはまさに自分の店を作り上げたことの満足感である。



かれはFACEBOOKで店の宣伝に努めた。11月3日には、熟成シャブリ08を紹介した。「11年もので非常に複雑な味わいで重油香(ペトロール)の香りとシャブリらしいレモンの香り、フィニッシュにやや蜜のニュアンスがあります。熟成の白ワインにありがちな”開けたシェリー酒の5日後”と言うよりまだ若さもあって、どなた様にもお勧めできる熟成酒です。残り2本くらいありますので、ご興味あるかたボトルキープでお願いいたします。」



11月4日には、シャトー・ラ・クロワ テナック09を紹介した。「ピュイスガン・サンテミリモンに位置するブドウはメルロー95%にカベルネソーヴィニヨンが5%。ボルドー・ファンの方はお気づきかもしれませんね、09年はロバートパーカーが21シャトーに100点を付けたヴィンテージであることを。このワインもヴィンテージの恩恵を受けてかなりヴォリューム感の感じられるワインです。色もまだ若く、香りはダークベリーにゴムっぽい感じと甘い乾燥ハーブの香り樽香もしっかり溶け込んでいていい感じです。」かれがどれだけワインを愛しているかわかろうというもの。この時期かれは『最高のワインを買いつける』という本に熱中した。



しかし、待てど暮らせど客はほとんど来ない。それはあたりまえのこと。だって、広報広告活動がFACEBOOKと食べログそのほかいくつかのサイトだけだったし、そこにはとくに人の心をつかむ言葉もなかった。そもそもかれ自身、自分の店のどこが他のワインバーと違って、どんな人が想定顧客になって、どうやったら、その想定顧客が来てくれるような、インフォメーションを届けることができるのか、そもそもどんな情報を発信すべきなのか、かれはなんにも考えていなかったし、どう考えたらいいかさえわからなかった。最初の月の売り上げは約10万円。翌11月は20万円ほどだった。


前述の仲介役のソムリエさんをつうじてぼくが相談を受けたのは、2019年の11月の中旬だった。実はぼくはその仲介役のソムリエさんとかれのおにいさんが経営するふたつの店の、コンセプトコピーを書いてあげたことがあり、いずれも売り上げにたいへん貢献したものだ。もっとも、ぼくにとってアルコールは軽く酔っぱらうために飲むもので、したがってぼくにはワインの審美眼はなかったけれど、しかし、マニアでなくとも、少し関係者に取材すれば、広告コピーを書くことくらいたやすい。またぼくはジャズは好きだし、ひとおおりの知識もあれば、好みもあって、また、この店の経営に乗り出したかれの愛する村上春樹さんのジャズエッセイもぼくもまた嫌いではなかった。実際、こちらのワインリストはおそらくワイン好きの興味を引くものなのだろう。牛頬の赤ワイン煮も、おいしくてあたりまえの料理ながら、しかし食べれば感動ものだったし、また香ばしいフォカッチャと一緒に食べればなおのことだった。ただし、いったいどうやってビジネスにできるだろう?



ともあれ、ぼくとかれは話が合った。
もっとも、ぼくがなにを話しても、かれが上手に相槌を打ってくれただけかもしれないし、あるいは、かれはかれで、
知的っぽい会話をしている自分にうっとりしていただけかもしれないけれど。いずれにせよ、ぼくは、かれが置かれている状況を理解した。ぼくにもなにかしてあげることがあるかな、と、おもった。
もっとも、ぼくにできることはとても限定的なことだったけれど、まずは、
ぼくはホームページそのほか用に
男と女と東京タワー」と、それに続く二十行ほどの言葉をプレゼントした。



これによってお客さんは入るようになった。とくにカップル客が多く来てくれた。ときには8人様が来てくれることもあった。おりしも12月はクリスマスシーズンだった。いったん流れがついてしまうと集客もできるようになって、年末まで経営ははっきり上向きになった。ワインマニアをよろこばせる逸品が比較的安価に愉しめることが、少しづつマニアたちに伝わり始めていた。2019年の12月31日深夜から翌年1月1日早朝にかけて、
キャピキャピした若い女3人の客たちは、黄色い声で口々にかれの名前を「さん付け」で呼んだものだ。ぼくはその光景をほほえましく眺めていたものだ。
この12月の売り上げは80万円ほど。かれは年末年始休むことなく1月5日まで毎晩店を開けた。



しかし年が明けたら、またお客がひとりも来ない夜がときどきやってくる。そうかとおもうと、男性客がワイン好きの彼女を連れてやって来る夜もあって、はたまたあいかわらずカップル客にウケてもいて、それなりにプロモーションが効きはじめている手ごたえはあった。1月19日の誕生日にかれはお客様から花束を頂き、かれは大いに励まされた。とはいえ、まだまだ客入りはまったく不十分で、しかもどこの飲食店にとっても1月2月は魔の季節、このままではまずい。
にもかかわらず、かれはビラ撒きさえもしないのだ。かれにしてみれば、ビラ撒きがやりたくてワインバーの経営者になったわけじゃないということなのだろう。まったくもって無駄なプライドである。そもそもビラ撒きが楽しめない奴は飲食業に向いていない。いや、それよりもなによりも、あきらかにこのワインバーには早急に改善すべきものがあって、しかもおそらくそれはけっこう本質的ななにかではないか、と、ぼくはおもった。



良いワインを良心的な価格で提供する。
なるほどそれはワインマニアにとってキャッチーなことではあるだろう。
シャンパーニュがグラス1杯1000円~2500円、ボトル1本8000円~。ワイン1本5000円からで1万円以下の逸品も各種揃っている。客単価5000円で一晩8人を基本として、ときどき上客が来てくれて、3万円~5万円のワインを頼んでくれれば、いちおうなんとかいける。(これでもまだちょっと危なっかしいけれど。)なるほど評価の定まった人気のフレンチレストランならばそういう計算も立つだろう。しかし、けっしてぼくはワインバー事情にくわしいわけではないけれど、ワインと軽食だけでその計算どおり売り上げるためには、たとえば北欧の綺麗な女性のサーヴィスのようなものが必要ではないかしら。40歳男の経営者兼サーヴィスひとりで、大丈夫なのだろうか。店をまわしてゆけるだけのお客がつかなければ、持ちガネが尽きたときが閉店のとき。いまこそ、なんとかして経営を安定させなければならない時だ。いったいどうすればいいだろう。広報・広告が足りていないのは言うまでもないことながら、しかしネットとチラシくらいしか使えるものはない。次に、この店のソムリエ兼経営者になったかれには、まだ自分の言葉がなく、カベルネがどうだとかシラーがどうだとか、ソムリエ業界用語を他の平凡なソムリエと同じように流暢にさえずるばかりだった。いや、それどころかかれはソムリエバッジも持っていなかった。(もっとも、ぼく自身はべつにあの葡萄の房バッジにさほど意味があるとはおもわないけれど。なぜなら世界中のワインを広く浅く知るよりも、むしろ自分が心底愛する地域のワインに特化した知識を持つことの方がよほど有益である。)しかし、そもそもかれはフランスというカタカナ4文字は知っていても、かれはその土地を歩いたことも、風に吹かれたこともなく、ワイン生産者たちと言葉を交わしたこともなかった。かれの持っている情報はほぼすべて、二次情報、三次情報、四次情報で、自分が体験して獲得したオリジナルな情報がほとんどなかった。かれはただ物腰ていねいで礼儀正しい、フランス・ワインをただひたすら愛する心優しい一流のサーヴィスマンだった。


他方、高額ワインを趣味にする人たちや飲食店で高額のカネを払って楽しみを買う人びとはみんな社会的成功者か、その家族であって、かれらの大半は独自の情報やスキルを持っているもの。本も山のように読む。外国旅行なんてものはいくらもしているので自慢にもならない。フランスのシャトーめぐりなどあたりまえ、そんな人たちである。だからこそ、銀座のホステスさんは日経新聞の夕刊を読み、かつまた経済や社会、情報、歴史に関する本を読む。そのくらいのことをしなければ、カネ持ちの客たちとの会話は成り立たない。せめて最低でも、かれには、ワインについての独自の視点、他の人が持ってない情報、自分ならではの語り口が必要で、それなくしてはお客の心はつかめない。


ぼくはアドヴァイスした、いまきみにもっとも必要なのは、自分の言葉、自分の語り口を作ることだよ。まずは『地球の歩き方 フランス』を読んで、それぞれの土地をイメージし、そこにワインの情報を重ね合わせ、そして(前述の、富山の薬売り方式の業者さんではなく)
また別のワインのインポーターから作り手たちの話を訊いて、それらを総合して、少しづつ自分の言葉、自分らしいワインの物語を語れるようになろうよ。
きみの好きな村上春樹さんが語るジャズメンの物語のように、きみがワインの作り手たちの物語が語れるようになれば素敵じゃないか! かつて長嶋茂雄監督も言ったじゃないか、メイク・ドラマ、あれだよ、あれ。



かれもいったんはそのアイディアに目を輝かせたものだ。もしも自分がワインについて、村上春樹さんがジャズを語れるみたいに語れるようになれるならば、
かっこいいな、と、よろこんだのだろう。(ぼくが言ったのはあくまでも方向性の話であって、けっしてかれがたやすく村上春樹さんのレヴェルの言葉の使い手になれるなんてことは、ひとことも言っていないのだけれど。)



かれはインポーターの蓮見さんからアニエス・パケやアラン・パレそのほか作り手たちの話も聞いた。ぼくも同席した。


その後まず最初に、ぼくはいくつかワインの紹介文の作例文案を作ってあげた。
たとえば、ブルゴーニュ・アリゴテ2017年 売値6600円についてはこんな文章。


シンデレラ・ワインとしてのアリゴテ。ー一般にぶどう品種アリゴテは、ぶどうをたくさん実らせるがゆえ、味が薄くなって、大酒飲みのための安ワインとして知られています。しかし、これをあまりにもったいないじゃないか、と、おもったのがフェルナン&ローラン・ピヨ。かれらはぶどうを徹底的に剪定し、量より質を追い求め、アリゴテをシンデレラワインに変身させました。シャブリに近い、よく熟れたレモンのような香りと味をお楽しみください。かれら一家のドメーヌは、1890年から5世代にわたって、ワインを作り続けています。現代の醸造技術を尊重しつつも、あくまでも伝統製法にこだわっています。サッシャーヌ・モンラッシェの丹念に耕されたかれらのぶどう畑のぶどうの樹には、てんとう虫がたくさんついています。」


こういう文章を紹介すると、まるでぼくがワインマニアみたいだけれど、しかし、実際はまったくそんなことはなく、ぼくがしたことはただブルゴーニュワインをひたすら愛するインポーターの蓮見さんの言葉のなかから、ドラマを引き出し、それをひとつのかたちにしただけのこと。


ぼくは言った、「お客さんがワインリストを開いたら、こういう文章でワインが紹介されているわけ。ちょっといい感じだとおもわない? そんなワインバーなんてないでしょ。」
かれもいかにもうれしそうに言った、
「あ、こういうことだったんですね、
村上春樹さんがジャズメンについて語るように、ワインを語るってことは!」
ぼくは言った、「じゃ、あとは自分で文章を書いてごらんよ。それを叩き台にして、ぼくが仕上げてあげるから。」



ところが、どうやらそれはかれにとって、荷が重すぎるタスクだったようだ。
情報を収集し、その土地の風景や、携わる人々の喜怒哀楽をイメージし、集めた情報を吟味し、統合し、自分の言葉に置きなおし、誰かに語り、反応を見ながら、あらためて言葉を練り上げ、そして自分の言葉を作ってゆく。その作業がかれにはまったくできないのだ。かれは、どこにでもころがっている平凡なソムリエ話法に徹底的に縛られていて、もはやまったく身動きが取れないのだった。
せっかくインポーターさんに二時間も取材したというのに、なんの役にも立っていなかった。なるほど、誰にとっても文章を書くことはかんたんではない。人はみんな、書いたり消したり書き加えたりまた消したり、そんなことを繰り返しながら、文章を作ってゆく。まず、手を動かさなくてはどうにもならない。しかし、かれはその手がまったく動かないのだ。カベルネ、シラー、シャルドネ・・・そういうの以外に、かれはひとことも文字が書けないのだった。


他方、かれは、ぼくがかれに幻滅していることを察し、えらく不機嫌になった。
ぼくはあなたごときに軽蔑されるような人間ではありませんよ、と、かれは言いたげだった。かれにとってジャズとフランス料理とブルゴーニュワインを愛することは、すなわち、自分がすばらしいものがわかる感性のエリートである、というプライドそのものなのだろう。(こういう特殊なプライドを持っていると、さぞやかれの人生は生きにくいだろう。)
ぼくは言った、
「たとえいますぐには巧くできなくとも、近い未来にはできるようになる。
そんな〈できるようになった自分〉をイメージしながら努力するからこそ、
人は成長できる。このままではまずいよ。だって、いまのきみは映画のエキストラだよ。一刻も早く、名前のある役者にならなくちゃ。」




ぼくはけっしてかれの人格を否定したわけではないけれど、しかし、かれにはそのように響いたのだろう。もしかしたらかれにとっては、許しがたい屈辱だったのかもしれない。
けっきょくかれは言った、「もういいです、ぼくひとりでやります」、
そしてかれはぼくの書いた「男と女と東京タワー」という言葉も、捨ててしまった。恩知らずな奴だな、と、ぼくは腹をたてた。いや、それよりなにより、これからいったいどうやってお客を呼ぶつもり? なぜ、きみはそんなにかんたんに傷つく? きみはいったいどんだけ「コドモ部屋おじさん」なんだ!?? 1月末のことだった。結局かれとぼくは2か月間だけ週に2~3度店で会ってつきあって、そしてあっさり別れることになった。


とはいえ、道は星の数ほどある。いろんなやり方があるし、経営者には自分の好きなやり方を選ぶ権利がある。ぼくが書いてあげた「男と女と東京タワー」というコピーを捨てて、かれがどんな言葉を掲げたかといえば、「ビル最上階のワインバー」だった。そしてこの店にはふたたび客が入らなくなった。1月の売り上げは30万円ほど。2月は(ヴァレンタインデイだけはお客様で賑わったものの、しかし)月の売り上げは20万円。それでもかれはブルゴーニュの造り手、フェルナン&ローランピヨの試飲会へ足を運んだ。そして食べログのサイトに、ワインリストのすべてを掲載する試みをおこなった。それが多少功を奏して3月は40万円。



しかし、ぼくのみならず、かつてかれをサポートしていた他の人たちも、すっかりいなくなっていた。この店の経営を仲介するソムリエさんでさえも、かれを腫れ物に触るような扱いをするようになって、かれに距離を置くようになった。沈み始めた船から人が次々脱出する、その典型的なパターンだった。



そして襲ってきたのが、その年4月7日の新型コロナ緊急事態宣言である。(なんと5月25日まで続いた。)こういう時期は昼営業でもすればいいものを、しかし、かれはあっさりゴールデンウィーク明けまで店を閉めた。4月は7日間だけの営業で売り上げ10万円。もうこのタイミングで、かれは店をやる気をなくしていたのだろう。店を辞めるならば、半年まえに不動産屋へ言わなくてはならない。かれは10月に店を閉める決心をした。しかし、その決心すらも甘かった。
もしも家賃補助そのほかの助成金を受けることができれば10月までは延命できただろう、しかし、その夢さえもまた叶わなかった。結局、かれはこのワインバーを7月末に閉店することにしたのだった。かれのFACEBOOKの最後の声は、5月末日、紫陽花の写真に添えて、「紫陽花が咲きはじめました」というつぶやきだった。ぼくはこの年の梅雨がどんなだったかなにも覚えていない。



店を閉める最後の夜、かれの好きなキース・ジャレットのピアノソロ、
The Melody At Night, With You が流れていただろうか。なお、かれの閉店とその後始末には、例の仲介役のソムリエさんの慈悲深いはからいがあった。




かれはこの経験からなにを学んだろう? ぼくはそれがもっとも気になる。いずれにせよ、たった十か月の経営者兼ソムリエだったかれにぼくはおもう、人生は勝ったり負けたりだよ、きみは今回おおよそ1000万円ほどのおカネを使って結果負けてしまったけれど、またいつかそのうち新たな勝負で勝てばいい。もっとも、きみはきっとそれを傍観者の無責任な言い草とおもうだろうけれど。そもそもいまかれはどこでどう暮らしているだろう?



このエッセイに登場するインポーターの蓮見さん。


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