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精霊ってなんだろう?(映画『ミツバチのささやき』に導かれて。)

映画の話をしましょう。スペイン領バスク出身のヴィクトル・エリセ Víctor Erice 監督(b.1940-)による『ミツバチのささやき』(原題:El espíritu de la colmena~英語題:The Spirit of the Beehive-ミツバチの巣箱のなかの精霊)』(1975)という映画です。もしも副題をつけるならば、「ある少女のイニシエーション」というようなものになるかしらん。なお、ここで言うイニシエーションとはクリスチャンの幼児洗礼ではなく、主体性を獲得するための〈乗り越え〉という意味です。



冒頭の字幕でこの映画が1940年頃を描いたものであることが示されます。


なんにもないただだだっ広い田舎町にフィルムを乗せた移動巡回映画の軽トラックが到着する。石積みの公民館の前に。(それはたくさんの丸い石を積んで土で固めた壁に、勾配のちいさな瓦の三角屋根を乗せた古ぼけた建物で、いかにもスペインらしい)。コドモたちはすでに興奮に沸き立っています。どんな映画? 西部劇? インディアン、出てくる? ホラー? 中年のご婦人がちいさく簡素なラッパをピーーーーッと吹いて、映画上映を告知する。『フランケンシュタイン』(1931年のアメリカ映画)である。



まずコドモたちがすでに興奮状態で集まって来る。後方には大人たちも。関係者は大入りをよろこんでいる。「火に気をつけなさいよ、(フィルムが燃えるとたいへんだから。)」村の人たちに混じってアナも姉のイザベルもいる。もしかしたら彼女たちは人生ではじめて(?)映画を見る。アナは6歳、映画がこしらえものだと知らない。アナには現実と夢の区別がまだない。前方には純白のスクリーン。上映まえのそれはただ一枚の白い布。善い映画も悪い映画も投影できる。


アナとイザベルの父は、学者肌の養蜂家。帽子をかぶり網状の面布で顔を覆い、日々家の庭にたくさん並べた巣箱の蓋を開け、巣枠を取り出し、蠢くたくさんの蜜蜂たちを観察する。(かれと家族の家は大きく立派で、あるいはかれは地主かもしれません。)


母は誰かに手紙を書いています。手紙の相手は生きているか死んでいるかわからない。おそらくは夫婦には不在の長男がいて、おそらくスペイン内戦に共和国軍側として出兵し、いまは生死もわからないのでしょう。手紙を書き終えると彼女は自転車を漕いで、遥か地平線の彼方の駅へ急ぐ。駅舎は灰色の煙が立ち込めている。蒸気機関車の横腹には郵便ポストがついていて、彼女は手紙を投函する。発車した列車内の青年たちの顔を彼女は眺める、息子の面影を探すように。


懐中時計が取り出される。養蜂作業中の父がコートの内ポケットから取り出したのだ。懐中時計の蓋を開けるとオルゴールが鳴りだす。ノスタルジックで感傷的なメロディ。網状の面布をかぶったままかれは目を閉じメロディを聴く。


家政婦の名前はTeresa Migros。端役ながら、イザベルとアナの信仰の導き手であることが暗示されます。


そもそも良識的なクリスチャンならば、幼いコドモに『フランケンシュタイン』を観せることを快くはおもわないでしょう。なぜなら、あの映画はキリスト教を冒涜する悪魔的なものだから。こんなストーリーです。狂気じみた科学者フランケンシュタインが、あろうことか神になりかわって、いくつもの死体からとった頭、手足、胴体、臓器を組み合わせ縫い合わせて、怪物を作り出した。「生まれたばかりの」怪物は、自分がおぞましい不気味な存在であることに絶望し、激怒して、博士のラボを去る。怪物はうろうろ歩き回っていたなかで偶然幼い女の子と出会う。彼女は怪物を怖れることなく、「一緒に遊びましょ」なんて言って、かわいい笑顔で摘んだ花をプレゼントする。ふたりは花で仲良く遊ぶ。怪物は女の子との出会いを楽しみ、女の子もそれをよろこぶ。おたがいに摘んだ花を湖に投げたりして。


しかし、次の瞬間、



怪物は(おそらくはふざけて)女の子を湖に投げ込んでしまう。女の子は死んでしまい、怪物はうろたえる。怪物は図体はでかく立派な大人に見えようとも、しかし、心は生まれたての赤ちゃんなのだ。怪物は悪をなそうとおもったわけではなく、ただ結果として悪をなしてしまった。


アナはショックを受ける。夜、ベッドのなかでアナは姉のイザベルに訊ねる、「どうしてあの人はあの子を殺したの?」
イザベルはアナをじらしてなかなか答えない。しかし、アナが何度も問うものだから、イザベルは遊び半分に答える、「ほんとはね、あの子は死んでないの。怪物もね。」
アナは訊ねる、「どうしてそれを知ってるの?」
イザベルは答える、「映画のなかで起こることはぜんぶ嘘なの。トリックなのよ。しかも、あたしはあの怪物をこの目で見たんだもん。」
「どこで?」
「村の近く。でもね、みんなにはあの男が見えないの。怪物は夜しか出歩かないからね。」
「お化け(fantasma)なの?」
「違う、精霊(spilit)なの。」
「Donna Luciaみたいな?」
(註:シラクサのルチアのことか?)
「そう。でも精霊には肉体がないからね。誰かの肉体を借りるの。怪物はコスチュームなのよ。コスチュームは死んでも、精霊は死なない。アナは語りかければいいの。わたしはアナよ。わたしはアナよって。アナがそう言えば、精霊が現れるから。」
イザベルのついた嘘はたちが悪い。しかし、あどけないアナはその言葉をまんまと信じてしまう。なお、イザベルもアナも自分たちのなかに精霊が生きていることをまだわかっていない。


え、あの怪物に精霊が宿っている??? なるほど、ヒトの体は精霊の住む家です。しかし、イザベルのこのせりふは悪魔的だ。クリスチャンを激怒させるでしょう。それはいったいなぜでしょう?


クリスチャンにとって、もしもヒトが生まれながらの自然状態であるならば、ただの肉です。肉の状態にある人間は、とうぜん神に従うこともなく、ただ自分の意志で欲望のままに生き、おのずとあれこれ現実にぶつかって苦しみもがき、そんなときも(信仰をもたないゆえ)自分で自分を助けるほかなく、生きているあいだじゅうのたうちまわって、やがて命尽きて死んでしまう。それに対して、洗礼を受け、神と契約を結び、キリスト教に帰依した人は、かつて自然状態の獣だった人生を捨て、いま新たに、神から、そしてイエスから(もったいなくも)精霊をインストールしていただくことによって、新しい自分に生まれ変わる。生まれ変わった人は努力と精進、そして信仰の力によって、少しづつ自身の獣性を失くしてゆく。そして人はただひたすら神の導きに従うことによって、心を軽くして、善い人生を生きることができる。やがて死ぬ日が来ても永遠の命をいただくことができる。これがキリスト教が信者さんたちに提供する真理(ストーリー)です。神、イエス、精霊はひとつのものが見せる3つのペルソナなのだ。


したがって、マッドサイエンティストがいくつも死体の部位を繋ぎ合わせて作った人体に、精霊が宿っているなんてことは言語道断、万物の創造主たる神への許し難い冒涜だ。もちろん前述のイザベルのせりふは神を軽んじ、人間の知性を神の上に置く、きわめて利己的で自分勝手な悪魔主義(Satanism)の顕現です。すなわち、このシーンはかわいい顔した邪悪な姉イザベルによって、あどけないアナが悪魔主義に誘惑されかけている精神的危機を描いています。



もっともイザベラにその自覚はないにせよ、むかしもいまも悪魔主義者には悪魔主義者なりの言い分があって。それは人びとを原罪から解放すること。人は誰も原罪を負っているなどという(悪魔主義者から見れば)悪しき洗脳から解き放たれて、人は生のよろこびを存分に味わうべきなのだ、という主張ではあるのだけれど。しかし、ここで悪魔主義に深入りすると話が終わらなくなって、しかも『ミツバチのささやき』からも離れてしまうので、ここでやめておきます。


そしてまた前述のイザベラのせりふにはエリセ監督が託したもうひとつの含意があって。独裁者フランコもまた怪物であり、その怪物の手によってスペインもまた怪物と化してしまった。もはやスペインは幼いコドモが悪魔主義に染まってしまうような心の荒廃をもたらしたのだ。もっとも、この映画はそんな主張をすべて隠喩的表現に隠しているのだけれど。


実は『ミツバチのささやき』は1940年頃のスペインを描いています。内戦終了後1年めあたりのこと。内戦とは恐ろしいもの、国民が分断されてしまう。ともに生きていたはずの人びとが、関係を断って憎みあってしまう。社会は壊れてゆく。しかもフランコ率いる反乱軍はナチス・ドイツを味方につけ、(エリセ監督の故郷)バスク地方の自治の象徴だったゲルニカの街を空爆し、無差別大量殺人を犯した。死者10万人、負傷者100万人とも言われています。民主主義も共和政も軍事クーデターによってあっというまに崩壊し、3年間の内戦によって多くの民主主義者がフランコ率いる反乱軍よる激烈な攻撃に敗れた。人びとがおもいおもいに身近な死者たちを悼むなか、誰も望みもしなかった軍事独裁政権が誕生。違った文化、言語を持っている人々が自治権を奪われ、統一国家として強引に束ねられる。ファシズム国家はカトリック教会を支配下に置くことで、民衆の信仰への信頼はこなごなにされてしまった。もはや自由はどこにもない。大人たちは失意と閉塞感のなか心はいまここになく、ただ無気力に平和だった過去を懐かしんだり、内戦では凛々しく戦ったにもかかわらず失意のなかやむなく個に閉じこもり粛々と暴政に屈服しています。(現在の日本だって、明日はわが身です。)ただただだだっ広い、なんにもない田舎町です。ただ風が吹き、草原の草がちいさな声を囁いています。見渡す限り人影もない。線路に耳を寄せ、かすかな振動を感じるイザベルとアナ。やがて列車が黒煙を放ち音をたてて近づき通り抜け去ってゆきます。



ある日アナは学校帰りに村はずれの粗末な穀物小屋で、隠れて暮らしている負傷した脱走兵を発見。(かれは内戦において負け組となった共和国側の兵士でしょう。)その瞬間アナはかれが精霊だと確信する。アナはかれに真っ赤な林檎をプレゼントする。こうしてアナと脱走兵の交流が生まれる。次の日にアナは父親のコートをかれに差し出す。蓋を開くとオルゴールが鳴りだす懐中時計も。


しかし、やがて夜になり、闇のなかで脱走兵はフランコ政権の警察官たちによって射殺された。(ほんらいかれはただ市民戦争に共和国側として戦っただけのことなのに。フランコ政権の邪悪さがわかります。)もちろんその場にいないアナは知らない、かれが無残に殺されたことを。



警察は遺体を調べるなか、脱走兵がコートと、蓋を開けるとオルゴールが鳴りだす懐中時計を持っていることを発見。それがアナの父親のものであったことがわかる。アナの父親はフランコ政権下の警察で調書を取られる。もちろん父親におもいあたるふしなどなにもない。父親はアナにめぼしをつける。父親はけっして怒ることなく家族全員の食卓の席で警察から引き渡された懐中時計を取り出し、黙って静かにアナを見つめる。アナは内心あせる。なにがなんだかわけがわからない。アナは村はずれの穀物小屋へ急ぐ。見渡してもかれの姿はない。精霊がいない! 精霊はどこへ行った? アナの足元にはいくつもの血痕が残っている。精霊が死んだ! アナの心は動転している。そんな狼狽するアナの姿をいつのまにか現れた父親が後方から見ている。



アナは窮地に追い込まれ、錯乱状態で地平線に向かって走り出す。父はただ遠ざかってゆくアナを見ている。どこか遠く森のなかへ逃げ込んだアナに、やがて夜の帳が下りてくる。こうして物語は不穏なクライマックスへ向かってゆきます。アナは夜の闇のなかでいったいどんな体験をするでしょう? 不穏で物騒で恐ろしい一夜でが描かれます。



スペイン内戦後、フランコ独裁軍事政権下で、父親は蜜蜂の研究に閉じこもり、母親は幸福だった過去から離れることができず、姉のイザベルははやばやと堕落しろくでもない精神を持つなかで、アナはいったいどうやって閉じ込められた世界から抜け出し、広い世界を知り、精神的自立をなしとげ、生きる希望を手に入れることができるでしょう? その答えは、恐怖の一夜の体験、そして神秘的なエンディングで表現されています。



『ミツバチのささやき』がスペインで公開されたのは1973年。まだフランコ政権下。(フランコ政権が崩壊したのは1975年です。)ヴィクトル・エリセ Víctor Erice監督は当時30歳、デビュー作で奇跡のような映画を撮ってしまった。Luís de Pablo(1931-2021)による神秘主義的で、かつまた時に応じてスペイン的でもある音楽もすばらしい。なお、Luís de Pabloはスペイン内戦によって父親を亡くしていて。かれは1965年フランコ政権から左翼芸術と糾弾され、カナダに亡命し、フランコの死後、帰国した。





闇のなかに住んでいた民が
偉大なる光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る。
ーマタイの福音書(4章16節)




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