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なぜ、南インド料理は受難の20年を経験したの?

日本における南インド料理受容史のお話です。最初に結論を言ってしまうと、人は慣れ親しんだ味に幸福を感じやすい。それに対して、未知の味にはなかなかよろこべず、それどころかむしろ警戒してしまう。


なお、これは音楽にもいくらか言えること。たとえあるジャンルの音楽を大好きでも、他ジャンルの音楽はちっとも楽しくない、それは誰にだってあること。そもそもあらゆるジャンルをくまなく平等にまんべんなく愛している人なんて世界中に1人もいないでしょう。たとえ理念としてそれを掲げている人でさえも。ほんらい音楽は複数形として理解すべきもの。なお、自分がその対象をどれほど〈好き〉か、それはその対象をたのしむことについやす時間の多寡でわかります。食だって同じこと。



もっとも、日本人は仏教道徳を内面化していて、しかもお人よしで好奇心旺盛なゆえ、世界中のいろんな料理を食べてみたいという挑戦心に満ちあふれた人も多い。しかし、そんな人であってなお、異国の料理を食べて、「なんだ、こりゃ!??」と呆れた経験はあることでしょう。なぜって、いくら日本人とて、人の味覚はその人が生まれ育った風土やその人の食の履歴によって、趣味が形成しているものだから。


すなわち、多かれ少なかれヒトは未知なる味を警戒する。なるほど、これは動物としてあたりまえの反応かもしれません。つまり、食に保守的であることには、動物学的根拠があるのかもしれません。


(もっとも、いつの時代のどんな動物にも好奇心旺盛でおっちょこちょいな個体がいたからこそ、種が存続できたという例もある。たとえば、パンダはもともと肉食だった。しかし平野での過酷な生存競争に危機感を感じ、山間部へ逃げ込んだ。ところが山間部には手頃な獣がいない。そこでパンダはやむなくおっかなびっくりそこらじゅうに生えている竹の笹を食べはじめた。パンダは肉食、笹なんて喰えるもんじゃない。そもそも消化できない。しかし、他に食べられるものが見つからないのだから仕方がない。悲惨な日々が続いたでしょう。ところがある日あろうことかパンダは笹を消化できるように腸内細菌叢を作り変えることに成功した。こうしてパンダは種の絶滅をまぬがれた。なぜ、そんな奇跡がパンダに起こったのか? これは動物学の謎のひとつです。ただし、こういう話はあくまでも例外的ではあって、基本的には生物の食は保守的なもの。)


ここでは00年代初頭から20年にわたる南インド料理の受難を題材にこの件について考察してみましょう。


東京に南インドレストランが広まりはじめたのは00年代初頭からのこと。なお、この背景にはコンピュータの00年問題によって、多くのインドのIT技術者が来日したことがあります。これが多くの食いしん坊が南インド料理を経験するきっかけになってゆきます。象徴的にはラマナイヤ・シェフ総料理長が料理監督を務めるアーンドラ・グループを挙げることができるでしょう。



以降東京に少しづつ南インドレストランが増えてゆきます。ところが(アーンドラグループは例外としても)多くの店が多かれ少なかれ受難を経験します。それはいったいなぜだったでしょう?


(1)それまでの日本人は、1970年以降あまねく広く知れ渡った北インド・パンジャビ料理の定型にすっかり馴染んでいて、他方南インドの盛り合わせ定食ミールスを構成する料理の数かずは、まったく違う味覚の世界を構成しているから。だから、誰もがびっくり仰天した。なんだ、この酸っぱい胡椒汁は!??(ラッサム)、わちゃー、なんだこの珍妙なけんちん汁は!??(サンバル)、おいおいおいキンピラゴボウのニンジン版かよ!??(ポリヤル)、なんでプレーンヨーグルトが料理の顔して並んでるんだよ!?? おまけに紙みたいに薄焼きのせんべいがごはんの上に乗ってるやん。「なんちゅうツッコミ待ちのアホアホ料理やねん!?? わけわからんて。こんなもん人様からカネとって喰わせるもんちゃうで!」いやはや、さんざんな言われようです。 


仕方のないことだったと言えるかもしれません。なぜって、すでにすっかり日本に定着していた北インド定型パンジャビ料理とはえらい違い。定型パンジャビ料理の構成は香ばしく焼き上げられたふっかふかの大きなナン、ひとくち齧ると肉汁ジューシーでめちゃめちゃおいしい熱あつのタンドゥーリ・チキン、黄色いチキンカレー、緑もあざやかなサグパニール(純白のカテージチーズ入りほうれん草カレー)、エビカレーあたりです。カレー類は主食材がおいしさの中心となって、ひじょうにわかりやすい。しかもレシピにもまた定型があって、飴色に炒めたほんのり甘いタマネギが(サグ・パニールならばほうれんそうのピュレとあいまって、また他のカレーならば)トマトピュレと溶け合って、最後に投入される混合マサラが料理の風味を形成しています。きょくたんに言えば、定型北インド料理は、すなわち〈主食材のうまみ+トマトピュレ/ほうれんそうピュレ+マサラの風味〉でできています。もっとも、あくまでもこれは大雑把なはなしであって、細かく言えば例外的料理もぞろぞろ出てきます。


(2)対称的に、南インドミールスはどうでしょう? ほぼ主食材が存在しません。ラッサムはタマリンドの酸味+トマトの酸味+黒胡椒の風味の淡く澄んだブラウンカラーのスープです。スープの濃度はお湯の如し。サンバルはいわばダイコンやニンジンなどのスープであれこれ野菜にサンバルパウダーで風味をつけてあります。これまた主食材がありません。また、ダル(=豆のスパイシーポタージュ)これもまたあれこれの豆を使ったあざやかに黄色いポタージュ。ポリヤルはニンジンその他のココナツ風味炒め。(ポリヤルはキンピラゴボウの親戚です。)もしもヴェジミールス(野菜定食)を注文すれば、主食材なるものはどこにも存在しません。もっとも、肉系ミールスを選べばマトンカレーやチキンカレーによって主食材を楽しめますが、しかし南インドの主流文化はそうとうヴェジタリアン寄りです。


そのうえ、このワンディッシュプレートの食べ方も独特です。まず丸盆からすべての小鉢を外に出す。次に、紙の如く薄く焼ていてある円盤状のせんべいを砕いて、ごはんの上に散らします。まずは、ごはんの上に一方からラッサムを、他方からサンバルをかけましょう。そして右手の親指、人差し指、中指で混ぜ混ぜ捏ね捏ねして汁気混じりの団子状にして食べてゆきます。(なお、こういう食べ方をすると、インド人店員と会話が弾みます。ただしぼく自身は恥ずかしがり屋なので、たいていはスプーンで食べます。)ミールスを構成する約7種以上の料理は、それぞれ色も風味も振り分けてあります。酸っぱい味、玄妙な味、ココナツ風味、油と辛味が混じり合った漬物味、乳脂肪分味、甘い甘い味・・・これらを一口ごとに気ままに食べてゆくのが、ミールスを食べる醍醐味です。



余談ながら、この meals という言葉がピジン英語で、なんでまた食事を意味する meal に複数系の s がついてるの? いわば昼食を意味するlunchをlunchs と呼んでいるようなもの。ここにはインドが大英帝国に非道に殖民地化された受難の歴史が反映されています。いいえ、話題を南インド料理に戻しましょう。


つまり日本人にとっては南インド料理の構造は、これまで慣れ親しんできた北インド料理のそれとはなにからなにまで異なっています。したがって、当時の日本人の多数派には、どこをどう愉しんだらいいか、さっぱりわからなかった。ついでながら、北インドと南インドは事実上、おたがいのことを外国人だとおもっています。もっとも、インドは州自治が発達していて、公用語でさえも21あって、しかも細かく数えると700だの1200だのの言語がひしめきあっています。もっとも、これはインド人の大好きなホラ話という可能性もありますが、しかしインド人とてすべてのインド内言語に習熟している人などひとりもいないゆえ、真偽などたしかめようがありません。This is India!  もっとも日本語とて、京都弁、大阪弁、河内弁、神戸弁、奈良弁を別の言語として勘定できないこともないかもしれません。しかし、インドの場合は少なくとも21言語内では、おたがいの言語がほぼ通じませんから徹底しています。インドの公用語は事実上英語です。いいえ、話題を南インドの食に戻しましょう!


とうぜん00年代の日本人のインド料理好きは2派に分かれた。大多数の「なんだこりゃ南インド料理わけわかんねーよ」派。それに対して、わーわーきゃーきゃーよろこんで南インド料理に大絶讃を捧げる少数派。とうぜんいたるところで南インド料理是/非論争が巻き起こった。



多数派にとってはそりゃあムカついたでしょう、だって多くのインド料理好きがまったくピンとこない南インド料理に対して、一部の少数派が高円寺阿波踊りさながらに踊り踊って「食べる阿呆に食べない阿呆、同じアホなら食べなきゃ損そん♪」と絶讃しまくったもの、しかも味覚エリート意識丸出しで。これに対して、多数派のアンチ南インド料理派は憮然として言い放ったものだ、「あいつらマジ頭おかしいだろ?」



類例を挙げるならば、欧米人の(いいえ、アジア人であってなお)グルメたちのあいだで、おそらく sushi  について、多数派の保守派 対 リアル・スシ大好き派のあいだに、激論が交わされた時代があったことでしょう。あるいはいまなお。もちろん在日経験あるreal sushi大好き派は口から泡を飛ばしてホンモノの sushi のなんたるかを論じ、さぞや多数派をげんなりさせたことでしょう。双方のお気持ち、お察しします。



ここにひとつの教訓があります。まじめに料理の話をすると、命がいくらあっても足りません。にもかかわらず、黙っていればいいものをついつい本音をしゃべりまくってドツボに落ちる、これがジュリアス・スージーの生きる道? 哀しすぎます?



しかし、こういう話題もいまやむかしばなしになったかしらん? むかし南インド料理を遠ざけていた人のなかにも、おっかなびっくり何度か経験してみて、そのうち好きになっちゃった人もいるでしょう。むろんなかにはけっしてそうならなかった人たちもまた。しかし、さすがにいまや南インド是/非論争は起こりません。ぼくらはみんなとっくに真理に到達しています。人それぞれ好きな料理を好きなように喰ってりゃいいじゃん。



読者のあなたは南インドお好きですか? それとも嫌いですか? 気が向いたらコメントください。むちろんどんな意見であろうと、ぼくは尊重します。




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